近所に「日本一おいしいラーメン屋 蓬莱軒」と「山頭火」の看板があがっている。距離にしてわずか150mほど、店の大きさに大差はない。お昼時、片方は店の外までOLやサラリーマンが並び、もう片方は団体客でもない限りすぐに座れそうだ。どちらが混んでいるのか?もちろん「山頭火」だ。ラーメンを食べるなら、「日本一おいしいラーメン屋」よりも「山頭火」にみんな行くのだ。
何故、「日本一おいしいラーメン屋 蓬莱軒」よりも「山頭火」を選択するのだろうか。簡単な話だ、「山頭火」はおいしいラーメンを出してくれるという期待があるけれど、「日本一おいしいラーメン屋」にも「蓬莱軒」にもそういう期待がないからだ。「日本一おいしい」はただの掛け声に過ぎず、「蓬莱軒」はただの名前に過ぎず、しかし「山頭火」はブランドなのだ。
果たして「ブランド」とは何であろうか?
「蓬莱軒」と「山頭火」の違い。それは周囲の人々の期待であり、もしくはその期待に対する答えの確度である。100人が100人とも美味しくないと思っている限り、「山頭火」という名前であろうと、そのラーメン屋に対して「おいしさ」を期待することはない。しかしそのうちの8割が美味しいと感じたら!、そこにはじめてブランドが生じる。例え「日本一おいしい」というキャッチフレーズをつけたところで、「虚」は「虚」でしかなく「実」こそがさらに大きい「虚」を生み出すのだ。「ブランド」とはそうした人々の期待の総和なのだ。
例えば「スリー・ポインテッド・スター」というブランドがある。街中でこれを付けた車を見たとき、日本人は「あ、ベンツだ」と言い、アメリカ人は「あ、メルセデスだ」と言い、ドイツ人は「あ、ダイムラーだ」と言うという。ブランドは言葉ではなく、(言葉を含めた)記号に対する期待値といっていい。
あるいは15年前の「伊勢丹」という言葉に対するイメージと現在の「伊勢丹」という言葉に対する人々のイメージの違い。同じ言葉であってもそこでの提供価値が違えば、また人々の期待の総和も変わってくる。
「言語」という名の「記号」は直接的な意味するもの(シニフィエ)と隠喩的に意味するもの(シニフィアン)とがある。「山頭火」=近所のラーメン屋の名前というだけでなく、「山頭火」=鶏がらのおいしいラーメン屋という意味さえ持ちうる。そしてこの隠喩的な要素こそがブランドに大きく寄与するものであり、実体によって支えられていなければならないものでだ。
では先ほどの「日本一おいしいのラーメン屋」とは何だったのか。
これはただのキャッチフレーズでしかない。キャッチフレーズとは商品や店の名前を覚えてもらうためにつけられた印象的な文句でしかない。当然のことながら直接的な要素が中心のものであり、「ブランド」のように隠喩的な要素、人々の潜在的な期待に支えられたものをとはある種対照的なものである。
例えばある商品を売り出す際に、商品の名前、提供価値を一般の方に知ってもらうためにはキャッチフレーズは有効である。しかしそれは商品を知ってもらうためのものであり、言うなればブランドとして価値が成立していない時に有効なものである。
スリー・ポインテッド・スターやナイキのロゴが示すように、「ブランド」とは何も名前に限らずロゴやマークといった記号に対して、人々が期待した共通の"何か"であり、ブランドとして価値をもつものであれば(実体としても価値があれば)むしろキャッチフレーズといった直喩的な要素は邪魔であるといってもいい。
最近の消費者は賢く、商品の価値についての感受性はかなり高い。80年代の"広告"全盛の時代、バブル全盛期を越え、平成不況、モノあまり時代を経験しており、「キャッチフレーズ」や「広告」的要素を見抜く目をもっている。少なくともリアルな世界では――。
最近は「ブランド論」ブームのせいか、これら2つの対照的な作用に対して、かなり混同した議論が多いような気がする。特にインターネット上のサービスでは、SEO対策や利用者のインターネットの利用経験がまだまだ少ないこともあり、「ブランド」なのか「キャッチ」なのか、あるいは「ネーミング」の話をしているのか、かなり混乱しているような気がある。
何故、「日本一おいしいラーメン屋 蓬莱軒」よりも「山頭火」を選択するのだろうか。簡単な話だ、「山頭火」はおいしいラーメンを出してくれるという期待があるけれど、「日本一おいしいラーメン屋」にも「蓬莱軒」にもそういう期待がないからだ。「日本一おいしい」はただの掛け声に過ぎず、「蓬莱軒」はただの名前に過ぎず、しかし「山頭火」はブランドなのだ。
果たして「ブランド」とは何であろうか?
