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北嶋誠のブログ

私の考えていること、言いたいことなどなど。

障害者は災害弱者 どうにも逃げられない

2014年10月25日 12時01分33秒 | Weblog

9月14日、水戸市福祉ボランティア会館ミオスで、茨城視生会の講演会&納涼会が
あった。
 茨城視生会の特徴というか、私の気に入っているところは、総会であろうが、講演会
であろうが、コンサートであろうが、視察研修であろうが、必ず懇親会が付き物である
ということである。
 懇親会の付いていない催しものといえば、お酒と料理を楽しむ会や、今度の講演会&
納涼会のように、初めから宴席が設定されている行事である。
 つまりは、集まるたびに飲んでいるということになる。
 それはともかく、有賀絵理さんの講演は、天災人災が相次ぐ昨今だけにタイムリーな
ものである。そして、障害者の切実なテーマを、同じ障害を持つ立場から、分かりやすく
お話ししていただいた。
 講演のテーマは、「災害時要援護者の制度と問題点について」で、講師は茨城大学講
師の有賀絵理さん。
 自らも障害を持ち、車いす生活をしながら、福祉行政の充実を求めて活動している。
 東日本大震災でも、障害者の死亡率が倍以上もあったということからも明らかなよう
に、災害時の障害者は、非難することが極めて困難なだけではなく、即時に生命の危機
の渦中におかれてしまうのである。
 現在市町村で、災害時要援護者制度のアンケートがとられている。この制度の対象者
は、市町村によっても差があり、要援護者の登録台帳の調査方法についても、障害者に
も民生委員にも事情がよく分からない状況だとのことである。
 まず市町村の担当者にあって、制度の内容をよく知ると同時に、アンケートや台帳に
ついても説明を受けなければ判断し難いものである。
 障害者権利条約の批准国となり、程なく障害者差別解消法が施行されるというこの期
に及んで、「私たちのことは私たち抜きに決めないで」という権利条約の精神にも程遠
く、まだまだ旧態依然とした行政主導で進められている。
 法整備をしたから良いということはなく、心のバリアフリーを広げていこう。
 そして、ハンディを乗り越えて、障害者自身の要求と活動が今後の動向の決め手とな
ってくる。
 以下に、有賀さんの著書を紹介する。

 著者  有賀絵理
 書名  「災害時要援護者支援対策」 ー 心のバリアフリーを広げよう
 出版  文眞堂
 定価  1296円(税込)

広島長崎で何を語る

2014年08月15日 21時58分10秒 | Weblog

 被爆69年を迎えた6日の広島、9日の長崎の平和式典で、安倍首相が何を語るか注
目していた。
 いやむしろ、憲法九条と立憲主義を踏みにじり、海外での戦争へと向かう集団的自衛
権の閣議決定を強行した安倍首相としては、語る言葉を選ぶのが困難なのではないかと
さえ考えていた。
 ただでさえ、昨年の式典での発言で、歴代首相が「日本国憲法を順守し」と語ってい
たものを、初めて外したことで、広島長崎市民のみならず、平和を願う国民の感情を逆
なでることになった。
 そして今年の平和式典では、昨年と今年のスピーチ内容が、広島長崎ともにほとんど
変わらない、いわば使いまわしということが問題になっている。
 例え、昨年と今年のスピーチの文言が寸分違わないとしても、それが何の問題がある
のかと、受け流してしまうわけにはいかない。
 ましてや、このところの安倍首相の政治姿勢を顧みても、平和式典の意味や平和への
願いを軽視していると言わざるを得ない。
 戦争をする国づくりを進めておきながら、何を白々しくという思いにもなるだろう。
 広島式典終了後、被爆者の代表7名が、集団的自衛権の行使を容認する閣議決定の撤
廃を要請したところ、睨み返しながら、「国民の命と暮らしを守るための抑止力だ。戦
争をするつもりなど毛頭ない。」と突っぱねたという。
 日米同盟による抑止力とは、米国の核の傘の下のことであり、つまりは核武装の容認
である。
 ここにも、被爆者感情を逆なでする安倍首相の本音が見える。
 広島の松井市長は、「69年間、平和憲法の下で戦争をしなかったことを重く受け止
める必要がある」と述べた。
 9日、田上長崎市長は、集団的自衛権にも言及し、「戦争をしないという平和の原点
が揺らぐ不安がある。」と、ニュアンスは違うが安倍首相に注文を付けた。
 もちろん広島長崎市民被爆者の思いはこんな表現ではすまないということを、首相は
肝に命じるべきなのだが、そのためには国民全体の運動にしていかなければならないと
思う。
 そもそも安倍首相は、自民党でも極右の位置にあり、平和式典には相応しくないし、
自身も出席して、心にもないことを語りたくはなかっただろう。


