北嶋誠のブログ

私の考えていること、言いたいことなどなど。

なぜ横浜港へ懲りずに行くのか?

2007年08月25日 17時04分46秒 | Weblog
 今年もまた懲りもせず、茨城県西食健連ご一行様は横浜港へ出かけた。ここ約15年間、毎年のように横浜港など(うち東京港2回、成田空港1回)などの輸入農産物置き場の実態調査をしている。中国産のラッキョウ、、ナス、なめこ、きゅうり、サツマイモのつる(蕨の増量用)、菜の花、サハリン産の蕨など、塩蔵とはいえ野積みの状態かまたはビニールハウスのような簡易倉庫に必要となる時まで無造作に置かれたままである。
 
労働者の講義を受けて学習もする。この野積み野菜がどのように加工され観光地の名産お土産に化けるのか。このほかにもどのような形でどこから何が輸入されているのか。枚挙に暇がないほどの慄然とする現実。そして、これら輸入農産物の検査チェック体制はどうなっているのか。決定的な人員不足と書類審査、サンプル検査、あげくは手抜き検査ではお寒い限りである。

 そもそもは、港埠頭に長期間野ざらしになったままの塩蔵野菜など大量の輸入農産物を常時目の当たりにしていた港湾労働者や税関労働者が、この実態を国民に告発する形で始まった。儲け最優先で、これが人間の口に入る物かとあきれかえるほどの無責任な管理体制。このような企業倫理に欠けた食品メーカーの所業によって農家の経営や暮らし、国民の食の安全はどうなってしまうのか。じぶんたちの職場の事だけ考えていれば良いのか、という労働者の切実な想いが港の輸入食品見学の取り組みとなった。この港見学が契機となって労働者、農民、消費者が共同した食健連運動へと発展して来たのである。

 最近の世論調査でも国産の農産物を求める声は85%に上るが、こういう世論と国民の食料、健康、農業を守る運動の発展に最も重要な役割を果たしたのは、このみなと見学の運動と、後に創設された農民連食品分析センターの活動であると言っても過言ではない。

 何度か見学した人は気がついただろうが、最近ではイメージダウンを嫌う横浜市などからの指導もあって置き場は大分整理されてきている。これも運動の一定の成果ではあるが、基本的に食品を儲けのタネとしか見ない姿勢は変わっていない。それどころかwtオ締結以後は、生鮮野菜の開発輸入や、国内の食品産業の工場が海外進出して加工食品れいとうしょくひんなどの輸入も急増している。

 つい最近の農水省の発表では、食料自給率が39%にまで低下した。また農家戸数もここ10年間に75万戸減少して181万戸となった。日本農業の未来が危ぶまれ食の不安は募る一方だ。なぜこうなって、私たちは何をしたら良いのか。そこでまた港の現場検証に行くことになるのだ。

 何度現場を見て何度税関や港湾の労働者の話を聞いて驚くべき実態を学んでも、懲りずに輸入食品をたらふく食べてお土産に輸入食品をしこたま買い込んでくる者もいる。だから私たちも、懲りずにというより半ば維持になっ港に行くわけではない。並行して地元で取れた新鮮、安全、おいしい農産物を食しながら楽しく交流し、学習と運動を広げている。

ヒューマン・ファーマーズは喜劇!過激?

2007年08月23日 00時10分52秒 | Weblog
 ヒューマンファーマーズもそれなりに多様なイメージでとらえられ、評価も受けているようである。もちろんそれによって私たちの目指すところや演奏スタイルが変わっていくものではないが、共感しあえたかとかメッセージがうまく伝わったのかとかでは大いに関心がある。

 結成間もない頃は、替え歌や、駄洒落という路線であったがゆえに、百姓コミックバンドとか農民連のチンドン屋などと称された。

 フォークソング特有の、いわゆる風刺、パロディという表現方法は、場合によってはストレートな表現よりも刺激的であり、より強力なプロテストソング(抵抗の歌)ともなり得る。だから、笑いを伴なうと言うことをとらえて、コミックバン、ドと言うのは当たらない。い。まあ一部当たっていると言うことにしておこう。

