マドリーの恋人

ヤマダトミオ。 画家。 在スペイン52年。

スルバラン(ZURUBARAN)と17世紀のセビージャ(3)

2014-09-22 11:00:00 | スペイン日記

カルトウジオ修道院の食堂での聖ユゴーの奇蹟(スルバラン)

 再婚をしたスルバランは一時の幸せを味わっていたが、商業都市セビージャは経済不況に、首都マドリードは政治的窮地に陥っていた。当時の国王フェリペ4世は文帝ではあったが政治能力はなかった。だから政治に長けたオリバレス首相がスペイン王国を治めていた。だがオリバレス首相には戦争能力はなかった。スペインはオランダ、イギリス、ポルトガル、フランスなどを相手に、戦っていたし戦いを始めたし戦い続けなければいけない、大雑把に言えば戦の大小は別として、疲労戦争を抱えていた。それだけではなく、足元のカタルーニャでも反乱が起り四面楚歌であった。

 元々スペイン人兵士の数が足りなかったので、外国人傭兵を雇っていたが彼らへの賃金支払いも滞った。湯水ように使い消えていったのが銀であり、銀貨の価値は下がり銅貨の価値が上がり貨幣経済が根底から覆へされた。オリンピックのメダルでさえも金、銀、銅、の順なのに余りにもの量の銀が市場にバラまかれたので銀インフレになってしまった(いかにペルーのポトシ鉱山が銀を産出したかです)。16世紀の末にも局地的発生していたペストだが、それが1649年頃にセビージャで爆発的に発生をした。港町の宿命で、セビージャでのペストの蔓延は速かった。

 東京の人が浅草に似ていると言う、セビージャの下町にトゥリアナ区(Triana)がある。そこもペスト患者であふれたが、傍を流れるグァダルキビル河が氾濫をした。ペスト患者は逃げることもできずに流された。その水害は春だったので、その後に続いた暑い日々が人間や家畜の死骸の腐敗を速めペストの蔓延に一層の拍車がかかってしまった。トゥリアナ区の家々は空となり、経済活動は止まってしまった。セビージャの人口は数ヶ月で半数に減ってしまった。ペスト患者は放置され、歩ける患者だけがカルトウジオ修道院に自から逃げ込んだ。同修道院には沢山のペスト患者が収容され、看護にあたった修道士達がペストから免れたのは奇跡であった。

 その奇跡を神に感謝するために、疫病の収まった1655年にカルトウジオ修道会はスルバランに聖具室に飾る宗教画3点を注文するのであったが、さて我々のスルバランはどうであったのか? 彼も不幸に見まわれ、ペストで息子のファンをなくしていた。画才に恵まれたファンはアトリエではスルバランの右腕的存在であり、彼の描く静物画は父親のそれを凌ぐ評判でもあった。スルバランが時代の変化に気付き始めたように、教会もセビージャの庶民が教義的信仰心から情緒的信仰心に心変わりを始めたことに気づいた。


無原罪の御宿り(ムリージョ)

 そんな時にセビージャの画壇に登場したのがムリージョ(Murillo)であった。ムリージョの描く甘美な「無原罪の御宿り」は教会の定めた聖像の図像表現の規定内に収まるだけではなく、愛くるしい聖母は貧困と疫病に打ちのめされたセビージャ庶民の聖母崇拝心にピッタリと合った。セビージャの画壇はそのムリージョとエレラ・エル・ホーベン(Herrera El Joven)の時代となる。エル・ホーベンはベラスケスが逃げ出したアトリエの師匠・エレラ・エル・ビエホの息子である。エル・ホーベンの描くダイナミックな宗教画は近代的で、それはすでに18世紀の美術感覚の先取りでもあった。

 セビージャ画壇での自分の時代の終わりを悟ったスルバランは1658年に首都・マドリードに移り住む。ベラスケスのサンティアゴ騎士団(la Orden de Santiago)の名誉入団式の立会人も務め、マドリードの生活では何かと彼の世話になった。だが、そのベラスケスも1960年に亡くなる。同郷の友を失っただけではなく、当時のスルバランに残されていたのは、三番目の妻・レオノールと一番目の妻との二人の娘だけであった。他の子どもたちは亡くなり、セビージャへ帰る気力も失ったスルバランはセビージャに残る長女に財産を譲り、マドリードに骨を埋める覚悟をする。