憲法フォークジャンボリーin東京 2014

2014年08月15日 21時55分10秒 | Weblog

 憲法ークジャンボリーin東京は、8月1日から3日にかけて東京労音大久保会館RS
アートコートで開かれた。
 ヒューマン・ファーマーズは、第三日目の3日(日)に出演し、「米を作って飯が食え
ねえ」と「平和の暦」を演奏した。
 演奏者は、北嶋誠、佐藤せいごう、久保田秀幸、大泉和美、それに今回が二回目の出
演である日雇いメンバーの佐古明夫という顔ぶれとなった。
 二曲目の「平和の暦」では、増田康記、いわき雑魚塾の皆さんの応援も受けて、賑やか
に演奏ができた。
今年の憲法フォークジャンボリーでの演奏は、この東京だけになる公算が大である。
 もちろん、憲法九条を形骸化し、戦争をする国づくりを目指す安倍政権が、集団的自
衛権行使の容認を閣議決定し、戦争か平和かの歴史的岐路にあることは、百も承知の上
でのことである。
 したがって、憲法フォークジャンボリーはますます出番の時であることは確かなのだ
が、被災者支援コンサート、原発なくせコンサート、非核平和コンサート、食と農のコ
ンサートetc、とテーマが多いだけではなく、長いたたかいに備えて、ここはじっくり
と計画的に進めていかなければならない。
 しかも来年は、敗戦70周年、広島長崎の被爆70周年の節目を迎える。この70年
間の平和の時を、子どもたちに伝えていくために、もう来年に向けての準備を開始して
もいい時期だと思う。
 そうは言っても、今年も定期開催をしていただいた東京ジャンボリーの皆さんには敬
意を表したいし、今後も協力し合っていきたい。
 今回の東京ジャンボリーは、情勢を反映してか、参加者が多く活気溢れるものとなっ
た。
 ただ一つだけ意見を言わせていただければ、青年の出演も多く、広範なジャンルの演
奏があったにしては、個性や創造性ということではやや乏しさを感じた。
 継続は力である。来年に向けて、大いに期待したい。