 「農民連のチンドン屋」とは、農民連にもチンドン屋にもファーマーズに対しても失礼だと思う。ファーマーズは、農民連より先にけっせいされているし、文化工作隊でも広告塔でもない。農民連や食健連などとは、食と農を守る立場で共同・共生して行く、自立した百姓フォークソンググループである。

 音楽文化、食文化、農耕文化とくにこの国では稲作文化があり、「文化は農村から」といわれてきたように、農民連には文化人が豊富なはずである。チンドン屋は熟達した大道芸に依るところの、大量街頭宣伝を生業とする専門家集団であり、メシガ食えないアマチュアのフォークグループとは違う。だが、もしちょっと似ているところもあるとしたら、むしろそれは光栄な話である。

 最近では、「上手になったね」、「説得力があるね」などと良い評価をされている一方、「過激だ」、「茶化している」、「馬鹿にしている」、「ふざけている」などという声も寄せられている。このことは、私たちの表現方法が十分理解できず、歌の内容についても不正確な解釈をしているように思う。だが反面、メッセージが、受け入れられているか否かは別にしても、聴きてにストレートに届いている証であるとも思う。かつてのお笑いバンドではなく、いよいよ表現者として認知されつつあるのかも知れない。

情報源・その5・点字とパソコン

2007年08月20日 18時49分32秒 | Weblog
 視覚障害者による情報収集や交換、学習や事務処理などのために必要なものとして点字がある。

 私も茨城県障害者福祉センターの指導員にお世話になり、歩行訓練及び点字の指導を受けた。

 ただし、一定期的を割いて定期間学習を積まなければ、実生活で活用していけるだけのレベルにまで習得する事は難しい。だがその時は、やるべき課題、野暮用が山積の状態で、点字の学習を継続する事が出来なかった。

 また点字は私の場合、ギターを弾くためにできた左手人差し指のタコが判読力ということでは若干のっ障害ともなっている。だからと言ってあきらめたわけではない。点字の学習はもちろん、白杖を使用しての歩行訓練や生活訓練なども機会があればっ挑戦したいと思っている。

 同様に5年ほど前に購入したが時間がなかったり、故障などの理由で放りっぱなしだったのがパソコンである。現在では、しかくしょうがいしゃのパソコン普及率は点字でのそれを上回っているという。

 私がパソコンを始めたきっかけは、県が主催した視覚障害者のためのパソコン講習会の案内をいただいたからである。つくば市、旧友部町で開催された講習会に参加したが、たいへん判りやすい説明で、私にも何とかなりそうな自信がついたものである。また最近では視覚障害者用にも多種多彩な機能を有したソフトが開発され、交信や学習から趣味・娯楽に至るまで広範囲な活用が出来るようになった。身近に指導できる人がいるとか、機器一式を揃えるのに結構高額な負担になってしまう事など課題は多いが、これからは視覚障害者の社会参加を促進していくために、パソコンは欠かせないものになっていくだろう。

憲法九条を守る運動を楽しく盛大に

2007年08月18日 13時34分44秒 | Weblog
 猛暑の中お盆は瞬く間に過ぎていった。終戦記念日の8月15日、先の戦争に関する報道が多い事は毎年のことではあるが、ここ数年は改憲勢力の台頭で平和を祈る声がかき消されてしまいそうな危機感すら抱いた。しかし、今年は私の気のせいか、センソウタイケンシャによる戦争の真実を伝える話や、どんな事が合っても戦争は二度と繰り返してはならないと言う声が多く大きく聞こえた。

