人生、消去法
世捨て人のつぶやき




前にも書いたが、私は自殺する人に対して
「死んで解決するんなら死ねばぁ?」というスタンス。
(とりあえずその人個人に関してのみで、家族とかの社会関係はおいとくとしての話しね)

わたし個人は「今さら死んでももう遅い」という感じが強い。
これを言語化できたのは、大学の2年くらいだったか。

「今さら死んでももう遅い」
じゃあどうしたいのか?
「私が生まれなかったことにしてほしい」のだ。

そして、それはどうしても叶えられないものである以上、絶望になるしかない。
絶望は絶望なのだが、メタな絶望だ。
その意味で

絶望2.0

とか、書いてみたかっただけです、はい、スンマソン。

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なんか、鬱な気分がひどかったが、書いてたら元気になってきた(笑)
あんまり飛ばしすぎるのは危険だが、もうちょっと書いてみる。

そもそもなんで「有用性」というものが幅を利かせるようになったんだろうか。
元々そうだったのではないことは多分確かだろう。

じゃあ、いつ頃からその傾向が出てきたのか。
個人的な感覚だが、バブル崩壊からだろう。

バブルがはじけて長期不況に突入し
日本全体に「今までの自分たちではダメなんだ」という気分が生まれ
それは、不況が長引けば長引くほど広く共有されるようになった。
そして、じゃあどうするんだということで持ち出されてきたのが
いわゆる新自由主義的な競争社会の導入ってやつだった、とわたしは思っている。

競争社会では、「実力」が問われる。
「実力」に応じて報酬が支払われると言われたら
至極まっとうなことなので、誰も文句は言えない。

しかも、誰もがそうなればこの絶望的状況が何とかなると、
なぜか盲目的に信じ込んでいた節があるように思う。

だから、小泉首相は2005年の衆院選挙で圧勝することができた。
かくいう私も、あの選挙では自民党に入れてしまった。
後の祭りだが。

今から思えば、あの選挙で既得権益層を倒すために自民党に入れたひとびとは
かつての日本型社会主義とも言われたシステムからはじき出されたひとたちだ。
その、いまや社会システムに守ってもらえなくなった人たちが
自分たちと同じかそれ以下の実力しかない(ように見える)
いまだ守られている人々への「近親憎悪」の表現として
小泉自民を応援したのではないかと思われる。

ま、小泉自民の分断統治は大成功だった、と。

話を戻す。

そもそもバブルがはじけたあと、長期不況があったとはいえ
なぜ、「実力社会」を選びとることになったのだろうか?

別にバブルなど
「いやぁ、調子に乗りすぎちゃったね。もっかいまじめにやろうや」
という軌道修正をすればよかったのではないだろうか。

しかし、そうはしなかった。できなかったというべきか。

長期の不況にしたって、
「むかしみたいにコツコツやろう」という対策だってあり得たはずだが
(その有効性は別問題として)
そういう議論はあまり聞かれなかったように思う。

プロジェクトXみたいな、過去のノスタルジーに浸る番組が人気を博したりしたが、
あれも「むかしはよかったね~」というスタンスであって、
今からもう一回あんなふうに頑張ろうなんていう感じは(少なくともわたしは)受けなかった。
失われた青春を懐かしむ、みたいな感じだったと思う。

確かに個々のエピソードの多くは胸を熱くするものだったのだろうが
なんか喪失感の漂う、悲壮な番組だったともいえなくはない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

なぜこうなったのかは、正直よくわからない。
陰謀論めいたこともいえそうだが、根拠になるようなものもないし。

「有用性」それ自体は悪ではない。
むしろ、それまでの日本にしみついた悪平等をただす上では、
キッチリと導入して定着させるべきものではあっただろう。
ただ、それが全てということにしてはマズい。
まして、人間として必要な最低限の尊厳までも切り崩してしまうような
そんな「有用性」の使い方は、やはり間違っているだろう。