まだまだ大事な港湾輸入食品見学

2014年08月15日 21時50分45秒 | Weblog

7月31日に、毎年恒例の茨城県西食健連主催による横浜港輸入食品実態見学のバス
ツアーが行なわれた。
 この見学ツアーを始めてから、かれこれ23年か24年になるだろう。
 そのほとんどに私は参加してきたが、現在のように農産物輸入の形態が多様化してい
る下でも、輸入農産物の不安な実態を考える企画としては、決して色あせてはいない。
 むしろ実態を知るための入門編として、今後も継続していく価値は大いにある。
 思い起こせば、私が輸入農産物の不安をはじめとしてその実態について話を聞いたの
は、確か1972年だったと思うが、学生時代の北海道での美土路達雄先生による講義
だった。
 1970年代後半には、農協青年部などの活動で、農産物輸入自由化阻止、米価闘争
などの運動を始めた。
 1980年代になると、米国の圧力や経団連の要求などによって、農産物の市場開放
は一層拡大された。
 1994年のWTO協定批准で、とうとう例外なき関税化が押し付けられた。
 そして今は、TPP交渉による例外なき関税撤廃要求で、全面市場開放を迫られてい
るのはご存知の通りである。
 このよううな歴史の過程で、食と農を守る運動が大きく動き出したのは、1984年
に農民連の前身でもある農民運動の全国センターを考える懇談会(農民懇)が結成され
てからである。
 この運動の最大の特徴の一つは、食と農を守る国民的合意の運動を呼びかけることに
あった。
 この頃から、港で働く労働者と、これを支援する農民の共同運動が始まり、これが後
の食健連運動に発展していく。
 特に、この国の食と農を守る共同運動をスタートさせるにあたっての大きな原動力と
なったのは、安全性に問題の多い輸入農産物を告発する「それでもあなたは食べますか
」という衝撃のビデオ制作と、港に野積みされている輸入農産物見学ツアーである。
 港見学は1986年から、全税関労組や港湾労組によって始められている。
 農民懇の提唱に共感した運動に参加した私は、1988年に茨城県西農民センターを
結成し、1989年に農民運動全国連合会結成に参加。
 1991年に全国食健連が結成されると間もなく、国民の食糧と健康を守る運動茨城
県西連絡会(略称・茨城県西食健連)を結成し、地域での運動も開始した。
 茨城県西食健連は、安心でおいしい国産農産物を食し交流することを基本に据えて、
学習講演会、港見学、収穫祭を主な活動として、ここまで継続してきた。
 今年もまた、港湾の輸入野菜を見分し、税関労組員のお話を聞き、最後は横浜中華街
で輸入食品?を食べるという、毎度お馴染みの日程をこなしたが、とにかく継続が第一
である。
 日本農業が衰退し、食糧自給率の低下、食の不安の増大が止まらない現状を思えば、
まだまだ今後も大切な運動であることに間違いない。

創作をさらに

2014年08月15日 21時43分41秒 | Weblog

このところの3年間は、東日本大震災と福島原発事故の被災者ともなったことから、
当然の如く、それに対応して歌づくりにも励んだ。
 ただ、未曽有の大震災直後の状況は、さすがに気持ちのうえでやや動揺があったこと
は否めない。
 また視覚障害者という、いわゆる災害弱者としての苦難を克服していくために、たた
かうことで精いっぱいの日々でもあった。
 そんな時でも、私を奮い立たせてくれたのは、農民運動やフォークソングの仲間たち
の存在と動向であった。
 3日後に停電が修復されてから、すぐさま電話した農民連本部では、全国の農民など
に呼びかけ、被災地の住民を救済する活動を既に開始していた。
 さらに、笠木透と雑花塾でも、大震災と原発事故をテーマにして、歌づくりと演奏活
動を取り組もうという情報が入ってきた。
 それでも、大震災直後の雑花塾歌づくり会には、まだまだ混乱の続く状況にもあって
、参加することができなかった。
 むしろそのことで、かえって創作意欲が湧いてきたようにも思う。
 ともかく、震災後の笠木透さんからの創作呼びかけもあり、また私自身としても、大
被害を蒙ったこの現実を、このまま黙って生きていくわけにはいかないと思い立ち、創
作を開始した。
 そうは言っても、もとより才能が無いだけではなく、障害者としては、情報を得るこ
とや創作の実務そのものにも不自由さが付きまとう。
 これは私自身のことだけなら、単なる愚痴ととらえていただいて構わないのだが、
障害者の差別をなくし、権利向上や自由を求める立場からは、健常者には理解していて欲
しいことである。
 とりあえずは、意図的な情報隠しや偏向報道がまかり通るという中でも、正確な情報
を得ることに努めた。
 被災地の福島県南相馬で、安心な農産物をと有機農業を営み、産直を取り組んでいた
三浦広志さん。フォークソング仲間で、いわき雑魚塾の比佐和美さん等、まず親しい彼
らの声を聴くことから始まった。
 そして、7月には「被災者の声を聴き被災地の現実を知ってほしい」と福島県飯舘村
の酪農家である長谷川健一さんの講演を聞いた。
 優れた作品などできる自信はもちろんなかったが、福島の人たちと自分自身の思い
を重ね合わせながら、とにかくこの思いをどのように伝えるかが肝心だった。
 結果として、「よみがえれ浜通り」や「ふるさとを汚したのは誰」を皮切りに、秋口
までになんとか5曲ほどできた。
 思うようには創作できなかったが、それでも、これらの歌があったお蔭で、コンサー
トの多い秋、大震災一周年や「なくせ原発」集会などでの演奏活動をやりきることがで
きたし、福島の被災者支援演奏活動も実現できた。
 その後は、ボチボチ作りながら現在に至っている。
 さて現在はというと、相変わらず福島の将来展望は真っ暗闇の中。政府による戦争す
る国づくり、大増税と負担増によりどん底に向かう暮らし、そしてわが農業は存続の危
機と、絶叫したいほどの数々の課題の中に、私たち自身が埋没しているような状況で
ある。
 仮にもフォークソングを自認するヒューマン・ファーマーズとしては、ここで再決起し
なければならないだろう。フォークシンガーの端くれを何人集めても、所詮は端くれに
違いはないのだが、その端くれ一人一人が尊重される社会を目指して歌うのがフォーク
シンガーだと思う。
 いよいよ、新たな創作に向けて、もがき苦しむことだろう。これも一人の人間として
のたたかい方の一つである。
 だから、わがヒューマン・ファーマーズのメンバーなら、最初からサジを投げる人はい
ない…と信じたい。

