北嶋誠のブログ

私の考えていること、言いたいことなどなど。

ヒューマンファーマーズ1998・その3

2007年10月25日 23時55分11秒 | 初期のヒューマン・ファーマーズ
 6、7、8月と、私の入院直後からの本田豊氏らの援農は続いていた。これが契機となって援農隊はおこった。8月14日、最初の援農隊のやってくる日に私は一時退院が許可され帰宅していた。三十数人の援農参加者の思いに触れて、この上ない感激であった。

 苦悩する農民同士の助け合いの組織と運動をと思い描いていた私にとって、自分が助けられるとは皮肉な話だが、自分も関わってきた組織と運動がこのような事を実現させるとは、正直うれしかったし誇りでもあった。ただどのような経緯があったにしても、特定の人への対応という事には疑問符をつける人もいるだろうし、当然のごとく妬み嫉みもあるだろう。もともと農民同士の助け合いや共同が基本理念であるのだから、組織として運動として、農業経営や農村生活における相互扶助の活動を充実させていく事が肝心だと思う。

 8月26日に退院して程なく、佐藤せいごうによって曲の付けられた「菜の花が咲いたよ」と「箱舟に乗って」が、カセットテープに吹き込まれて送られてきた。「菜の花が咲いたよ」の最初のイメージは、キーが低く、深夜にでも吹き込んだのでもあろうか、ゆっくり静かに歌われていて、暗く重苦しい雰囲気であった。

 この頃、後にヒューマンファーマーズのメンバーとなる、茨城農民連書記の吉川路子から「一緒に歩こう」の歌詞がファックスで届けられていた。自分では読む事が出来ないためしばらくの間放っておいたが、いざ取り組んでみたら5分ほどで局が付いた。

 第2回援農の日には佐藤せいごうがかけつけ、お昼休みに長屋門の下を舞台代わりに、庭で昼食を取る参加者たちに向けて、激励と感謝の演奏をした。この日、援農にきていた吉川路子に、「一緒に歩こう」と「菜の花が咲いたよ」の2曲を録音したカセットテープを手渡し、特に「一緒に歩こう」については、自分で作った歌だから、自分で歌うことによって責任を取るように話をした。

 第3回援農には千葉県メンバーの亀井秀明と久保田秀幸がやってきた。休憩時間に私も加わり3人で、新曲「鬼怒川」を演奏し、さらに吉川路子のボーカルを加えて「一緒に歩こう」を初公開した。

 一方、佐近加奈子は援農のかたわら、我が家の畑の一角を夢農場と証して野菜作りをしていた。これらの模様を素材にした歌詞を書いて私に送ってきたので、これに曲を付けたのが「東の国の夢農場」である。この歌についても、リアルで独特の表現なので、当事者でナイト説得力がないと説明し、自分で歌うようにと話をした。

 援農隊による作業が進められている背景で、様々な歌が生まれ、これらの歌はヒューマンファーマーズのファーストアルバム「菜の花が咲いたよ」に収録される事になる。

 この年の後半のヒューマンファーマーズの演奏活動は、私の体調の回復が万全でなかったことや、失明というハンディーを背負ってさすがに苦しい期間ではあった。大塚での全国食健連代表者会議では頭痛が激しくなり、演奏と宿泊を中止して帰って来た。それでも、百里稲刈り交流会、収穫祭、茨城のうたごえ合唱発表会、茨城農民連大会などで最低限の事はできたとは思っている。

 11月には、日本のうたごえ40周年東京大会があったが、これはもう、参加するだけでも意義があるような状態であった。この時金賞を受賞したのは、茨城県内ではヒューマンファーマーズの最大のライバルである鈴木ファミリーであった。この時出演していたファミリーの末弟で、若干19歳の鈴木光介が、翌年のファーストアルバム「菜の花が咲いたよ」でピアノとトランペットで参加し、その後しばらくはヒューマンファーマーズのメンバーに加わる事になる。

 1998年はまさに波乱万丈の年ではあったが、ファーマーズとしては創作が進み、女性メンバーが2人くわわり、新しい分野の開拓とネットワークの広がり、cdの製作が決まるなど大きな展望が広がる年でもあった。

ヒューマンファーマーズ1998・その2

2007年10月24日 20時50分55秒 | 初期のヒューマン・ファーマーズ
 1998年は、ヒューマンファーマーズの活動もさることながら、農民運動の分野では茨城県西農民センターの会長を務めていたこともあって、何かと多忙をきわめていた頃だった。

