ビールを飲みながら考えてみた…

日常の中でふっと感じたことを、テーマもなく、つれづれなるままに断片を切り取っていく作業です。

声を出す――そんな基本動作の難しさ。

2012年09月03日 | 演劇
声を出す。芝居をやる上では最も基本的な行動だ。それこそ15年以上ぶりに、役者をやってみいるとその基本的な行動がこんな難しかったのかと改めて思う。

今回の役柄は、出番の殆どを椅子に座って台詞をいう役。ずっと、心配したり考え込んだり悩んだりと、ざっくりいうと深刻そうにしている。その上、日常的なシーンで構成される芝居なので、必要以上に大きな声をだしたり、大仰な台詞回しができなかったりする。

まぁ、それでも大学時代はそんなことを考えずに普通に台詞をいえたのだろうが、久しぶりに役者をすると、思った以上に声が出ていない。もちろん大きい声を出そうと思えば出せる。ただその場の雰囲気やシーンの流れを考えたとき、無理をしない台詞回しでの声量が小さいのだ。

僕の中では、「声」の出し方にはいくつかチェックポイントがある。

1つは声を作るポイント。これは演出からも指摘を受けたのだけれど、芝居をやるとき、声を作るポイントは「喉」で作るのではない。いや、もちろん喉が震えることで声ができるのだけれど、意識の問題として「喉」や「口」で作るのではなく、口の先で声を作るようにするのだ。

こうすることによって「声」は前に/外に向かって出るようになる。

管楽器や合唱の経験がある人なら分かるかもしれないが、このアプローチは音楽とは真逆となる。音楽では美しい「響き」を作り出すために、「声」を作り出すポイントを頭よりも後ろに置く(後ろに引っ張るイメージ)。そうすることで「響き」は口から(体から)広がっていくのに、「音圧」といったものを押さえることができるようになる。

合唱やクラシックの演奏などで音量がどんなに大きくても「不快に」大きいと感じないのはこういうところにある。

しかし芝居は「関係性」の芸術だ。誰かに何かを伝えなければならなければ、それをきっちり「声」で渡さなければならない。例えそこに「きつさ」「不快さ」があったとしても、「感情」や「気持ち」を乗せて相手に伝えなければならないのだ。

それだけではない。TVや映画のドラマであれば、その場(シーン)にいる相手の役者に伝えればいいのかもしれないが、舞台ではそこに観客がいる。その舞台にいる役者同士で伝え合いながら、同時に観客にどう伝わっているのか/どう伝えようとしているかも問われことになる。そのためにも「声」を前で作らなければならない。


もう1つは抑揚と感情のバランスあるいはそれが自然体として受け取られられるかだ。

台詞を口にする際には、大なり小なり抑揚や台詞回しが必要になる。しかし日々の生活を見渡してもらえば分かるけれど、日常会話で抑揚が激しくなることはそんなにない。いくら演劇が虚構によって出来上がった劇空間だとしても、ウソ臭い台詞回しでは興ざめだ。

ではウソ臭い台詞回しとはどんなものだろう。

結局のところ、それはそのシーンと合致しているか、抑揚と感情が合致しているかどうかということになる。例えば日常的なシーン・自然体の会話の中で歌舞伎俳優のような台詞回しをすれば、どうしても違和感がでる。また抑揚のつけ方が大げさなのに、感情がそれに追いついていなければ、それもまた不自然ということになる。

反対に多少大げさな言い回しだとしても、テント芝居のような劇空間・虚構性の強いもので、感情と合致していればそれはそれですんなりと受け入れられる。芝居の質とのバランス、感情とのバランスということになる。

3つ目がその一連の流れに合った台詞の出し入れをするということ。芝居は関係性の表現だ。同じ台詞であったとしても、その場その時の周囲との関係性、流れの中で言い方や間の取り方は変わってくる。例えば

「お前、いったい何をやったかわかっているのか」

という台詞があったとして、これを一息でいう場合もあれば、読点で間をとる場合もある。場合によってはそれ以外のところでもリズムを変えるために間をとることもあるだろう。どれが正解ということはない。また練習してきたやり方が正しいというわけでもない。その瞬間のやり取りの流れの中で最適な言い方やリズム、間の取り方を見つけ出すしかない。

このことは逆に言うと、いくら役者個人としては素晴らしい言い方をしたとしても、周囲との関係性・一連の流れの中でリズムを崩すようであればそれは相応しくないということになる。(もちろんあえて噛み合わないようにすることもある。)

だからこそ普段からどんなボールが投げかけられ、それに対してどんな受け取り方、返し方ができるか、その引き出しの多さは大切になる。

4つ目が言葉の出始めや語尾の処理だ。これは声質の問題かも知れないけれど、僕の場合、言葉の出始め/語尾が響きの中にまぎれてこもって聞こえる傾向がある。そのため、緊張感のある場面や第一声の言葉の冒頭の処理には非常に気を使っている。出したいような形で声が出るのか。

通る声であれば問題ないだろうが、そうでないからといってこれはこれで仕方がない。「北の国から」の田中邦衛だって別にハキハキとした通る声ではないけれど、あの喋り方だからこその「味」がある。声質は変わらないのであれば、その上でどう工夫できるか、勝負できるかでしかないのだから。

と、もっともらしいことを書いたけれど、これらを完璧にこなせるほどいい役者なはずもないわけで、だからこそ気にしながらやっていくことになる。これらは声の出し方についてだけど、それ以外にも課題は山積だ。どんな風に感情を作るのか。それをどんな風に表現するのか、動きはどうか、空気感は作り出せているのか――何となく漠然とそういったことをやろうとしていた学生時代に対し、課題などが見えるようになった分、一つ一つのことが難しく感じるわけです。はい。

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