 マドリードでは還暦の画家とは思えない程の意欲で制作をする毎日であった。イタリア・ルネサンスに学び、ラファエルに傾倒した画風の宗教画を描いたが、教会からの注文はなくほとんどが個人からの依頼であった。宗教画家として生きたスルバランも1664年、マドリードで65歳と9ヶ月の生涯を閉じた。もし貴方がセビージャを訪れたら県立美術館でスルバランの名作を鑑賞して下さい。



 5ヶ月ぶりに降った雨でマドリードは初秋の涼しさになり、それが嬉しくてついつい外を遊び歩いてしまいました。肌寒くなる10月中頃までは気持ち良い毎日です。暖炉の薪を注文するなど、冬支度もあったので「続き(3)」が遅くなりました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スルバラン(ZURUBARAN)と17世紀のセビージャ(2)

2014-09-10 17:00:00 | スペイン日記

「キリストの磔刑」

 ジェレナでのスルバランとマリアの記録は乏しいが、フエンテ・デ・カントスやジェレナの教会や修道院から絵画を依頼されていたようだが現存する作品はない。残っているのは二人の子供の洗礼記録だけだが、その後、妻・マリアは亡くなったようだ。なぜなら、1625年にベアトリス・デ・モラーレス(Beatriz de Morales )と再婚をした。ベアトリスもスルバランよりも年上で未亡人であった。何故スルバランは姉さん女房を好むかは分からないが、このベアトリスは地方豪族の娘でスルバランに「貴方は絵の制作だけに専念しなさい」と経済的援助を与え、セビージャの画壇へ押し出す。

 1626年、セビージャのドミニコ修道会より聖ドミニクスの生涯を描く注文を受ける。21点の宗教画で制作期間は8ヶ月、画料はわずかであったがセビージャの画壇への足がかりをつかむ。これもモラーレス家の社会力と財力のお陰であった。組織的にも経済的にも力のあったドミニコ修道会の仕事をすることは、セビージャの全修道会のお墨付きを貰ったのと同様であった。

 スルバランの仕事に満足をしたドミニコ修道会は、続けて1627年に「キリスト磔刑(たっけい)」画を依頼する。スルバランはこの“キリストのはりつけ”をキリストの体を3本の釘ではなく4本の釘で十字架に打ち付けるパチェコ(Pacheco)のキリスト教絵画理論に従った。当時パチェコはセビージャでは最もうるさい、理論的宗教画家でありベラスケスの師匠でもあった。スルバランの描いたキリストは人間味に溢れて神秘的でもあっただけではなく、修道院の部屋に飾られた絵を見た修道士たちは彫刻と見間違えた。この作品の成功により注文が殺到し、スルバランのアトリエはフル回転で制作をこなすようになる。

 1628年、メルセス修道会より聖ペドロ・ノラスコの生涯を描いた作品22点を依頼される。制作期間は1年間、画料は3倍になった。制作中の画家とスタッフのセビージャでの宿泊、食事、画材もメルセス会の負担であった。他の宗派、フランシスコ修道会の制作依頼も入る。スルバランの一連の宗教画の仕事を評価したセビージャ市議会は、1629年にスルバランにジェレナからセビージャにアトリエを移す要請をする。しかしセビージャの画壇を牛耳っていた画家ギルドより異論が上がる。強く反対を訴えたのは、若い画家アロンソ・カノ(Alonso Cano)であった。

 スルバランはセビージャ画家ギルドのマスターを持っていない、が彼の主張であった。12年前にビリャヌエバのアトリエで3年間の絵画修業を終えたが、マスターには受からなかったのだ。そのためにセビージャを離れ、エストレマドゥーラ州のジェレナにアトリエは構えたのだった。カノはミケランジェロのように、絵画、彫刻、建築の各分野の才能があった芸術家だけではなく、身内に有力者を持つ政治家でもあった。

 窮地のスルバランを救ったのは、セビージャの実力者のラ・コルサーナ子爵(Vizconde de la Corzana)であった。彼の計らいでカノの不服申し立ては一時預かりとなり、セビージャ市議会からスルバランに制作依頼のかたちで「無原罪の御宿り」を描かせて、腕前のほどを見ることとなった。「キリスト磔刑」と同じように「無原罪の御宿り」も素晴らしかったので、セビージャ画家ギルドはスルバランの技量を認めざるを得なかった。これで1926年末にスルバランはセビージャにアトリエ構えた。

