北嶋誠のブログ

私の考えていること、言いたいことなどなど。

もうちょっと言い訳

2007年12月25日 19時09分46秒 | Weblog
 ブログをなかなか書けないとか、誤字等が多いことについて、ここでもうちょっと言い訳をしておきたい。

 まずブログを書けていない理由は、一つはあまり役にはタタナイとはいえ、本業の酪農業に従事する時間が増えたこと。またここ5ヶ月ほどは、ほとんど指導を受けず自己流で操作しているため、エラーになったりストップしたり、なかなか事がはかどらないのである。

 それにもかかわらず、パソコンの使用範囲をあれこれと拡大して、何かと研究しながらの操作なので手間がかかるのである。インターネットの閲覧、各団体mlでの通信、いくつかの掲示板やブログへの通信なども、機能キーや操作方法などの専門用語すらまだ良く理解できていないままに進めている。これからはマイワードによる文書作成なども始めようとしているところだ。

 だがこういう状態では、時間ばかりかかって能率が上がらないので、ここは一つ県のitサポートセンターや、パソボラ茨城の指導員に訪問サポートを受けて、改善していく以外にないと考えている。

 文字や文章における間違いも様々なケースがある。まず単純な変換ミスである。例えば、キーボードで「nanohana」とローマ字で入力しそのまま確定キーを押せば、「なのはな」と確定し、1回変換キーを押してから確定すると「菜の花」となる。さらにモウ1回変換キーを押して確定すると「ナノハナ」となる

 「natane」と入力して確定すれば「なたね」となり、さらに変換するごとに「ナタネ」、「菜種」、「鉈ね」、「奈多ね」などと出てくる。この時に、うっかりすると変換を忘れたり、変換ミスをすることがある。

 作家の旭爪(ひのつめ)あかね氏の場合、「旭爪」の漢字は」hinotume」でも「hitume」でもストレートには出てこない。そこで、「asahitume」と入力して変換すると「旭爪」と比較的早く出て
くる。この時にもうっかりしていると、「あさひ爪」、「アサヒ爪」、「旭日爪」、「朝日爪」、「朝陽爪」などと誤って確定してしまうことがある。また、「旭爪」と確定した場合、パソコンの音声は「あさひつめ」とか「、ましてや「ひのつめ」などとは読み上げず、「きょくつめ」と読み上げるのである。

 ところで、ここに出てくる「なのはな」と「ナノハナ」、「なたね」と「ナタネ」、「あさひ」と「アサヒ」という、ひらがなとカタカナとの違いは、音声ではどう判別するのかとよく聞かれるが、ひらがなの音声よりもカタカナの音声の方が、ドレミふぁの八音階で言えば、三音くらい音程が低いので、同じ言葉でも音程が低いほうをカタカナと判断するのである。

 文章を書き上げた後、全文を読み直しただけでは誤りを正しきれないので、カーソルを操作して一言一句確認するしかない。

 いずれにしても、実践を積むことで問題はすこしずつ解消されていくことと思う。

ナタネの生産回復と蘇る菜の花

2007年12月24日 01時35分41秒 | Weblog
 菜の花祭は、「食と農、環境、暮らし、平和を守る共同のイベント」という、広範囲というか、大きなサブタイトルがついている。

 そもそも97年の秋に、私が試作のためにナタネを播種した理由は、農民レンガ提唱した大豆、ナタネなど自給率が極端に低下した農産物の生産回復運動に触発されたものであった。

 古くからわが国の主要農産物であった大豆やナタネは今やほとんどが輸入品である。

 ナタネは輸入品におされて、自給率が0・02%と極端に低下し、しかも輸入品のほとんどが遺伝子組み換え種ともなれば、安定供給や安全性ということでは重大問題だ。

 人体や生態系への影響に配慮した非遺伝子組換え種のナタネの生産を回復し、自給率を向上させることが求められている。

 また最近では特に欧米などで、ナタネ油がディーゼル油などのバイオ燃料として利用され、ナタネの生産や供給が逼迫している状況にもあるだけになおさらのことである。

 98年の援農隊がナタネを巻いたことも、たまたまナタネではなく、私の目的と同様にナタネの生産回復運動の一環としても意義付けたからである。その象徴が菜の花である。今でこそ、白菜、小松菜、ブロッコリー、からし菜、カブetcこれらのアブラナ科作物の花はすべて菜の花と称されているが、もともとはアブラナ(ナタネ)の花こそ菜の花だったのである。