 旧満州からの引揚者、広島長崎の被爆者、東京大空襲などの空襲体験者、国内唯一の地上戦があった沖縄住民、約七割が餓死したとされる南方センチからの帰還者、特攻隊の生き残りの人たちが戦争の悲惨無残な実態を、いま語り伝えようとしている。また、戦争を始めた国の責任やこれに加担した新聞、メディア、ジャーナリズムの責任を問う人。現在の社会情勢が太平洋戦争の前の情勢に良く似ていると心配する人もいた。

 いま憲法九条を変えて戦争をする国づくりを狙う動きにに対して少数となり高齢化した戦争体験者に重い口を開かせたのは、九条の会をはじめとする運動の広がりも影響しているだろう。

 七月の参議院選挙では改憲を唱えた安倍首相の与党が大敗し、改憲勢力は当選議員の過半数に達しなかった。非改選の議席をあわせても参議院での改憲勢力の議席は3分の2を割った。単純に考えれば憲法改正法案の発議は出来ないことになる。また、前国会までは憲法改悪に結びつく悪法が次々と強行採決されてきたのに対して、今度の国会では、憲法審査会の設置が見送られた。

 現状では会見派の勢いが鈍っている事は事実だろう。戦争になれば人権も民主主義も文化もありゃしない。こういう時を憲法九条と平和を守る運動を楽しく大きく繰り広げていく絶好機としよう。まずは10・7北関東憲法ふぉーくジャンボリーをを成功させる事がいよいよ重要になってきた。

安倍首相が平和憲法を遵守?

2007年08月07日 00時07分56秒 | Weblog
 安倍首相が平「和憲法を遵守し恒久平和を希求し云々」と、これは今日6日広島市の原爆慰霊式典での挨拶である。日本国憲法前文、第9条、第99条みよれば至極当然のことではあるが正月早々「憲法改定を参議院選挙の争点に」をかわきりに度重なる改憲発言。そして、戦争の放棄をかなぐり捨て、自衛軍の創設と戦争をする国づくりを目指す自民党の新憲法草案を思い浮かべたとき、この挨拶は全く空々しく感じた。そして、安倍首相の登場にすら違和感を持った。
 
それとは対照的に秋葉広島市長は、政府が平和憲法を遵守することを求め、米国の軍事力による世界戦略をきっぱりと批判した。

 平均年齢74歳を超えたという被爆者たち、その62年たった今も癒すことの出来ない悲痛な声を受け止め、後世に伝えて行かなければならないという思いと、憲法9条と平和の時代を守り抜いていかなければならないという決意を新たにした。

情報源・その4・録音図書録音雑誌

2007年08月05日 18時21分24秒 | Weblog
 失明してから2~3年間は、ひたすら情報源を求めて自助努力をしていた時期であった。その過程で録音テープによる新聞、機関紙、広報誌や朗読ボランティアの存在を知ることができた。

 茨城視覚障害者の生活と権利を守る会(茨城視姓会)と障害者運動に出会ってからは、視覚障害者が情報を得ること、知る自由は、人間らしく生きるための権利であり、基本的人権であるということを学んだ。

 いわゆる録音図書、録音新聞、録音雑誌の発行がまだまだ不十分である。ただ、新聞、団体などの機関紙、広報誌などはテープ録音やパソコンのインターネット通信によって、情報摂取量が豊富になっては着ている。

 また私の関係では、視覚障害者友情の会で発行している録音図書や文献。茨城視生会の会員がボランティアでテープ録音してくれた書籍。結城氏のボイスフレンドの会による朗読ボランティア、点字図書館による録音図書の活用で情報摂取しているが、基本的には膨大な量の一般図書や雑誌は全く手の届かない所にある。

 録音図書や録音雑誌の情報摂取量の充実のためには、国の責任で社会保障の一施策として定めること。企業が利益を社会福祉という形で還元することなどが望まれる。

 団体の機関紙や自治体の広報誌なども一層の改善を求めたい。

 たとえば広報誌について言えば、この度の参議院選挙では、選挙管理委員会から点字版や録音テープのような形式で選挙公報が届けられたという事例は極めて稀であった。これでは選挙の制約、不公平ということみも成りかねない。とくに一人暮らしの視覚障害者の場合は、選挙が公示されていることすら知らないこともある。早急に情報バリアフリー社会の実現が望まれる。