 セビージャの画壇はスルバランとカノの二人が牛耳るようになった。若きベラスケスはすでにセビージャにはおらず、彼はマドリードで月給25ドゥカードス(17世紀のスペイン通貨)のサラリーマン的宮廷画家となっていた。マエストロとなったスルバランは宗教画の注文をセビージャの教会からだけではなくアンダルシア全土から受けるようになった。セビージャにアトリエを構えてからの大作注文は世話になったドメニコ修道会の聖トマス神学学校よりの「聖トマス・アクイナスの礼拝」であった。

 1631年のことで、画料は400ドゥカードスだが3回の分割払いだった。最後の支払いは同校の教授会の評価にかかっていた。この5x4メートルの大作を見ましょう。


「聖トマス・アクイナスの礼拝」

 最上部はキリストや聖母や守護聖人がならぶ天上の世界である。その下の中央にはこの絵の主役の聖トマス・アクイナスが立ち、まわりを4人の博士聖人が囲む。雲の下は俗世界で、右は国王カルロス5世と卒業生たちである。このカルロス国王の右手を見て欲しい。上を向いた手のひらは天上の聖人への崇拝の意であるが、同時に柱の向こうに見える聖トマス神学学校のパトロンは「このわしである」との意味だ。

 そして左は同校の創立者・デサがひざまずき、後ろは当時の学長や教授たちが並ぶ。恐れ入るスルバランのサービス精神だが、これで最後の支払いも手に入れたのはもちろんだ。スルバランの若さあふれた一点である。

 1634年、スルバランはマドリードへ出張をする。一年前にスペイン国王フェリペ4世(Felipe IV)がオリバレス首相(Conde-Duque de Olivares)に命じたブエン・レティーロ(Buen Retiro/現在はプラド美術館別館)と呼ばれる新王宮の増築が終わっていた。有り余る財力で集めたイタリア絵画やフランドル絵画が宮殿の壁を飾るのだが、大サロンだけは数人のスペイン人画家達に描かせた作品で埋めるのが国王の夢であった。アンダルシア贔屓のオリバレスの意見か、ベラスケスの意見か、アンダルシアから呼ばれたのはスルバラン一人だった。

 スルバランへの依頼作品は「戦いの勝利」を描いた大作2点と「ヘラクレス」の10点で制作期間は5ヶ月であった。現存する「戦いの勝利」の一つが「カディスでの防衛」であるが、構図は物語りすぎで人物のポーズもあまりにも儀式ばりショーウインドウのマネキンのようだ。「ヘラクレスの活躍」の連作はヘラクレスのレスラーのような筋肉の体は不自然でロボットのようである。着衣の聖人の瞑想の姿を描くのを得意としたスルバランは躍動美の体を描くのは下手だった。スルバランは19歳の時のマスター失格のように、36歳にして再びしくじってしまった。


「カディスでの防衛」

 フェリペ4世国王より「そちはわしの画家である。そちは画家たちの王者である」と褒めの言葉を貰い「王様の画家」の名誉は得たが「マドリードに残り、余のために描け。ベラスケスのように宮廷画家になれ」とは言われなかった。



 ここでちょっと話がそれますが、宗教画家スルバランと宮廷画家ベラスケスとはどこが違ったのでしょうか? 画才、アトリエの運営力、パトロンの経済力などと巨匠になる条件は色々とありますが、この二人を見ると「都」と「運」の二つだと思います。今でも「大いなる田舎」と言われるセビージャと首都マドリードとは17世紀でもヨーロッパ芸術の受信度が違いました。

 ちょっとだけ彼らの修行時代に再び戻ってみます。ベラスケスは理論的宗教画家パチェコのアトリエで絵の修行を終えますが、彼は初めからパチェコのアトリエに弟子入りしたのではありませんでした。当時パチェコと並ぶ人気画家エレラ・エル・ビエホ(Herrera el Viejo)に弟子入りをしました。この画家エル・ビエホは鋭い画才の故か恐ろしく気むずかしく気性も激しかった。やはり画家を目指した息子のエル・ホーベン(Herrera el Joven)でさえも、こんな気狂い親父の癇癪には付き合っては居られない、と他のアトリエに弟子入りをしてしまった。

 そんなところに弟子入りしたのが子供のベラスケスだったのです。でも、やばいアトリエに来ちゃった、と数日で逃げ出したベラスケスの判断は正しく、パチェコのアトリエを選んだのは先見の明があった。なぜなら、ベラスケスはパチェコのアトリエの親方となり、パチェコの娘も娶りマドリードへ旅たったのですから。当時のしきたりで、アトリエの巨匠に男の跡取りが居ない時は親方となった弟子が娘を嫁にするのであった。チャンスを見逃さない感と土地を選ぶ先見の明もベラスケスの才能であった。結局、スルバランはセビージャでしか巨匠として開花出来ず、ベラスケスもマドリードでしか巨匠として開花出来上なかったのです。