 その様な経緯からしても、ナタネ栽培と菜の花祭を媒体としての滑動は、やはり「食と農を守れ!」がメインテーマと言っても良いだろう。 菜の花祭での注目点は、もちろん菜の花そのものやコンサートもあるが、何といっても、旬の地場産野菜を国産純正ナタネ油で揚げた天ぷだなど地元で取れた農産物であり、これらを食べ地酒を酌み交わしながら交流することである。

会場では、その他の模擬店で食べ物が出店されているが、出店者には焼きそばのキャベツや肉は、刻産品を使用するとか、コロッケはジャガイモを地場産にするとか、自給率や安全性にこだわりながら、食と農の問題を理解し、共同の輪に加わっていただくことも目的の一つである。

 遺伝子組換え食品のことをはじめとして、食の安全、自給率、wto、地産地消、食料主権などについても大いに語り合いたいものである。

 いわゆる新自由主義は効率と利益優先で、遺伝子組み換え作物を協力に推進している。輸出国や内外の多国籍企業の攻勢は、種子の支配をも狙い、品種改良をやめさせ、遺伝子組換えを押し付けようとしている。そのため、 労働や研究の目的を喪失した研究者や労働者の仲には、遺伝子組み換えを容認推進するものも現れてきている。企業や政府の押し付けに、国民の不安や拒絶反応は高まるばかりだ。政治家、官僚、学者、研究者らは何も問題がないというなら、国民に対してその不安を解消する説明責任を果たすべきだと思う。

 基本的には多国籍企業が、食料農業の研究、開発から、生産、加工、流通、販売、消費に至るまで、すべての分野を支配しようと企てているのだから、労働者、農民、消費者、商工業者、学者、研究者は共同してこれとたたかう以外に道はないと思う。

 菜の花祭が、今後もそのような共同運動の一助として役立っていくものと期待している。

ヒューマンファーマーズ1999

2007年12月18日 18時59分19秒 | 初期のヒューマン・ファーマーズ
 波瀾万丈の1998年を経て、翌1999年、スリーナインのこの年は、言わば新生ヒューマンファーマーズのスタートの年であった。

 この年のヒューマンファーマーズにとっての大きな出来事といえば、まずオリジナルcdを製作したこと、メンバーに女性とピアノ奏者が加入して音楽的にも年齢的にも?幅が広がったこと、そして第1回菜の花祭が開催
されたことなどである。

 ファーストcd「菜の花が咲いたよ」の製作話は、私の病気失明に端を発している。ヒューマンファーマーズの実力云々ははもちろんのことだが、制作費をどうするかなどクリアーしなければならない問題が色々とあるにもかかわらず、話はトントン拍子で進んでいった。

 そもそもは、音楽センターの道田副社長(現社長)とセンタープロダクションの池田氏が98年の夏、退院後自宅で病気療養中の私のところへお見舞いに来てくれたことがきっかけとなっている。

 以前にも道田氏からは、「そろそろファーマーズもcdを出したら」などと、冗談とも本気ともつかないことを言われていたし、私自身もいずれはcdを製作してみたいとの思いもあった。だが、現実にはメンバーの仕事や生活の状況、音楽的実力、身の程などを考えたとき、とうていあり得ない話だとも思っていた。

 しかし、怪我の功名とはまさにこのことか。私の病気失明で状況は一変した。
 退院はしたものの、私自身は農作業の役には立たず昼間は割と暇で、あった。だが、ギターは弾けるし歌も歌える。それに、中心メンバーの佐藤せいごうも前の職場をやめてブラブラしていてやることがないようだ。オリジナルソングも私たちのこれまでの滑動のなかで、また援農隊の滑動に関してなどで少しずつ増えている。何よりも食と農をめぐる情勢を見渡せば、いよいよ百姓フォークヒューマンファーマーズの出番が待たれている時だ。「ヨシッ今しかない!」と思い、道田氏に「ファーマーズのcdを作りたいと思うのでご指導ご協力をお願いしたい」と持ちかけたところ、たぶん道田氏による強力な推薦があったのだろう。意外にもあっさりと決定してしまった。

 それから 茨城農民連を主体に、食健連など協力共同する仲間たちでcd製作実行委員会を発足し、cd製作の支援協力をしていただくことになった。

 製作担当は音楽センター、演奏技術面のアドバイスは笠木透と雑花塾にお願いすることになった。

 この時に、例によって笠木氏にまたまたご忠告をいただいた。「cdを製作した後、目的を失って大概のアマチュアフォークグループは解散するものだ」と。
 レコーディングに向けての練習が始まり、収録予定局を録音し笠木氏に送ってアドバイスを仰いだところ、その録音テープを聴いた笠木氏と雑花塾の増田康記氏は「なんて下手なチームだ、これでcdになるのか!」と愕然としたという。