 また、私たちの不安材料の一つとして、カセットテープとその関係機器が近い将来に製造中止になるということである。カセットテープには、かれこれやく40ねんかん慣れ親しんできている。デジタル化などが進められようとしているのだろうが、こういうことにこそ科学の進歩が生かされてほしいものである。

情報源・その3・朗読ボランティア

2007年08月05日 11時18分49秒 | Weblog
 カセットテープ版で、何種類かの新聞、機関紙などを定期購読し、また自治体の広報紙などをボランティアで届けていただくことによって、一定の情報が得られるようにはなった。

 だが、2日に1本のペースでテープを聴きこなしても、その他に読んでいた新聞「朝日新聞」、「赤旗」、「日本農業新聞」、「全国農業新聞」、「農民」などを読むことが出来ない。また雑誌も、「酪農ジャーナル」、「食べもの通信」、「前衛」、「農民」なども全く読めなくなってしまった。もちろん、これらをすべて熟読していた訳ではないが重要なものや、興味をそそる記事や論文が必ず1つや2つは載っているので愛読してきたものだ。

 これまで獲てきた情報や知識を得られないと言うことでの不安や苛立ちは募り、外に出て活動することも会話することをも躊躇させてしまう。とくに新聞「農民」については、自ら他人に勧めておきながら呼んでいないと言う自己矛盾にも陥ってしまった。

 新聞農民については、のうみんれん、食健連の仲間、友人、家族らの好意に甘えて一時は音読をお願いしていたが、いつまでもそういうわけには行かない。妻にしても、快く引き受けてくれてはいたものの今や我が家の中心的働き手である。朗読を始めて程なく声がか細くなり、やがて沈黙。疲れていつの間にか眠ってしまったのだ。これではもう頼むわけにはいかない。

 そこで、結城市社会福祉協議会で「広報結城」を録音している朗読ボランティア「ボイスフレンドの会」に頼んで、書籍類については読んでいただくことになった。はじめは対面朗読で、石黒昌孝著「それでも食べますか」や「笠木透と雑花塾編CDブック「一つだけの村」などをお願いした。前者は、農薬名や添加物名など、専門用語が多くて読みにくかったようだ。対面朗読の場合はわかりにくい部分を聴き直したり、誤読を修正したり、感想を述べ合うなど、良い面が多々あるのだが、ボランティアの方々の時間を確保することがなかなか困難であった。

 そこで、その後は主としてテープ録音で、小林節夫著「農への銀河鉄道」、旭爪あかね著「風車の見える丘」、菅野ヘッケル訳「ボブ・ディラン自伝」、島村奈津著「スローフードな日本」など、7~8冊程読んでいただいた。ボイスフレンドの会員は大多数が退職者で、ある方は、「福祉のお役に立ちながら、自分自身のボケ防止や勉強にもなるし、友達もできて楽しい」と話していた。

 情報を得られないということは苦しいものである。視覚障害者が情報を得ようとすることもまた何かと苦労ではある。とどうじに情報を獲得していくことはがこの上ない楽しみであり生きる力ともなってくる。

 しかし努力をして何らかの形で社会活動に参加して頑張れば頑張るほど風当たりも強くなってくる。そういう者は弱者扱いはされないのだろう。中には、心理面も含めて容赦なく障害者の弱点を突いて攻撃してくるものもいる。だから一層の情報収集と学習をして精神面も強くなっていくしかないだろう。

ギターとフォークソング・その2

2007年08月04日 23時26分04秒 | Weblog
 ギター演奏法を色々と覚えていくためにはレコードなどからコピーして、物まね演奏をすることから始まる。何人ものふぉーくシンガーのコンサートを鑑賞したが、その中の一人になぎらけんいちがいる。高石友也、高田渡らに刺激を受けてフォークソングを始めたという。アメリカの源流的なフォークソングの影響も受けている。私の好みのふぉーくシンガーの一人でもある。持ち歌には、放送禁止かとなった「悲惨な戦い」もあるけれど、「葛飾にバッタを見た」がやはり名曲だと思う。

