北嶋誠のブログ

私の考えていること、言いたいことなどなど。

風土に適合した酪農は

2009年07月30日 23時26分00秒 | Weblog
 酪農が衰退している現実と無責任農政を見ていると、この国に酪農は定着でき
るのかと考えてしまう。

 無秩序な輸入自由化を改めることと、政府による価格保障など酪農を支援する
政策が必要である。

 一方で、政府の勧めるコスト論とか生産性重視の大規模経営に変わる、日本に
適した酪農経営スタイルを展望していかなければならないと思う。

 ところで官製のものかとは思うが、環境保全型農業という言葉がある。これは
人間が大自然を支配してでもいるかのような、傲慢なものの言い方で感心しない。

 環境適合型農業とか環境順応型農業ととでも言ったほうが良いと思う。

 酪農についてもこの国のそれぞれの地域環境、風土や立地条件に適応した酪農
経営スタイルが研究開発されて行ければ良いのだが。

 ただ全国を見回せば、様々な取り組みも進められているのも事実だ。

 北の方から揚げれば、まず北海道で広がっている「マイペース酪農」である。

 道東の釧路根室地方を中心に実践されている。経営面積に見合うだけの頭数を
飼養し、風土に適合した酪農を目指している。

 放牧と自給飼料を主体にし、対比は農耕地に還元する。

 健康な乳牛から安全でおいしい牛乳を搾る。

 儲かる酪農とは行かないが、借金で倒産するということにはならず、生活時間
にもゆとりが出来る。

 福島市の「ささき牛乳」は、基本的には家族労働で、ミルクプラントを持ち、
瓶詰め牛乳を福島市内などに宅配している。

 牛乳の地産地消を実践している。経営主は農民運動全国連合会前会長の佐々木
健三さんである。

 千葉県八千代市にある「天然八千代牛乳」(千葉北部酪農協)は、東京の消費
者たちが生産者と提携して始めた「天然牛乳を安く飲む会」が契機となり、やがて東都生協が作られ、牛乳の産直が行われている。

 ノウgm(非遺伝子組換え)飼料の飼養や低温殺菌牛乳の生産など、安全性や
牛乳本来のおいしさを追求している。

 長野県高森町の「信州市田(いちだ)酪農」は、中山間地酪農での地産地消が
実践されている。

 小規模の複合農かがほとんどの地域で、母屋の窓を開ければ、乳牛がヌーっと
顔を出すような、小規模酪農家約30件の酪農家から収入した牛乳を、町外れのプラントに運び、瓶詰め牛乳やヨーグルトなどを生産している。

 牛乳は主に町内の消費者に宅配されている。

 「マイペース酪農」は、農民連や三愛塾運動を進めている仲間から情報を得た
りしている。「ささき牛乳」、「天然や千代牛乳」、「信州市田酪農」については、畜産農民全国協議会(畜全協)などで現地視察をして学習などをしているが、詳細な情報までは得ていないので、ここでは紹介だけにしておきたい。

 これ外にもたくさんの事例はあるかも知れないが、基本的には、このような風
土に適合した酪農、地域循環型酪農をこそ、政府が推進し支援していくことが求められる。

日本に酪農は要らないのか

2009年07月28日 22時33分20秒 | Weblog
 梅雨も明けて真夏ともなると、我が家の乳牛たちも暑さに悩まされ、お盆のこ
ろには夏ばてもピークとなり、乳量も減ってくる。

 もともとホルスタイン朱は、名称の由来が、ドイツとデンマークにまたがるホ
ルスタイン地方から来ているように、北欧系の家畜であるから、暑さは苦手のほうである。

 冷涼でやせた土地の北欧では、条件に適した農業が牧畜であったのだろう。そ
の牧畜が温暖多雨のモンスーン気候の日本にもたらされたのである。

 古くは大陸の中央アジアから伝来してきたようで、この国に定着したとは言え
ないものの、酪、蘇、醍醐など、ヨーグルト、バター、チーズにあたる食べ物もあった。この上ない味わいのことを、醍醐味という言葉としても使われてきたくらいである。

 その後江戸時代には、水戸黄門が乳製品を食べていたという話もある。そう言
えば何十年か以前には茨城県酪連の会長は徳川さんという方が務めておられたが、これと関わりがあるかどうかは判らないが、多分水戸徳川家の方ではなかっただろうか。

 また、徳川吉宗が、インド牛とやらを千葉県で飼育させ、牛乳や乳製品を製造
させたという記録もある。

 ペリーの黒船来航により、開国してからの江戸時代末期から明治時代にかけて
、オランダやアメリカから乳牛や牧草などが渡来し、特に明治時代の文明開化と西洋化が近代化だという風潮の中で酪農が始められた。