パソコン交流会とパソボラ結城・2

2014年06月12日 21時42分12秒 | Weblog

 視覚障害者が、音声パソコンを学び活用していくために、立ち上げたもう一つの会が
パソボラ結城である。
 視覚障害者にとっての三つの不自由といわれるものの一つに、情報・読み書きの不自
由というのがある。これを克服するために約七年間ほどお世話になったパソボラ茨城が
、残念なことだが昨年に解散してしまった。
 私が、曲がりなりにも音声パソコンを習得できたのは、茨城県がひらいた視覚障害者
IT教室に何度か参加したことと、その後のパソボラ茨城に入会して活動してきたことに
よる恩恵だともいえる。
 そのため、今度のwindows8へのパソコン更新に対応して、前パソボラ茨城会員で、
結城市在住の肢体不自由者Tさんと協力して、今度はパソボラ結城を立ち上げることに
なったのである。
 これは、パソコン交流会のような、特定組織内活動とはまた違って、視覚障害者によ
る音声パソコン技術向上の、サポートボランティアを基本とする任意の会である。
 これには視覚障害者のみならず、健常者の参加も必須となってくる。
 また結城市のみならず、近隣市町村の障害者や健常者にも呼びかけたい。
 私の知る限りでも、まだ多くの視覚障害者が、音声パソコンの活用を希望していて、
これに対応した支援指導体制が、ほとんどとれないというのが実態である。
 今年ようやく、国連の提唱した障害者権利条約を批准し、来年には障害者差別解消法
が施行されるというのだが、まだまだお粗末なこの国の福祉政策は、これが現実なのだ
と認識しておかなければならない。
 法整備に基づく障害者権利向上の運動も、当然のことながら進めるとともに、障害者
自身が、もちろん能力には限界があるにしても、積極的社会参加が求められるだろう。
 こういう状況の中でも、県西地域の視覚障害者協会支部の解散が相次いでいるという
のは、近年障害者運動が向上しているにもかかわらず残念なことである。
 今度のパソボラ結城では、県西地域の点在会員や未組織障害者にも声をかけられるよ
う、何かと手立てをとていくようにしたい。
 現に、パソボラ結城やパソコン交流会に入会してきた視覚障害者の女性が、前向きで
活気あふれる姿を見て(見えないので想像して)、このパソボラ結城とパソコン交流会
はしっかりと軌道にのせていきたい。