 そのなぎらけんいちが、レギュラーで登場するNHKラジオ第一放送の「あの頃のフォークが聴きたい」で、高田渡るの「この世に住む家とてなく」を紹介していた。原曲は、アメリカンフォークソングの父と言われるウディ・ガスリーガ歌っているがこの歌のギター伴奏がチャーチリック奏法というもので、フォークソングのオーソドックスな演奏法であると紹介していた。

 70年頃から私もこういうアメリカンフォークソングの源流と言うか、古謡的奏法に興味を持ち、高田渡るの「生活の柄」、「加川良の「教訓1」、吉田拓郎の「今日までそして明日から」などをコピーして歌っていた。拓郎の影響でブルースハープ(ハーモニカ)も始めた。ところが、ウディ・ガスリーやその弟子格のボブ・ディランのレコードヲ聴いて驚いた。、ナガレルヨウナギター演奏に乗せて、ワイルドなぶるーすふぁーぷの演奏、そして語りかけるような歌唱のトーキングブルースに至っては俄然モノの違いを感じた。これらの演奏技術やスタイルは真似ることは出来ても、歌に取り組む姿勢や生き様までは真似ることは出来ない。

 その後、高石ともや&ナターシャーセブンによってあらためてカーターファミリー奏法ブルーグラスのGラン、ドック・ワトソン奏法など、さまざまなフォークソングの演奏が紹介されていくのだが、メイベル・カーターのピッキング、ブルーグラスギターの元祖レスター・フラットのGラン、ドック・ワトソンの渋い歌唱やギターの早弾きなど、やはり本場モノを聴くと、そのリズム感、ドライブ感、センス、民族性とその違いは如何ともし難い。

 もともとこの国の楽器、音楽でないものを,身につけ、本場モノと同じように演奏をするだけでは面白くない。ヒューマン・ファーマーズとしては、本場の演奏スタイル、テクニックなどを参考にしながらも、自分たちの個性、創造性、人間性を強く打ち出した演奏スタイルをと考えてきた。自分たちの言葉と音楽性をもとに歌を作り、自分たちのセンスや人間性を大切に演奏し、表現して行きたい。そこみギターがあって仲間がいれば、自らの生活とそこからあふれ出る感情やメッセージを自らの言葉と演奏で表現できるはずだ。「ギターを取って弦を張れ!」とはいつ、どこで、誰が(ウディ・ガスリーか?)行った言葉かは忘れたが、いまこそ、ギターを取って、歌を作り、コンサートを開き、私のフォークソング、私たちのフォークソングを歌っ
ていこう。

ギターとフォークソング・その1

2007年08月04日 23時24分01秒 | Weblog
 これだ!と思ってフォークソングを始め用としたが、高校二年の時に最初に買ったギターはガットギター(クラシックギター)であった。教則本を買い、基礎から始まって、ナルシソ・イエペスの「禁じられた遊び」なんかもかじっていた。だが、ある日突然コード表を見つけてからは、俄然フォークソングへとのめりこんでいった。
 
雑花塾の増田康記氏は、フォークソングを始めた理由として、「女の子にモテたいから」と語られている。私は、増田氏のようにはマセてはおらず晩生だったので、純粋にアコースティックギターの音色や演奏のカッコ良さに憧れたものである。

 まず、フラット・ピックを使っての4ビートのコードストローク奏法では「戦争は知らない」、「戦争を知らない子どもたち」などを練習曲とし、4フィンガーによるアルペジオ奏法では「ドナ・ドナ」、「イムジン河」などを弾いてみた。その中で「戦争を知らない子どもたち」では、杉田二郎が歌に入る直前にギターで弾く「ジャ ジャッ ジャーン」という部分がカッコ良くて真似をしていたものだが、後みなって友人に聞いてみると、全くの出鱈目で恥ずかしい思いをしたこともある。

