6、7、8月と、私の入院直後からの本田豊氏らの援農は続いていた。これが契機となって援農隊はおこった。8月14日、最初の援農隊のやってくる日に私は一時退院が許可され帰宅していた。三十数人の援農参加者の思いに触れて、この上ない感激であった。
苦悩する農民同士の助け合いの組織と運動をと思い描いていた私にとって、自分が助けられるとは皮肉な話だが、自分も関わってきた組織と運動がこのような事を実現させるとは、正直うれしかったし誇りでもあった。ただどのような経緯があったにしても、特定の人への対応という事には疑問符をつける人もいるだろうし、当然のごとく妬み嫉みもあるだろう。もともと農民同士の助け合いや共同が基本理念であるのだから、組織として運動として、農業経営や農村生活における相互扶助の活動を充実させていく事が肝心だと思う。
8月26日に退院して程なく、佐藤せいごうによって曲の付けられた「菜の花が咲いたよ」と「箱舟に乗って」が、カセットテープに吹き込まれて送られてきた。「菜の花が咲いたよ」の最初のイメージは、キーが低く、深夜にでも吹き込んだのでもあろうか、ゆっくり静かに歌われていて、暗く重苦しい雰囲気であった。
この頃、後にヒューマンファーマーズのメンバーとなる、茨城農民連書記の吉川路子から「一緒に歩こう」の歌詞がファックスで届けられていた。自分では読む事が出来ないためしばらくの間放っておいたが、いざ取り組んでみたら5分ほどで局が付いた。
第2回援農の日には佐藤せいごうがかけつけ、お昼休みに長屋門の下を舞台代わりに、庭で昼食を取る参加者たちに向けて、激励と感謝の演奏をした。この日、援農にきていた吉川路子に、「一緒に歩こう」と「菜の花が咲いたよ」の2曲を録音したカセットテープを手渡し、特に「一緒に歩こう」については、自分で作った歌だから、自分で歌うことによって責任を取るように話をした。
第3回援農には千葉県メンバーの亀井秀明と久保田秀幸がやってきた。休憩時間に私も加わり3人で、新曲「鬼怒川」を演奏し、さらに吉川路子のボーカルを加えて「一緒に歩こう」を初公開した。
一方、佐近加奈子は援農のかたわら、我が家の畑の一角を夢農場と証して野菜作りをしていた。これらの模様を素材にした歌詞を書いて私に送ってきたので、これに曲を付けたのが「東の国の夢農場」である。この歌についても、リアルで独特の表現なので、当事者でナイト説得力がないと説明し、自分で歌うようにと話をした。
援農隊による作業が進められている背景で、様々な歌が生まれ、これらの歌はヒューマンファーマーズのファーストアルバム「菜の花が咲いたよ」に収録される事になる。
この年の後半のヒューマンファーマーズの演奏活動は、私の体調の回復が万全でなかったことや、失明というハンディーを背負ってさすがに苦しい期間ではあった。大塚での全国食健連代表者会議では頭痛が激しくなり、演奏と宿泊を中止して帰って来た。それでも、百里稲刈り交流会、収穫祭、茨城のうたごえ合唱発表会、茨城農民連大会などで最低限の事はできたとは思っている。
11月には、日本のうたごえ40周年東京大会があったが、これはもう、参加するだけでも意義があるような状態であった。この時金賞を受賞したのは、茨城県内ではヒューマンファーマーズの最大のライバルである鈴木ファミリーであった。この時出演していたファミリーの末弟で、若干19歳の鈴木光介が、翌年のファーストアルバム「菜の花が咲いたよ」でピアノとトランペットで参加し、その後しばらくはヒューマンファーマーズのメンバーに加わる事になる。
1998年はまさに波乱万丈の年ではあったが、ファーマーズとしては創作が進み、女性メンバーが2人くわわり、新しい分野の開拓とネットワークの広がり、cdの製作が決まるなど大きな展望が広がる年でもあった。
苦悩する農民同士の助け合いの組織と運動をと思い描いていた私にとって、自分が助けられるとは皮肉な話だが、自分も関わってきた組織と運動がこのような事を実現させるとは、正直うれしかったし誇りでもあった。ただどのような経緯があったにしても、特定の人への対応という事には疑問符をつける人もいるだろうし、当然のごとく妬み嫉みもあるだろう。もともと農民同士の助け合いや共同が基本理念であるのだから、組織として運動として、農業経営や農村生活における相互扶助の活動を充実させていく事が肝心だと思う。
8月26日に退院して程なく、佐藤せいごうによって曲の付けられた「菜の花が咲いたよ」と「箱舟に乗って」が、カセットテープに吹き込まれて送られてきた。「菜の花が咲いたよ」の最初のイメージは、キーが低く、深夜にでも吹き込んだのでもあろうか、ゆっくり静かに歌われていて、暗く重苦しい雰囲気であった。
この頃、後にヒューマンファーマーズのメンバーとなる、茨城農民連書記の吉川路子から「一緒に歩こう」の歌詞がファックスで届けられていた。自分では読む事が出来ないためしばらくの間放っておいたが、いざ取り組んでみたら5分ほどで局が付いた。
第2回援農の日には佐藤せいごうがかけつけ、お昼休みに長屋門の下を舞台代わりに、庭で昼食を取る参加者たちに向けて、激励と感謝の演奏をした。この日、援農にきていた吉川路子に、「一緒に歩こう」と「菜の花が咲いたよ」の2曲を録音したカセットテープを手渡し、特に「一緒に歩こう」については、自分で作った歌だから、自分で歌うことによって責任を取るように話をした。
第3回援農には千葉県メンバーの亀井秀明と久保田秀幸がやってきた。休憩時間に私も加わり3人で、新曲「鬼怒川」を演奏し、さらに吉川路子のボーカルを加えて「一緒に歩こう」を初公開した。
一方、佐近加奈子は援農のかたわら、我が家の畑の一角を夢農場と証して野菜作りをしていた。これらの模様を素材にした歌詞を書いて私に送ってきたので、これに曲を付けたのが「東の国の夢農場」である。この歌についても、リアルで独特の表現なので、当事者でナイト説得力がないと説明し、自分で歌うようにと話をした。
援農隊による作業が進められている背景で、様々な歌が生まれ、これらの歌はヒューマンファーマーズのファーストアルバム「菜の花が咲いたよ」に収録される事になる。
この年の後半のヒューマンファーマーズの演奏活動は、私の体調の回復が万全でなかったことや、失明というハンディーを背負ってさすがに苦しい期間ではあった。大塚での全国食健連代表者会議では頭痛が激しくなり、演奏と宿泊を中止して帰って来た。それでも、百里稲刈り交流会、収穫祭、茨城のうたごえ合唱発表会、茨城農民連大会などで最低限の事はできたとは思っている。
11月には、日本のうたごえ40周年東京大会があったが、これはもう、参加するだけでも意義があるような状態であった。この時金賞を受賞したのは、茨城県内ではヒューマンファーマーズの最大のライバルである鈴木ファミリーであった。この時出演していたファミリーの末弟で、若干19歳の鈴木光介が、翌年のファーストアルバム「菜の花が咲いたよ」でピアノとトランペットで参加し、その後しばらくはヒューマンファーマーズのメンバーに加わる事になる。
1998年はまさに波乱万丈の年ではあったが、ファーマーズとしては創作が進み、女性メンバーが2人くわわり、新しい分野の開拓とネットワークの広がり、cdの製作が決まるなど大きな展望が広がる年でもあった。