 スルバラン芸術の理解者は伝道で世界を旅した修道士たちで、ベラスケス芸術を賛美したのはヨーロッパ宮廷の文化人だったとも言えます。しかし、宮廷画家にはなれなかったスルバランではあるが、マドリード滞在はけっして無駄ではなかった。自分の目で見た王室コレクションの名画の数々、イタリア人画家たちの運んできた新しい美術の息吹、ベラスケスの成した画風の大胆な変貌など、スルバランは多くを学んだ。マドリードから失意でセビージャに戻ったスルバランではあるが、彼を待ち受けていたのは以前にも増す作品注文であった。

 キリスト教の神秘思想を追求する修道士たちの精神を視覚化したのがスルバランの描く宗教画の魅力であり、教会の求める理解しやすい信仰心の伝道目的とも一致したので、教会は帰りを待っていたのです。アトリエは大所帯となり、弟子が描く「アトリエの絵」が増えスルバラン直筆の作品は減っていった。スルバランは小作品を弟子に任せ、自分は修道院からの大作のみに仕事を絞っていった。1638年よりカルトウジオ会修道院の「受胎告知」や「牧師たちの礼拝」や「割礼」などの大作の連作に専念をする。その一つ、「牧師たちの礼拝」を鑑賞してみよう。


「牧師たちの礼拝」

 2x3メートルのイエス誕生の作品でカラヴァッジョの影響の明暗技法を使ったテネブリズムの画風である。マリアやホセの顔つきも衣服も田舎者そのもので、ポーズの誇張もない。画面下の籠に入った卵、水瓶、仔羊などはその部分だけでも見事な写実の静物画のようです。神の造った自然物が慈しみを持って描きあげられている。全体を眺めると、人々の服の色の組み合わせは見事な調和がとれている。マドリードでの勉強の成果だと思う。

 同じ修道院からの注文で描いた、6人の修道士の絵も見事である。一人ひとり、50号くらいのサイズで6枚の連作である。スルバランが描くとカルトウジオ修道会の白い法衣がそれぞれの修道士の性格を表しているように見える。1639年からは聖ヘロニモ修道院のために8人の修道士を描き始める。スルバランの宗教絵画の傑作と評価されている連作である。その一点、「ゴンサレス・デ・イジェスカ」を見ましょう。


「ゴンサレス・デ・イジェスカ」

 構図の大胆さに目を奪われるが、画面の右の上より、赤い布→ケープのグレーの布→机の茶の布→法衣の白と視線は下がり犬で止まる。犬の視線を追うと、机上の書籍→果物メンブリージョ→屋外の人物→建物と左上へ上がる。そんな我々の目の動きをイジェスカは鋭い目つきで見つめる。スルバランの描いた布の質感は見事で、光の中では優しい色の布であるが陰の中ではしっかりと織られた布である。

 この1639年に妻ベアトリスがスルバランの成功を見届けたかのように死ぬ。スペインの繁栄が翳り始めたのもこの頃からで、フランスやポルトガルとの戦やカタルーニャの反乱で戦費は増大していった。国の財政救済のためにセビージャの金銀はマドリードに吸いあげられていっただけではなく、中南米からの銀を積んだガレオン船の沈没も相次いだ。(よみがえれ!海賊!夢よ、もう一度!(その1))

 1640年になるとセビージャの商業経済は不況に陥り、教会の収入も大幅に減り始めた。絵の注文も減り、セビージャの画壇は勢いをなくしていった。年ごとにスルバランのアトリエも仕事が減ったので、中南米の教会に宗教画を送り始めた。しかし、作品代金の回収は容易ではなかった。だんだんと大都市のブルジョアが経済力を持つ時代に移り始めた。そんな1644年にスルバランは近所に引っ越してきた金銀細工師の娘レオノール(Leonor)と三度目の結婚をする。レオノールは未亡人ではあったがまだ28歳、スルバランは46歳にして初めて娶った年下の妻であった。再び掴んだ幸せだが、スルバランでさえも、未曾有のカオスがセビージャを襲うとは想像もしなかった。




と、25年前の連載を再掲載しているだけなのに、スペイン語の人名や名称を今の日本で通用するカタカナ名に変換しているだけで息切れがしてきたので、続きは次回です。9月も2週目になりやっとマドリードの夜は涼しくなりました。新学期が始まったので餓鬼どもの甲高い声が庭から消えました。実に心地良い一日です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スルバラン(ZURUBARAN)と17世紀のセビージャ(1)