 だが、私にとってはヒューマンファーマーズも農民運動も平和運動もすべて自らの運動であり境界は無かったし、仕事も運動も遊びも区別が出来ないような生き方をしてきた。

 6月19日に入院し失明がわかった後でも、残された条件の仲で活動を継続していきたいという意欲だけはまだ充分残っていた。この辺の事は旭つめあかね著「菜の花が咲いたよ」(本のいずみ社刊)に詳細に描かれているので、ここではファーマーズ関係に限って書く。

 入院して意識が回復したのが一週間後である。何とか指が動いたので、リハビリがてらにギターを弾き始めたのは一ヶ月後の事だった。病室にギターを持ち込んでしまったのは私が初めてらしい。もちろん個室であったとはいえあまり大きな音は出さないようにしていたが、ベッドの横に立ってギターを弾いている私の姿を見て、巡回してきた医師が「別人だね!」と驚いていた。

 一人で練習をしたり看護士たちのリクエストに応えて演奏などをしているうちに、だんだん創作意欲が湧いてきた。

 病室内で歌作りを始めて「都会を離れて(この町に来て)」など数曲出来た。作詞が中途であった「菜の花が咲いたよ」の歌詞を書き上げ、「箱舟に乗って」の歌詞と共に、お見舞いに来てくれた佐藤せいごうに手渡して、作曲を依頼した。この歌詞をレポート用紙に書いている時、病室に入ってきた看護士が「目が見えるんですか?」と聞いたので、「目はまったく見えないけれど書いている」と応えた。

 私の入院直後から本田豊氏や佐近加奈子らが我が家の援農にきている事を知り、わたしも頑張らねばと退院コンサートを計画。特別な計らいで病院の了承と協力を得て、退院前日の8月25日にコンサートを開いた。結成以来の年バーである佐藤せいごうと武田秀明が応援に来てくれたために、3人でヒューマンファーマーズとして演奏する事が出来た。場所は待合室で、診察の終了した土曜日の午後に開いた。開始を知らせる院内放送があり、観客は患者、看護し、職員、知らせを聞いてやってきたなかまたちなどであった。大病と手術の後のためにあまり元気な演奏ではなかったとは思うが、最後に主治医の先生に花束と激励の言葉をいただいてコンサートは終了した。

 6月19日の演奏後たおれ入院し、失明したが、不滅のヒューマンファーマーズは僅か2ヶ月で復活したのである。

 翌8月26日の午前中、私の病室に車椅子でやってきた患者さんに、病院内では最後の演奏をしばし聞かせ、その日の午後に私は退院した。

ヒューマンファーマーズ1998・その1

2007年10月23日 17時22分40秒 | 初期のヒューマン・ファーマーズ
 来年満20周年を迎えるヒューマンファーマーズだが、前半10年の締めくくりの1998年は、あまりにも多くの出来事がっあった年であり、変化したのか進歩したのかは判らないが、大きな転換期であったことには間違いない。

 まず、年明け早々、日本のうたごえ祭典40周年大阪大会で、小編成の部に出場し金賞を受賞。この話を聞いた笠木透氏には「君たち金賞をとったんだってな、いよいよヒューマンファーマーズもおしまいだな」というお言葉おをいただいた。幾多のふぉーくソンググループが、身に余る評価を受けた後に辿った悲劇的な末路。それを知る笠木氏からの好意的な忠告だと思う。人間は誰しもが傲慢に成り得るものだ。お人よしもまた損をする事はあるが、傲慢になると周囲に迷惑や危害を加え、結局身の破滅を招く事にもなる。

 だが、私たちはむしろ、なぜヒューマンファーマーズに金賞を与えたのかと、日本のうたごえ運動の行く末をこそ心配していたのである。結局のところ両者とも現在でも健在ではあるが。

 5月には、我が家の35アールの田んぼで第6回れんげまつりを開いている。好天に恵まれ参加者は約150人、宮崎牛のバーベキューと地酒「武勇」辛口純米酒がうまかった事を覚えている。特設ステージではもちろんヒューマンファーマーズの演奏。当時のメンバーは北嶋誠、佐藤せいごう、武田秀明、亀井秀明、久保田秀幸、渡辺三智夫の男性ばかりであった。この時、後にメンバーとなる佐近加奈子が私たちの演奏を初めて聴いている。