パソコン交流会とパソボラ結城・1

2014年06月12日 21時35分55秒 | Weblog

 windowsXPからwindows8へと更新しなければならないのは、マイクロソフト社がXPの
セキュリティーサービスを止めるからだなどとかの理由が揚げられてはいるが、私たち
には理解に苦しむばかりだ。
 かつてレコードからCDに変わった時も、最近ではカセットテープからデイジーに代え
られてきていることも、たとえ化学は進歩するものだと言われても、所詮は大企業の利
益のための、いわば企業戦略ではないかと思ってしまうのは私だけではないだろう。
 そう思いながらも、ためらわずにwindows8を購入してしまった。旧パソコンの動き
が重くなってきたこともあって、この辺が潮時かとも思ったのである。
 そうなれば、新パソコンに早く慣れなくてはならない。
 ちょっと前から、障害者仲間などとも相談していた、音声パソコンを使いこなすため
の勉強会を開いていくことになった。
 その一つが、視覚障害者協会結城支部内で始めたパソコン交流会である。会員の要求
を引き出すとともに、会員拡大に結び付けようというものであった。
 この5月24日で第3回になった。
 今のところ、市の広報紙で知って入会した女性と、私も含めた現会員2人の、合計3
名で進めている。
 個人情報保護法の関係で、視覚障害者のリストは手に入らないため、市の広報紙や
ケーブルテレビにも取材していただいてPRしていく方針である。
 僅か三名の会員と、2名のサポート者、ガイドヘルパーが2~3名という顔ぶれで、
毎月第3水曜日の午後1時から4時まで開いている。
 場所は市役所分庁舎の一室をを拝借して、視覚障害者やら車椅子、それにヘルパーさ
んたちが、あたふたと会場準備を進めながら何とかやっている。
 因みに、障害者協会の事務局を担当している社協の職員の間では、とても生き生きと
楽しそうにやっているとのことで評判になっているようだが、私たちにとっては、生存
権や人格権などのかかった真剣な活動なのである。

第21回百里田植え交流会 い・ザ・田植え

2014年06月12日 21時24分44秒 | Weblog

 茨城県小美玉市に、航空自衛隊百里基地がある。その東側の中ほどに、基地内に入り
込んで、誘導路をくの字に曲げている百里反対同盟の農民所有の土地がある。
 ここを百里平和公園といい、基地反対運動の象徴であり最前線ともなっている。
 田植え交流会は、この反対の西側にあり、百里基地反対同盟前会長宮沢昭さん(故人
)の所有地を新規開田して行われてきた。
 満蒙開拓義勇軍として、満州(中国東北部)に送り込まれた宮沢さんたちは、太平洋
戦争末期の1945年8月、突然にソ連軍の侵攻を受けた。
 満州国を統治していた関東軍(日本の正規軍)は、いち早く逃走し、宮沢さんたちは
、日系民間人らとともに、現地に置いてきぼりにされた。
 そして日本は敗戦、中国共産党と国民党の内戦が始まる中、命からがら日本に逃げ帰
ってこれたという。
 そして戦後、旧小川町の百里が原を開拓して農業を始めた。
 ところが再び、ここに航空自衛隊基地を建設するから立ち退けという。二度も国と軍
隊には騙されないと、この時から基地反対闘争は始まった。
 これは、農民たちの生活や人権を守ることだけにとどまらず、私たち国民の平和や農
業を守るたたかいでもあり、かれこれ60年も続けられている。
 ずっと以前から田植え交流会は行われていたようで、今年で21回目の私たちの運動
は、まだまだ序の口である。
 1993年の、未曾有の大冷害、米パニック、外米の緊急輸入という年、まさにここ
でたたかうべくして、私たちは農民連青年部を結成していた。
 そして翌1994年、WTO協定批准阻止のたたかいの中、茨城農民連青年部の提唱で

この田植え交流会と秋の稲刈り交流会が開始されたのである。
 農民連青年部の他、百里平和委員会、全教青年部、うたごえ協議会、民青同盟、それ
に百里基地反対同盟という構成で活動してきたが、今年で満20年になった。
 天候や苗の状況によって左右されることの多い活動だが、今年も、5月18日(日)
に予定通り行うことができた。
 田植えや稲刈りの実践の後、地産地消農産物を思いながらの交流会を、百里公民館や平
和公園を会場に行なってきた。
 交流会は、食と農や平和を守る運動交流の場というだけではなく、青年の出会いの場
でもある。
 百里基地反対同盟の代表から、基地や運動の歴史と現状を語っていただき、ヒューマ
ン・ファーマーズの演奏も恒例となっている。
 今年は、長年運動してきた平和委員会と反対同盟代表の方から、この20年間の活動
に対して、お褒めと激励の言葉をいただいた。
 この20年間、地道に活動を継続してこられた皆さんに敬意を表したい。