 しかし、本格的に酪農が開始されたのは第二次世界大戦後で、選択的拡大と規
模拡大の基本法農政のもと、食の洋風化ともアイマッテ急速に発展してきた。

 日本型食生活は栄養バランスが最も取れていると高く評価されているが、牛乳
乳製品はカルシウムを多く含有することや、食卓を豊かにすることによってこれをさらに補完してきた。

 だが、現状の農政は日本には酪農が要らないかのようである。また、政府が勧
める効率優先大規模酪農は、日本の風土や立地条件に適合しているとは思えない。

 乳価の低迷や、昨年の未曾有の飼料資材価格の高騰や金融危機もあって、小規
模酪農家はもとより、大規模酪農かもたくさん潰れている。

 ミルクプラント(牛乳精製処理施設)を持つ中小メーカーや酪農組合農協も運
営が困難になっている。得に、1999年のころの牛乳処理施設の合理化政策によって、地方の中小プラントはほとんど消滅している。

 その一方で、大手乳業メーカーの巨大工場が建設され、独占化が強まった。

 わが結城市にも広江牛乳という会社がある。かつては生産者とミルクプラント
をかかえ、瓶詰め牛乳の販売を行なってきたが、合理化政策のもとでプラントは閉鎖された。

 現在は販売業者としての営業は続けている。

 かつて広江牛乳に出荷していた酪農家は、合併した新しい酪農協に所属してい
る。結城市酪農振興協議会の一員としても活動しているが、現在の会員6戸のうちの2戸が僅かに残ったその酪農家である。

 こういう経緯をみると、本当に日本に酪農は要らないのかと言いたい。

視覚障害者と憲法九条

2009年07月05日 17時29分20秒 | Weblog
 視覚障害者が、戦争中にどのような暮らしをしてきたのか、そういう話はあま
り聞いたことがない。

 第二次世界大戦中、非戦闘員の子ども、女性、老人たちが専制政治のもとで、
自由や人権を奪われ、恐怖と欠乏の中で暮らしてきた歴史は、まだまだ隠蔽歪曲されている部分があるとはいうものの、「もう二度と戦争は御免だ」という戦争体験者をはじめとする平和を願う人たちによって、多くの真実が語り継がれてきている。

 だがその一方で、一般社会からも差別され疎外されてきた視覚障害者が、どの
ような境遇に置かれ、どのように生きてきたかなどということは、記録に残す必要もなかったのであろうか。ほとんど伝わってはこない。

 軍人軍属として駆りだされた人たちは、戦地において多くの戦死者や餓死者を
出した。一般国民は、沖縄や旧満州では戦闘に巻き込まれ、本土でも空襲や原爆でタクさんの人たちが死んだ。

 また、戦争遂行のために、国民の自由や人権は奪われ、厳しい統制と抑圧にさ
らされて生きてきた。

 こういう状況のもとでは、ハンセン病患者などと同様に、視覚障害者には成す
術もなく、耐え忍んで生きてくるしかなかったのではないだろうか。

 戦闘能力はないから兵隊には仕えないし、かといって銃後の守りにも役立たず
、空襲ともなれば逃げのびる術もない。

 それでも食べるものは食べるし、住むところも一人前に必要となれば、存在し
ていること自体が非国民であり厄介者なのである。いや、非国民以上にも人権を侵害された、間扱いであったということも出来る。

 そのようなことも知りたくて、視覚障害者九条の会にも参加させていただき、
少しずつ学習を始めているところである。

 その中でこれまでに聞いたことでは、幾つかのことがわかってきた。

 まず戦時下の視覚障害者は、「かたわ者」、厄介者であるから、教育やまして
や生活保護ということでは差別されあるいは対象外となっていたようである。

 それでも「国家総動員令」のもとでは、何でも使えと、視覚障害者による軍人
へのあんまや鍼灸での「勤労奉仕」があったようで、「従軍按摩師」などもあったと聞いた。だが戦地で戦闘に巻き込まれた場合は、従軍慰安婦同様に「使い捨て」の挙句」放り出せ」ということであったらしい。

 海岸の灯台に設けられた航空監視所に、敵機の空襲を予知するためにと、視覚
障害者の発達した聴覚を利用して、航空監視員として使役したという嘘のような本当の話もある。

 また、視覚障害者は徴兵されないので、健常者が自らの目に傷をつけて、徴兵
逃れを図るという事例もあったようである。これについて、当局側がどういう対応をしたかは聞いていないので、今後調べておきたい。

 いずれにしても、憲法九条が変えられてしまえば、このようなことが再び繰り
返されることみなる。平和と人権を守るためにも、憲法九条を守り生かしていくことの大切さを改めて痛感しているところである。