 ゲストはふぉーくグループsamのめんばー赤木一孝氏(昨年、群馬県内でのコンサートで、8年ぶりにお会いしている)。

 6月はじめには、農民連、食健連主催の農水省前集会と農水省交渉が行われた。わが茨城県西農民センターでは参加希望者は無く、やむなく私一人で出かけた。現場に着くと、最賃行動展開中の全国一般労組の人たちが多数共同の座り込みをしていた。だが農繁期とはいえ農民連はいつになく少数であった。wto協定施行後も改定やセーフガード発動を要求しての運動は行なわれてはいたものの、この頃が農民連にとって最も意気の上がらない時期だったような気がする。

 同じ頃、前年に2アールほど咲く付けしたナタネを一部収穫している。これは、農民連ガ呼びかけた大豆、ナタネなどの生産回復運動に呼応したものである。同時に、ナタネの歌を創作しようと、後に「菜の花が咲いたよ」となる歌詞の一部が出来ていた。

 6月17日、ピアノが弾けるということで、ファーマーズのメンバーにと勧誘していた佐近加奈子らと、輸入小麦をたっぷり使用したと思われるお好み焼きを食べに行ったが店は閉まっていた。

 18日には茨城県西農民センター副会長の本田豊氏と活動の途中、結城市内の値段はそこそこ味はいまいちの食堂に入り、輸入小麦に有機リン系農薬残留の心配はあるが、比較的うまいほうの冷やし中華を食べた。そこでは、そろそろ転換期に来ている農民運動の将来について語り合っている。

 そして19日は忙しかった。この朝は特別早く起きて、農民センター関係資料のワープロを打ち、それから朝の搾乳作業をして、妻より早く牛舎からあがり、保育園に出かけた娘ののこしたご飯に生卵をかけて朝食とした。それから車で約一時間半をかけて茨城農民連の執行委員会しゅっせきのために茨城町まで出かけた。前日あったばかりの本田氏も出席していた事を覚えている。

 会議終了後の夕方、下館市内の寿司店で地場さんコシヒカリ使用と思われる寿司を食べ、その後下館市民会館での集会に佐藤せいごうと二人でヒューマンファーマーズとして出演した。演奏直後に私はくも膜下出血のため緊急入院した。生命は辛うじて助かったが、物を見るのはこの日が最後となった。

 この頃の事は、ヒューマンファーマーズや農民運動など多忙で疲労も溜まっていたのかもしれないが、気持ちだけは充実していたのだろう。良く記憶しているのである。






10回目のナタネ播種

2007年10月22日 19時16分31秒 | Weblog
 10月19日、ゆうき菜の花の会や茨城県西食健連の会員ら十数人が参加して、ナタネの播種を行なった。

 1998年の援農隊がナタネの栽培を始めてから、10回目のナタネの種まきであり、来年が第10回菜の花祭りとなる。

 援農を受けた当事者の私が述懐するのも僭越な話ではあるが、病に倒れ失明した仲間を励まし、窮地に陥った家族や農業を支援しようと、活動を共にしていた農民や消費者などが中心となって援農隊は起こった。

 その後、少しずつ形を変えて、食料、農業、環境、平和を守る運動の一環として、また都市と農村、農民と消費者を結ぶ交流や学習の場ともなっている。

 ここで培われた信頼関係を基礎にして地産地消や地域での共同運動に結実させていければ、私も病に倒れ周囲にみ迷惑をかけた甲斐があるというものだ。

 ただ、ここに集まる人たちがここて何か事業を始めようなどとは思ってはいないだろう。実利や損得勘定では図れない要求が満たされるのかも知れない。

 だが、この智に種を蒔き育てたからには、菜の花祭りの開催で終わってしまってはもったいないのである。やはり収穫の喜び、自分で栽培したものを自分で食べる喜びを満喫るべきだと思う。

 食と農への理解を深め、運動を継続していくために、単にお金ではなく、遊びやお祭り、運動だけでもなく何か収穫がほしい。

 私は今、家庭用搾油機をを準備しようと思っている。ここに集う人たちが楽しめるくらいのナタネ油ヲ生産したい。作業の出来ない私にできる事はそのくらいである。地産地消も極めれば自給自足、物々交換にまで到達する。ここで自分たちで作ってここで自分たちで食べよう!。

 このニューリベラリズム、マネーゲームのご時勢に何をのたまうかと嘲笑されるだろう。何か突飛なことかも知れないが、現状の人間社会や地球環境に思いをはせたときに、地域から共同と共生の社会作りを展望する活動が始まっても良いのではないかと思う。まずは何事も、ここでのようなささやかな活動から模索されていくのだろう。