いま重視されている「有用性」というものは、
かなりの短期的視点によるものだ。
とりあえず、今のこの不況から脱するために「役に立つ」こと。
しかし、これをもっと長期の視点から
人間全体、そして個々の人々の幸福というものを考えれば
少しは違う働き方をするようになるのではないか?
(なんかありきたりな意見になってきてしまったな・・・)

ま、なんかオーバーヒート気味なので、今日はこのへんで。

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今の世相ってやつは結局、「有用性」だけを物差しにして
すべてのひとを序列付け、多くの「役立たず」を切り捨てているのではないかな、とふと思った。

ニートやフリーター、引きこもりの問題の背景には
まさに自分がこの「有用性」という物差しだけで測られることへの
嫌悪・不安というものがあるのではないか。

また、フリーターなどに「自分探し」系が多いというのも
今現在の自分の有用性の低さを直視できないので
自分の有用性に関する判断を未来に先延ばしにしているからではないか。

つまり、有用性を手に入れた想像上の未来の自分の姿こそ
本当のわたしだ、と思うことによって
かろうじて活動するエネルギーを引き出しているのではないか。

わたし個人は基本的に「自分探し」というものについては
自分なんか探したってねーよ、という否定的な立場だが
今の日本という状況下では、「生物として生き残る」戦略として
こういうロジックを使うことには仕方がない側面もあるかな、と思う。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「有用性」を測られるといういまの世相だが
もともと自己肯定感の強い人々は
そういった「測られる」ということに対して
あらかじめ「自分は大丈夫」と思っている。
(同語反復になっているが)

だから、そういう世の中に出ることは特段不安を煽るものではないし
むしろ、「俺ってどのくらいほめてもらえるんだろう」というような
ある種のおめでたい「正のループ」をエンジンとして生きていくことができる。
さらに、能力が伴っていれば、ますます頑張ろうと思うだろう。
(もちろん落ちこぼれるやつも出るだろうが)

これに対して、自己肯定感の低い人々は
説明するまでもないが、この逆の成り行きとなる。

なんかこういう状況がここ数年の日本の中で常態となりつつあるが
そもそも、この地球上に人間が存在し、生きるということはこういうことなのか?

わたしは違うと思うし、同じように考える人だって多いのではないか。

しかし、状況は厳しい。

有用性だけを物差しとする社会の中で
まさに有用性の低い人間がみずからの存在価値を取り出すのは
論理的に言って無理だからだ。
そして、今、有用性に変わる価値観を私たちは持っていない。

もはや、無言で引きこもることしかないと考える人がいても
わたしはその人を非難する気にはどうしてもなれない。
わたしもそのひとりだという思いからだが、
その一方で、このままではダメだろうという思いもある。

ここが難しいところだが、このブログなんかをやってるのは
なんとか解決の糸口を見つけたいというささやかな試みなのかもしれない。

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最近鬱気味だ。
特に今日は調子が悪い。
雨嫌いにはつらい毎日が続いているところに
人間関係とやらがうっとうしくつきまとう。

で、鬱々と毎度のようにおんなじようなことを
堂々巡りとわかっていながら続けるしかない。
ま、だから鬱なんだが。

メモ程度に残しとくことにする。

ここのところ親の子殺しや
その逆の子の親殺しが続いている。

なんだかなぁ、と誰もが思っていることだろう。

この時の「なんだかなぁ」という気持ちには根拠があるのか。
この「なんだかなぁ」は、親子のあいだの愛情というものを前提する
一種の思い込みに起因するのではないか。

で、愛情とは本能なのだろうか、と思ったわけだ。

多分違うんだろうな、と思う。
それはおそらく「学習する」ことで身につける
ある種の「技術」なのだろう。

ただ、この「愛する」という「技術」に備給されるべく
何がしかの心理的なエネルギーのようなものは
本能的というか、生得的に備わってはいるのだろうともおもう。
リビドーってやつ?