 71年に北海道の酪農学園に入学すると、先輩からふぉーくギターを譲ってもらい、気に入った歌のレコードを買ってコピーを始めた。

 岡林信康の「山谷ブルース」、「手紙」では、アルペジオのハンマリングやベースランニングを覚え、五つの赤い風船の「遠い世界に」などでは3フィンガーピッキングヲ覚えた。上条恒彦と六文銭の「出発(たびだち)の歌」や遠藤賢司の「カレーライス」などのギター奏法もコピーした。洋ものでは、ピーター、ポール&マリーのレコードが大いに参考になった。

 仲間と演奏をしたり、札幌はススキノのフォークソング系中心のライブハウスへ出かけたり、フォークコンサートへもよく行った。高田渡、武蔵野たんぽぽ団、小室等、吉田拓郎、加川良、なぎらけんいち、泉谷しげる、三上寛、まだ売れない頃のリリィ、井上陽水なども聴いた。この当時はマサニ「習うより慣れろ」の時代だった。

 その頃うたごえ運動らしきもの?ともであった。学生寮で同室の先輩が、たまたまうたごえサークルの部長で、お前ギターが弾けるなら来いと言う。行ってみると野暮ったい先輩たちが5~6人いて、手作り歌集はあれどレパートリーは少なく、アコーディオンはあれどダ誰も弾けないという。だからお前が部長をやれという。

 そこでやむを得ず寮内を回って同じ一年生でギターの弾ける者5~6人とヒマな奴をかき集めレッスンを始めた。レパートリーはフォークソングを中心に、酪農学園のキリスト教学や礼拝の時間に覚えた讃美歌、漫画の主題歌(当時はアニメとは言わない)などであった。他大学へ遠征したときなど、このフォークソングと讃美歌が威力を発揮した。うたごえ愛唱歌のほうはメロディはバラバラで全然ダメだった。

 そんな訳でいやおうなしにギターを弾かなければならない状態であった。だから、ギターと仲間があればフォークソングはすぐにでも出来るということだ。

【バックアップ】三人での練習

2007年08月01日 23時17分31秒 | Weblog
 今年まだ2回目だと思うのだが、先ごろは久々の練習だった。練習場所は例によって、わが地域の共同作業所であるあすなろ学園の作業場を拝借である メンバーそれぞれが、演奏活動に強い意欲を持ち、意義も感じていると思うのだが。それにしてもなかなか集まれない。
 
 権力に抗し、弱者を励まし、世直しを説く社会派フォークを目指したいところだが、現実はメンバー誰しもが職場に、家庭に、地域社会にと悩みを持ち、ファーマーズの活動こそが互いの励ましの場であり、生きる糧となっているようだ。だからこそ活動を継続できるのだろう。
 
 今回の出席者は亀井秀明、久保田秀幸の千葉県組と私の合計3名であった。今後も練習はおろか、本番も3~4人参加できれば良しとする状況が続くだろう。だが、この8月から11がつにかけて、すでに10数ヶ所の演奏予定が入ってきている。常時、ありあわせの日替わりメンバーで充分対応できるようにしておかなければならない。
 
 そこで今回は、亀井氏の5弦バンジョーと、久保田氏のフラット・マンドリン、ギターを生かせる歌を主にレッスンした。「FOODof 風土(ここで作ってここで食べよう)」、「子どもたちに伝えたい」、「丸腰で行こうぜブルージーバージョン」、「田んぼの四季」、「お父さんと豆トラ」など。亀井氏の枯れたバンジョーが弾む。久保田氏のマンドリン、ギターも軽快である。この3人のユニットも結構いけそうである。
 
音楽的にはなんと表現したら良いのだろう。アメリカ南西部のマウンテンミュージックと日本の農村叙情歌を足して2で割ったようなものとでも言っておこうか。