 また、同様に録音テープを聴いた後、直接練習を指導に来た道田氏は、吉川路子が歌う「一緒に歩こう」を聴いて、「こんな歌あったっけ?」と首をかしげた。それもそのはずである、ファーマーズの録音テープニ納められているものハ、すべての楽器とボーカルが「せえの!」で一斉に始まり、ガチャガチャやっている演奏ばかりなのである。それこそ「菜の花が咲いたよ」も「鬼怒川」も「一緒に歩こう」も区別がつかないようなものであったのである。

 そのようなあきれたエピソードが数々ある中でも、ファーストアルバムは作られていってしまうのである。

「我流川柳 帰農家狂歌」

2007年12月15日 14時06分03秒 | 「我流川柳 帰農家狂歌」
 偽装バレ 謝罪の言葉 また偽装
     (あんぐりビジネス)

 慰安婦の 国の責任 否定する
   文科省こそ 教科書偽装
     (百笑放苦過酒)

 民主党 自民党との 相違点
   自由が無いよ 小沢専制
     (滑稽議員)

 穀物の 暴騰よそに 米価格
   安く定める 安定対策
     (悩民)

来年の菜の花祭に向けて

2007年12月13日 18時20分04秒 | Weblog
 来年の菜の花祭に向けて菜の花畑の除草作業や隣接する廻状予定地の雑木林の整備などが始められている。

 菜の花祭の本番そのものは、ほんの半日ほどで終了してしまうのだが、祭を中心にして考えれば、祭の終了が次の祭のスタートにもなっている。大体ナタネトイう作物は、通常この地域では、9月に播種して翌年の6月頃に収穫しているもので、生育栽培期間がたいへん長い。

 かつてはもう少し栽培期間が短かった用だが、水田の裏作としても栽培され、直播ではなく、事前に仕立てた苗を稲刈り後の水田に定植したようである。

 我が家の圃場の場合は、ナタネ一昨なのだが、収穫後の3ヶ月間に圃場の整備や肥料の散布をしておかなければならない。会場となる雑木林の整備もしなければならないが、わが家の現在の労働力では、これらをこなしていく余裕はない。一定の圃場管理はわが家の実質的な経営主が行なっているが、ナタネノ栽培や雑木林の整地などは、県西農民センター事務局を中心にして、県西食健連、ゆうき菜の花の会、まつり実行委員会のメンバーなど、少数ずつだがそれなりに多彩な顔ぶれが随時結集して事を進めている。ただ、かつての援農の頃からは顔ぶれが随分変わったようである。

 食と農を守る運動と認識して活動している者もいれば、遊び・交流・飲食に来る者、自然や農業に接したい者、菜の花コンサートを聴きに来る者、何か実利や事業に結び付けられないかと期待して来る者など、様々な要求や期待を持って参加するようになって来た。

 そもそも、菜の花まつり以前の1991ねんから、この会場 のすぐ近くの我が家の田んぼで、レンゲ祭りを開いていた。最初は親しい数家族十数名が、ピクニック気分で田んぼに集まったのが始まりである。これにひゅーまんファーマーズ、かるちあ農園、うたごえ協議会、縣西農民センター、縣西食健連などが加わり発展してきていた。

 れんげまつりは、私が「この指とまれ」方式で始まった様なものと言っても良いが、菜の花祭の場合は、1998年の援農に参加したみんなの思いがひとつになって始まったものと言えるだろう。

 れんげまつり、援農、ナタネ栽培と菜の花祭と、かれこれ20年近くの間、農民運動と多様な市民活動が共同や交流を続けてきた到達点が現在の姿である。

 98年当時や関わってきたひとびとのことについては、旭爪あかね著「菜の花が咲いたよ」に詳しく書カレテイル。

 あれから9年になり、来年は第10回の菜の花祭となる。10年一昔と言われるが、時は流れて人の心も変わっていくのだろうか。

 現在も菜の花祭りが開かれ、多くのひとたちの交流の場として継続されている。来年はどんなことになるのだろうか。また新しい参加者が大勢来てくれることを期待している。

 昨今は悪政も続き、とても暮らしにくい世の中だ。人の心も体も病んでいく。そんな中でもこれまで、援農や菜の花祭に関わってきた人たちには、ここで培った人間の絆や、様々なことを成し遂げた確信をもとみ、夢や展望をもって陽気に生きていってほしいと願っている。