ま、わたしにはよくわからない。

岸田秀なんかはどうやって普通に恋愛して結婚したんだろう、とふと思う。
だって、反復強迫的恋愛を自己分析で乗り越えたからといって
自動的に「ふつうの」恋愛ができるわけではあるまい。
不都合な神経症さえ取り除けばふつうに恋愛できるというなら
結局、本来の恋愛は本能なんじゃん!っていうことになるし。

やっぱり、よくわからない。

しかし、考えてみるに、恋愛だとか夫婦だとか親友だとか
その基礎にあるのは相互承認であるようには思う。

わたしはそれができない。
根深い自己否定と、その裏返しである他者からの逃避。

投げかけられた笑顔はわたしには返済できない負債となってのしかかってくる。
返済できない以上、わたしはそこにとどまっているわけにはいかず
夜逃げ同然に、その相手の前から姿を隠す。
もしくは、わたしが望まぬ借金を押し付けて来たやつということで
嫌悪し、恨み、拒絶する。

そんなこんなの繰り返しだ。

このまま死んで行くのだろうか。
だとしたらあまりにむなしいが
仕方がないのだろうな。

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うまくは言えないのだがメモ程度に。

精神分析では、無意識の働きというか動き方というか
そういうものを意識化できれば、あとはなんとかできんじゃね、みたいな
ま、単純化し過ぎっていう批判はごもっともってことにしてですね
そういう楽観的な考え方があったわけですが
どうもそれではうまく行かないんじゃね、みたいな・・・

で、何が言いたいかというと
我々の生きている「意味」の網の目を編み変えるためには
なにがしかの「儀式」が必要とされるのではないか
ということだ。

その「儀式」そのものは意味がない。
より正確には、意識にとっては意味がない。

しかし、身体のレベル
そして、(かなりの暴論なのだが)物理的なレベルでこそ
その「儀式」は意味をもつようになるのではないだろうか。

やはりうまくいえないので
またの機会に・・・

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おいおい、頼むよ。
「自分探し」なんていう言葉復活させんなよ・・・

また、勘違いするアホが大量増殖する予感。

まぁね、中田の場合はさ、いいんだろうけどさ
だって、やりたいことやってりゃ、それなりに生きていけるわけでさ。
で、身の程知らずのアホが、中田のまねして自滅、と。

本当にありがとうございました。

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互酬原理と言えば、あれだ、レヴィ・ストロースだな。
文化人類学ってやつ。
読んだことないけど(爆)

彼(か)の説では、女性を交換するためこういった「構造」が存在するわけだが(うろ覚え)
これはなんか、もっと広いのかもしれないな、と。

受けた恩義は返さなきゃ、ってのは、分かるような気もするけど
その半面、世のなかじゃ、そんな恩義なんておかまいなしってやつも多いわけで・・・

しかし、ふと思った。
逆なら非常に分かりやすい、と。

「復讐」だ。
なぜか、これは「なぜ、そうするのか?」ということが問題にされない。
当たり前だと、みな、思うからだ。

なぜか?
わからない。そういうものなんだろ。
良いことでも悪いことでも、人間というものは
次へとリレーせずにはいられないようだ。

やられたことを自分ではない誰かに繰り返す。
それは、学習というものの原型なのであろうし
文化というものの成立原理でもあるのだろう。
そして、それはすべての幸福と不幸の源泉なのかもしれない。

フロイト説はいうに及ばず、結局のところそういうことなのかもしれんね。

では、なぜわたしはネガティブな面ばかりで繰り返すのか?
それはまた今度ということで・・・
では。

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くだらん・・・
なんでこんなんが、こんなにブクマされるんだよ、全く。
http://www.arai516.com/blog/2006/07/post_e7bc.html

9割が泣いたそうで。
そうですか。あーそうですか。
世のなか平和でいいですね(微笑)
つーか、逆に怖くなるが・・・大丈夫かよ。はてなでこれじゃあさぁ。

分からん人はfinalventの日記でも読んでおくんなまし。

それでも、すこしはなんか言っとくか。

人間はさ、やられたらやり返すものなんだよ。
良くも悪くもね・・・

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