「蓬莱軒」と「山頭火」の違い。それは周囲の人々の期待であり、もしくはその期待に対する答えの確度である。100人が100人とも美味しくないと思っている限り、「山頭火」という名前であろうと、そのラーメン屋に対して「おいしさ」を期待することはない。しかしそのうちの8割が美味しいと感じたら!、そこにはじめてブランドが生じる。例え「日本一おいしい」というキャッチフレーズをつけたところで、「虚」は「虚」でしかなく「実」こそがさらに大きい「虚」を生み出すのだ。「ブランド」とはそうした人々の期待の総和なのだ。
例えば「スリー・ポインテッド・スター」というブランドがある。街中でこれを付けた車を見たとき、日本人は「あ、ベンツだ」と言い、アメリカ人は「あ、メルセデスだ」と言い、ドイツ人は「あ、ダイムラーだ」と言うという。ブランドは言葉ではなく、(言葉を含めた)記号に対する期待値といっていい。
あるいは15年前の「伊勢丹」という言葉に対するイメージと現在の「伊勢丹」という言葉に対する人々のイメージの違い。同じ言葉であってもそこでの提供価値が違えば、また人々の期待の総和も変わってくる。
「言語」という名の「記号」は直接的な意味するもの(シニフィエ)と隠喩的に意味するもの(シニフィアン)とがある。「山頭火」=近所のラーメン屋の名前というだけでなく、「山頭火」=鶏がらのおいしいラーメン屋という意味さえ持ちうる。そしてこの隠喩的な要素こそがブランドに大きく寄与するものであり、実体によって支えられていなければならないものでだ。
では先ほどの「日本一おいしいのラーメン屋」とは何だったのか。
これはただのキャッチフレーズでしかない。キャッチフレーズとは商品や店の名前を覚えてもらうためにつけられた印象的な文句でしかない。当然のことながら直接的な要素が中心のものであり、「ブランド」のように隠喩的な要素、人々の潜在的な期待に支えられたものをとはある種対照的なものである。
例えばある商品を売り出す際に、商品の名前、提供価値を一般の方に知ってもらうためにはキャッチフレーズは有効である。しかしそれは商品を知ってもらうためのものであり、言うなればブランドとして価値が成立していない時に有効なものである。
スリー・ポインテッド・スターやナイキのロゴが示すように、「ブランド」とは何も名前に限らずロゴやマークといった記号に対して、人々が期待した共通の"何か"であり、ブランドとして価値をもつものであれば(実体としても価値があれば)むしろキャッチフレーズといった直喩的な要素は邪魔であるといってもいい。
最近の消費者は賢く、商品の価値についての感受性はかなり高い。80年代の"広告"全盛の時代、バブル全盛期を越え、平成不況、モノあまり時代を経験しており、「キャッチフレーズ」や「広告」的要素を見抜く目をもっている。少なくともリアルな世界では――。
最近は「ブランド論」ブームのせいか、これら2つの対照的な作用に対して、かなり混同した議論が多いような気がする。特にインターネット上のサービスでは、SEO対策や利用者のインターネットの利用経験がまだまだ少ないこともあり、「ブランド」なのか「キャッチ」なのか、あるいは「ネーミング」の話をしているのか、かなり混乱しているような気がある。
いやはや。今日も秀逸ですね。