ちょっと言い訳

2007年12月13日 18時17分15秒 | Weblog
 メール通信を始めてから半年が過ぎた。まず今年の3月、ヒューマンファーマーズの渡辺三智夫氏に音声パソコンのセットをしてもらい、4月には茨城県itサポートセンターのボランティアの訪問サポートで初歩的なパソコン操作の指導を受け、サラニ、民間団体の茨城パソコンボランティアの会(パソボラ茨城)のメーリングリストに登録し、メールによるアドバイスを受けながら通信も始めた。

 5月には早速ブログヲ開設しタ。変換ミスヤ誤字なども多々アッタヨウデ、今にして思えば信に恐ろしい所業であった。

 6月には、茨城パソコンボランティア会員の訪問サポートを受け、7月には茨城視覚障害者の生活と権利を守る会(茨城視生会)の、9月には全日本視覚障害者協議会(全視協)のメーリングリストに登録して交信を始めた。

 とにかく毎日パソコンに触れているようでないと駄目だと言われ、毎日とはいかないまでも、習うより慣れろということで半ば強引に実用してきたのであった。
 そんな訳でこの半年間、ほとんど迷惑メールのようなメール通信と、いい加減な内容の部ログを書くことを続けてはきたが、ここでちょっとお詫びというか言い訳をしておかなければならない。

 一つは、変換ミス、記入ミス、勘違いなどで文字や文章の間違いが多いことである。最近になって一部だが、自らの文章を聞きなおしてみて判ったもので、全体を見直せばどれだけの間違いがあるかは見当がつかない。

 もう一つは、諸般の事情でブログをなかなか書けていないということである。取るに足りない戯けごとを書いてはいるのだが、けっこう意外な方?や偉い方?なども読んでいるようで、出かけた先で様々な方から、「よく読んでますよ」、「最近怒ってますね」、「どうやって書いているんですか?」などといわれて驚くことがある。

 その様な訳で、誤字等については、落ち着いて書けば大分改善できることだろうし、ブログについても、万難を排してまでとはいかないが、できるだけ書くように努力を傾注したいと思っているので、誠に言い訳にもならない言い訳だがしばしの我慢とご容赦を願いたい。

 尚、来年はワープロその他の操作方法を学んで生きたいと思っているので、パソコンに詳しい方のご指導ご鞭撻をよろしくお願いしたい。

ヒューマンファーマーズ20年

2007年12月10日 18時03分05秒 | Weblog
 1988年11月5日、水戸市千波湖畔の公園で開かれた、食料と健康を守る茨城県民集会が、百姓フォークヒューマンファーマーズ初登
場の舞台であった。

 出演メンバーは北嶋誠と砂糖せいごうの2人で、おりからの日本農業潰しという情勢をにらんで、「食と農を守れ!」というポリシーをはっきりと掲げていた。これがヒューマンファーマーズ20年の滑動の始まりであった。

 この時の主催は、食料と農業を守る茨城県懇談会(略称・茨城農業懇)で、後に食料と健康を守る茨城県連絡会(略称・茨城食健連)と改称される。

 この年の4月30日には既に茨城県西農民センターが結成され、農民運動の全国センターを考える懇談会(農民紺)の動きも活発となる。

 全税関による港湾の輸入食品見学の取り組みが広がって、労働者、農民、消費者が共同した国民の食糧と健康を守る全国統一行動実行委員会(食健連の前身)も結成される。

 翌89年には農民運動全国連合会(農民連)と国民の食糧と健康を守る運動全国連絡会(全国食健連)が結成され、これらの集会などにもヒューマンファーマーズはお呼びじゃないのに現れ始める。

 これ以後のヒューマンファーマーズの歴史については、おいおいとブログニ書いているトコロデアル。

 今年の11月5日で満19年、20年目の滑動に入った。来年の満20周年ころまでには何か記念の企画をと考えている。

 あれもこれもという訳にはいかないが、結成20周年記念コンサートだけは何とか実現したいものである。

 期日、会場、内容など自らのチームがメインのコンサートを企画するのも案外難しいものだが、ちょうど10年目であった98年が、私の入院やら何やらでそれなりに様々なことがありすぎて、記念行事どころではなかった。それだけに来年こそは、支援していただいた皆さんへの感謝と、このワケノわからないチームに付き合っていただいたメンバーへのねぎらいの思いをこめて、節目だけは飾っておきたいのである。

 記念コンサートツアーをとか、ニューcdを要望する声もあるし、来年もまたまた皆様に多大なご迷惑をかけてしまうような気がしてならない。