GWも瞬く間に過ぎて

2014年06月12日 21時19分55秒 | Weblog

 酪農家にとっては、休日にならないゴールデンウィークは、通常の仕事のほか、様々
な行事イベント事があり、お客様も来るなど、ありがた迷惑というよりも、むしろ無い
ほうが良いくらいに思っている。
 まあ、こんな愚痴をきいてもはじまらないし、そんな中でも、これまで何とか楽しみ
を入れながらやってきたのだと、自分に言い聞かせながら、今年も乗り越えてきた。
 それにしても、4月下旬に菜の花の森交流会(これまでは菜の花まつり)が終わると
、そこから一気に連休は過ぎてゆく。
 メーデーやら憲法記念日は、毎年出動することに変化はない。ただメーデーについて
は、茨城県西農民センターの会長を退いてからは、ヒューマン・ファーマーズの出演依頼
でもないかぎり、5月1日は視覚障害者関係の食事交流会が定例化されているので、そ
ちらに出席することにしている。
 ところが、今年は何と酪農振興協議会の総会が入ってきたので、やむなく参加するこ
とになった。これこそメーデーも連休もない、酪農家らしい選択である。
 憲法記念日は、憲法改悪を企む安倍内閣ならぬアブ内閣のおかげ様で、水戸市での
憲法フェスティバルには必ず参加して、ヒューマン・ファーマーズの演奏で、戦争の放棄
を表現することにしている。
 連休の終盤は、家でゴロゴロしているか、ギターかCDかパソコンか、というところで
ある。
 その後は、中旬には百里田植え交流会があり、月末には全国食健連の総会があり、そ
の間にも各総会やイベントがあり、5月は瞬く間に過ぎていくのである。
 もちろんこの間は、一般農家も田植えやら農作物の作付けから収穫など、農繁期でも
ある。
 瑞穂の国といわれるこの国土と国民を、稲作を中心とした小規模家族農業が支えてき
たのである。
 しかし、その裏では農民の努力をあざ笑うかのように、TPP交渉の妥結を目指し、国
内農業構造改革などと、農業リストラ合理化の策動が渦巻いていることを決して忘れて
はならないのである。

新パソコン windows8

2014年06月06日 17時03分39秒 | Weblog

 このところブログの書き込みがなかったのは、例によっていそがしかったり、面倒に
なったりということが原因ではないのである。
 windowsXPが使えなくなるとか不便になるとかの情報があちこちから寄せられ、図ら
ずも世間の波に乗せられて、windows8を買う羽目になったのである。
 後で考えれば、ただちにXPが使えなくなるということではなかったということなので
、あわてることはなかったのだが、今使用しているパソコンがかなり不調になってきて
もいたので、止むをえないと思うことにした。
 それでこの間、どんなパソコンがいいのか問い合わせをしたり、実際にパソコンや各
種ソフトの入手にも一定の時間が必要となった。
 とにかく、元パソボラ茨城の方、パソボラ結城の方、全視協から高地システムに至る
まで、あちこちと問い合わせして、4月18日にようやくwindows8PCを入手した。
 皆さんのアドバイスを受けて、15日に勇んでPC購入に出かけたが、Y電気もK電気も
手ごろなPCは在庫無しということだった。
 その理由として、①各メーカーが、新機種発売をひかえて、これまでの機種の生産を
終了したこと。
 ②消費税増税前の、駆け込み需要が増したこと。
 ③windowsXPから8への切り替え需要が殺到したこと。
 など、幾つかの理由が重なったことがあげられた。
 そこで止む無く、あちこち探して取り寄せていただくことになったのである。
 それから、初期設定、PCトーカーなどソフトの購入、データの移動など、やることが
多々あった。これらのことは、新たに設立したパソボラ結城の仲間にお願いしてアドバ
イスを受けたり、設定していただいたりした。
 新PCを入手できて先ずは一安心なのだが、これからまだスキャナーの取り付け、一部
データの移動などが残っている。
 新パソコンの操作を始めたのは、結局は5月中旬になってしまったのだが、キーボー
ドの位置が数箇所変わっただけでも、これに順応していくにはさらに時間がかかりそう
である。