2014-09-05 15:30:00 | スペイン日記

聖母ミセリコルディア(スルバラン)

 9月に入ったのに、今日のマドリードの昼間は40度だった。夜は風が出てきて少しは涼しくなったが、昨夜も熱帯夜だった。明日からは少しは気温が下がるようだが、もう初秋になるというのに、何なんだぁ!この暑さは?!日本には残暑と言う言葉があるが、それは8月の季語でしょう。まぁ、こう暑いと、半地下のアトリエにこもってしまう。来年の東京での個展の制作が思うように進まないのですが、アトリアの本棚のホコリを払っていたら、古いファイルがありました。20年か25年前に僕が書いたスルバランの連載でした。

 25年前と言ったら僕がまだ40歳になったばかりで、東京の紀伊國屋画廊と椿近代画廊の個展で追われていた頃です。その忙しい合間に、どこかの会報に書いた連載だったと思いますがもうすっかり忘れました。読み返すとひどい日本語の文章ですが、若い時の勢いだけはあります。それに40歳だったので、スルバランのゆかりの土地を自分で車を運転しての旅でした。当時のスペイン通貨はペセタで、一般の車にはエアコンは付いてなかった時代です。今は、通貨はユーロ、車も道路も快適になりましたが、歳とともに車を運転するのも億劫、旅もかったるい、と家でグタグタとワイン漬けです。再度掲載しますが、絵に興味が無い人には退屈な話なので、よかったらどうぞ。僕の文章欠点は「くどい」なので少々省略します。スルバランとはヴェラスケス(Velazquez)と同時代・17世紀の画家で、宗教画家と位置づけられています。


ヒラルダとセビージャ市内



フランシスコ・デ・スルバラン(FRANCISCO DE ZURUBARAN)

 「発見の年」と謳われた1992年万博の開かれたアンダルシアの州都・セビージャの17世紀は人口12万人のスペイン一の商業都市であった。繁栄した都市にふさわしく、16の男子修道院と21の女子修道院を擁していた。それらの修道院の食堂から礼拝堂までのあらゆる壁を宗教画で埋めるべく、絵の注文は殺到していた。それだけではなく、新大陸からの注文も入るようになった。セビージャより北に130km行くと、そこはエストレマドゥーラ州(Extremadura)となる。四季の穏やかな移り変わりはなく、酷暑の日が一夜にして冬となるのがエストレマドゥーラ州の土地柄だ。


スルバランのゆかりの土地マップ

 州に入って直ぐの村がフエンテ・デ・カントス(Fuente de Cantos)で、1598年その寒村でフランシスコ・デ・スルバランは生まれた。季節は、強烈な日差しに焼かれた家々の白い壁が突然襲ってきた寒波に縮み上がる初冬だった。フランシスコの父親ルイスは商人だった。「元々は3本の河を有し、ローマ時代より農耕に適した肥えた土地であったようだが荒廃してしまった」現在のエストレマドゥーラ州、


刈り取られた麦畑の遥か彼方にあるのが、フエンテ・デ・カントス村

そこにあるフエンテ・デ・カントスを訪れた。僕は、18世紀のスペイン絵画の巨匠・ゴヤの生まれたアラゴン州のフエンデトドス(Fuendetodos)村も訪れたが、そこと比べたらまだましだった。ゴヤの生地は1970年代でも「泣きたくなるほどの寒村」だった。このフエンテ・デ・カントスを通る「銀の道」と呼ばれる国道630号をさらに北上すると、ローマ時代の遺跡の街・メリダ(Merida)がある。さらに「銀の道」を北上するとカンタブリヤ海の港町・ヒホンまで続く。まわりは刈り取られた麦畑の茎が残り、あたかも黄金色のジュータンのようだ。


フエンテ・デ・カントス村。正面にあるのがグラナダ聖母教会

 フエンテ・デ・カントスの村に入ると、狭い路に2階建ての白壁の家が並び、水飲み場には馬とロバが繋がれていた。スルバランの時代は人口500人だったが、1940年代の16,000人をピークに減少し現在は5200人だ。村のアギラ通りにある家でスルバランは生まれた。現存する平屋の生家は1986年に再建されたもので、虫食いの梁一本のみが当時のものだ。中庭と4つの部屋があり、その一つにはスルバランの静物画「瀬戸物」のモチーフとなった水瓶が置かれている。他の部屋には複製の絵がかけられている。生家を出て村役場のある広場へ歩く。その役場の前にスルバランが洗礼を受けたグラナダ聖母教会がある。外壁の一部が崩れレンガが剥きだしの教会の中は礼拝堂が工事中だった。


