ブログの前回のページに書いた「2,009年ヒューマンファーマーズ活動方針」で、大事なことが一つもれていたのでここで補足報告しておきたい。
多喜二百合子賞作品、旭爪あかね著の小説「稲の旋律」(新日本出版社刊)の映画化が決定し、製作が開始された。春には撮影も始まり、12月より公開の予定である。
映画のタイトルは「アンダンテ~稲の旋律~」で、内容は原作に沿って「ひきこもり問題や食料自給率など、現代の身近な問題を鋭く抉る云々」となっている。
監督や主役も決まり、製作協力の取り組みが開始されたため、ヒューマンファーマーズとしても、この映画の製作と普及に協力していくことにしたい。
当面の具体的な活動としては、prと製作協力券の普及だが、今後の取り組みにあたって、各界諸氏にご協力をよろしくお願いしたい。
当然のように茨城県西農民センター、茨城県西食健連、ゆうき菜の花の会、かるちあ農園などの組織やサークルなどでも支援協力について検討するであろうと思われるので、これらとも連携していきたい。
映画の配給は12月からを予定されている。実行委員会を募って取り組みが始まるのは早くても秋ごろか。また実際に上映ッ去れる時期は12月以降、来年からが本格的になるだろう。実行委員会には、地域の映画鑑賞団体などの文化団体や市民団体などにも呼びかけたい。
私たちと旭爪さんとの結びつきは、1998年6月に私がクモ膜下出血で倒れ入院し、我が家の農業経営がピンチに陥った時、巻き起こった菜の花応援隊(援農隊)の活動のことがそもそものきっかけになる。
援農隊の滑動に感激した出版社の社長が、これを是非ドキュメンタリー本にしたいと思い立ち、その執筆者として白羽の矢を立てられた作家が、当時まだ新人と言ってもよいころの旭爪さんであった。
98年の9月、本のいずみ社の蛭川社長に同行してきた旭爪さんに、茨城県西農民センターの事務所で初めてお会いした。
以後取材が始まり、最初は1年か2年で完成すると予想されていたが、何しろドキュメンタリーということで、事実関係の取材に膨大な時間がかかってしまった。
そのような事情もあったため、結局のところは、2003年6月の発刊となり、5年の歳月を擁することになった。だがこのことが、結果として私たちにとっては、貴重な学習と経験を積むことになった。
そして完成した作品が、「菜の花が咲いたよ」(本のいずみ社刊)である。「稲の旋律」は、「菜の花が咲いたよ」より後に執筆が始まり、「菜の花が咲いたよ」より先に発刊され、多喜二百合子賞を受賞している。
だから援農に関わった人たちとの交流が、「稲の旋律」の成功に少なからず影響を及ぼしているのではないかと私は思っている。
であればこそなおさら、私たち自身の思いもこめられた映画として、成功させていきたいと思う。
旭爪さんは「菜の花が咲いたよ」のあとがきによせてでこう記している。
この記録が、日本の農民運動とそれに携わる人たちについて、伝える資料のささやかな一部となり、これから先、北嶋さんご一家と菜の花応援隊の皆さんが、様々な困難や辛い現実にぶつかった時、「自分たちはこんなことをやってきたんだ」「こんなにたくさんの仲間がいたんだ」と思い出すきっかけの一つになればと願っています。
そして、お読みいただいた方に、僅かでも新しい情報や、この時代にこの国で生活していくうえでの希望を提供することができるならば、これほどうれしいことはありません。
菜の花応援隊の滑動が巻き起こった時から10年半の年月が経った。このことば通りにこの間に幾多の試練や困難が押し寄せ、それらを仲間の絆を糧として乗り越えてきた。そして、旭爪さん自身もそうであったのではないだろうか。
これからも激励し合い協力し合い、ともに学び成長する関係でありたいと願っている
。
多喜二百合子賞作品、旭爪あかね著の小説「稲の旋律」(新日本出版社刊)の映画化が決定し、製作が開始された。春には撮影も始まり、12月より公開の予定である。
映画のタイトルは「アンダンテ~稲の旋律~」で、内容は原作に沿って「ひきこもり問題や食料自給率など、現代の身近な問題を鋭く抉る云々」となっている。
監督や主役も決まり、製作協力の取り組みが開始されたため、ヒューマンファーマーズとしても、この映画の製作と普及に協力していくことにしたい。
当面の具体的な活動としては、prと製作協力券の普及だが、今後の取り組みにあたって、各界諸氏にご協力をよろしくお願いしたい。
当然のように茨城県西農民センター、茨城県西食健連、ゆうき菜の花の会、かるちあ農園などの組織やサークルなどでも支援協力について検討するであろうと思われるので、これらとも連携していきたい。
映画の配給は12月からを予定されている。実行委員会を募って取り組みが始まるのは早くても秋ごろか。また実際に上映ッ去れる時期は12月以降、来年からが本格的になるだろう。実行委員会には、地域の映画鑑賞団体などの文化団体や市民団体などにも呼びかけたい。
私たちと旭爪さんとの結びつきは、1998年6月に私がクモ膜下出血で倒れ入院し、我が家の農業経営がピンチに陥った時、巻き起こった菜の花応援隊(援農隊)の活動のことがそもそものきっかけになる。
援農隊の滑動に感激した出版社の社長が、これを是非ドキュメンタリー本にしたいと思い立ち、その執筆者として白羽の矢を立てられた作家が、当時まだ新人と言ってもよいころの旭爪さんであった。
98年の9月、本のいずみ社の蛭川社長に同行してきた旭爪さんに、茨城県西農民センターの事務所で初めてお会いした。
以後取材が始まり、最初は1年か2年で完成すると予想されていたが、何しろドキュメンタリーということで、事実関係の取材に膨大な時間がかかってしまった。
そのような事情もあったため、結局のところは、2003年6月の発刊となり、5年の歳月を擁することになった。だがこのことが、結果として私たちにとっては、貴重な学習と経験を積むことになった。
そして完成した作品が、「菜の花が咲いたよ」(本のいずみ社刊)である。「稲の旋律」は、「菜の花が咲いたよ」より後に執筆が始まり、「菜の花が咲いたよ」より先に発刊され、多喜二百合子賞を受賞している。
だから援農に関わった人たちとの交流が、「稲の旋律」の成功に少なからず影響を及ぼしているのではないかと私は思っている。
であればこそなおさら、私たち自身の思いもこめられた映画として、成功させていきたいと思う。
旭爪さんは「菜の花が咲いたよ」のあとがきによせてでこう記している。
この記録が、日本の農民運動とそれに携わる人たちについて、伝える資料のささやかな一部となり、これから先、北嶋さんご一家と菜の花応援隊の皆さんが、様々な困難や辛い現実にぶつかった時、「自分たちはこんなことをやってきたんだ」「こんなにたくさんの仲間がいたんだ」と思い出すきっかけの一つになればと願っています。
そして、お読みいただいた方に、僅かでも新しい情報や、この時代にこの国で生活していくうえでの希望を提供することができるならば、これほどうれしいことはありません。
菜の花応援隊の滑動が巻き起こった時から10年半の年月が経った。このことば通りにこの間に幾多の試練や困難が押し寄せ、それらを仲間の絆を糧として乗り越えてきた。そして、旭爪さん自身もそうであったのではないだろうか。
これからも激励し合い協力し合い、ともに学び成長する関係でありたいと願っている
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