 今年もナタネの種が蒔かれたということを聞いて、そんな事をとりとめも無く考えている。

憲法九条と平和のメッセージをフォークソングで発信 

2007年10月14日 13時38分50秒 | Weblog
北関東憲法フォークジャンボリー開く

 まずはじめに、ご支援ご協力いただいた皆さんに厚くお礼を申し上げます。
 
 お陰様にて10月7日、茨城県の結城市民情報センターを会場に、北関東憲法フォークジャンボリ ーを開き、盛会のうちに終了することが出来ました。誠にありがとうございました。

 主催のかるちあ農園(ふぁーむ)と、わが百姓ふぉーく・ヒューマンファーマーズや連根の会などが呼びかけた同実行委員会では、この地域での運動が今ようやくスタート台に立ったところと考えています。

 政界を見れば、美しい国づくりが頓挫して、安倍内閣は退陣。やけに協調や柔軟路線を演じる福田内閣となりました。しかし、a級戦犯で安保の岸元首相、神ノ国発言の森元首相、靖国参拝の小泉元首相、そして生粋の改憲論者である安倍前首相と同じ流れを汲む人物ということもあり、改憲の動向にゆめゆめ油断は禁物です。

 このような情勢のもとで、大きなテーマデはアるけれど、私たちの生命や暮らしに最も切実で身近なテーマでもある憲法九条と平和を守るために、フォークソングでメッセージを発信していこうと、出演者や観衆など合わせて約200人が参加しました。約4時間のロングコンサートとなりましたが、出演者やスタッフの努力と意気込み、創意工夫などによってそれなりに充実させる事ができたように思います。

 各地からの12チームの出演者は、共同作業所勤務、農民、障害者、保育園長、介護福祉士、公務員など、それぞれの立場から、その個性、創造性、人間性を如何なく発揮した創作曲を持ち寄り、限られた時間の中で憲法九条への思いを精一杯表現しました。演奏の合間には、それぞれの言葉で平和への願いを語り、交流しました。

 毎度おなじみの独自の演奏はヒューマンファーマーズ。新曲が好評だった小野操とその仲間たち。若者でも古風なフォークシンガー チエ。マサニ聖なる演奏母なる歌声マザーウォーター。つくば風の輪のコカリナ奏で平和の輪を広げてください。歌い創造する足利九条の会に期待。驚嘆の不良障害者渡辺善行。「世界が開らけた」と将来が楽しみな元気な演奏えりのあ。アパラチア山ろくの家族の演奏を思わせるワイルドフラワーズ。さすが経歴26年、安心安定の地域に根ざしたふぉーくグループ、館林ロストシティーランブラーズ。茨城が誇るコーラス ピース合唱団。まるで笠木透紹介コーナーのよろこんでぶっち、口上も良かったです。

 皆さんありがとう。お疲れ様でした。この結びつきを今後に生かしていきましょう。
 ゲスト出演の笠木透と雑花塾の演奏と語りは、あい変わらず表現力と説得力に長けていました。特に、日本国憲法公布直後に文部省から出版された教科書副読本を題材にした歌 「あの日の授業 新しい憲法の話」では、教え子を戦場に送ってしまった教師の痛苦の念と平和憲法を獲得した喜びの想いが朗読を交えながら切々と歌われ感動を呼びました。

 エンディングの雑花塾の演奏にはわがヒューマンファーマーズも加わって、今や全国に広がりつつあるピースナインで、歌い、踊り、おおいに共感しあえたと思います。
 
 また、聴衆にも大感謝です。不慣れなジャンボリー形式のコンサートにどうたいおうすれば良いのか、説明不足でした。会場も使いにくかった。それにつけても、歌に語りに笑い涙し、これほど共感しあえたコンサートは久しぶりです。ただ、感動に打ち震えているのかと思いきや、冷房の寒さに震え、あまりに長時間のコンサートへの怒りに震えていた方もいたということで、誠に恐縮しております。ご協力ありがとうございました。願わくは、次回はその怒りをバネニして、実行委員会に加わって活躍していただければ幸いです

 段取りも当日の運営も不十分、不手際な事ばかりでしたが、新しい結びつきも生まれ、次への布石を打てた事など成果も多々ありました。何よりも改憲勢力が国会の圧倒的多数を占めている情勢だけに、時宜にかなう運動をまた一つ成し得たかなと思っています。 笠木透氏は常に「君たち雑草のような人間がまず行動する事が大切だ」と語っています。

 私たちは雑草のように蓮根のように根を張って、憲法ふぉーくジャンボリーをはじめ、私たちにできる事で憲法九条を守る運動に加わりそして広げて行きましょう。