スルバランの生家とその中庭

 17世紀に戻ろう。子供のスルバランは絵画技術をバダホス(Badajoz /エストレマドゥーラ州の州都)の画家・ルイス・デ・モラーレス(Luis de Morales )の弟子に学んだようだ。15歳になるとセビージャの画家・ペドロ・ディアス・デ・ビリャヌエバ(Pedro Diaz de Villanueva)のアトリエに見習いで入る。当時は子供が12歳~15歳になると画家のアトリエに見習いで入るのが習わしだった。そこで修行を積んで画工、親方と進み、画家ギルド(同業者組合)の試験に受かると画家としてのマスターを与えられて、セビージャでアトリエを構える事を許された。


静物画「瀬戸物」のモチーフが並ぶ部屋

 これで自由に絵の注文を受けることが出来るわけだが、ここでちょっと、当時のセビージャを振り返って見よう。すでに16世紀より新大陸との取り引きを独占したセビージャはスペイン商業の中心地であった。栄華を極め、爛熟した文化のなかで、絵画はセビージャ派が生まれる。17世紀に入るとスルバラン、カノ(Cano)、ベラスケス、ムリーリョ(Murillo)らがスペイン絵画の黄金時代を築いた。よく、「顕微鏡を通して描いたような写実」のベラスケス、「鏡に写したような写実」のスルバランと言われるように、セビージャ派はキリスト教をテーマとした宗教肖像画の写実主義絵画が主流だった。


スルバランの静物画「瀬戸物」

 同時に風景が殆ど無いのが特色のスペイン・バロック時代であった。修行時代を同じセビージャで過ごし、歳もほぼ同じのスルバランとベラスケスだが、その後の二人の画家の人生は明暗を分けて行く。それはそれぞれが結婚をする歳になってからのことです。二人がまだ10代の頃は教会が画家のパトロンとして君臨するセビージャだった。出だしに書いたように、教会は絵を必要としていたが、当時のインテリでもあった聖職者の審美眼は厳しかった。運良く教会より絵の注文を受けても、作品の不出来(聖人や宗派の決められた表現が問題で、上手い下手の技術レベルの問題ではなかったようです)に聖職者が文句を付けた場合は描き直しや作品返品を認める旨を契約書に加えなければならなかった。


ジェレナのマヨール広場

 駆け出しの画家の画料は僅かで、前払いは画材代ほどだった。作品の納期にも厳しく、遅れると次の仕事は他の画家に奪われた。1617年、19歳になったスルバランは3年間の絵の修行時代を終えた。しかし、セビージャにアトリエは構えずエストレマドゥーラの田舎へ帰ってしまう。自分が生まれたフエンテ・デ・カントスではなく、隣り村のリェレナ(Llerena)にアトリエを構える。そして、9歳年上のマリア(Maria)と結婚をする。所帯を持っても絵だけでは食えず、セビージャ議会から依頼された噴水のデザインも手がけていた。その噴水のレプリカがリェレナの広場に現存します。


マヨール広場に残る噴水のレプリカとその後ろがスルバランのアトリエ

 さて、リェレナとはどんなところか?ですがここは一つ、「リェレナ」ではなく僕のまわりのスペイン人が発音する「ジェレナ」でいきます。スペイン語のLLを日本では正統派の発音として「リェ」と書きますが、みな「ジェ」と発音します。で、ジェレナへ行きました。フエンテ・デ・カントスと比べると村ではなく市で、駅もある。人口は7000人と大差は無いが、中心のマヨール広場はムデハル様式(Mudejar /回教徒の影響を受けた11~16世紀のスペインキリスト教建築)の白いアーチで囲まれ、ここにもグラナダ聖母教会がある。ムデハル様式とゴシック様式の融合した美しい教会だ。昔から戦略的要地だったためサンティアゴ騎士団の駐屯地として栄えた。スルバランが移り住んだ頃も経済的にはフエンテ・デ・カントスよりも豊かであった。後年、このジェレナのグラナダ聖母教会に祭壇画「サンティアゴの殉職」を描くが、それはセビージャで成功をした後であった(その作品は現在、プラド美術館に保存されている)。


ジェレナのグラナダ聖母教会

と書き始めましたが、長くなって来たので話の続きは次回にします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする