マドリーの恋人

ヤマダトミオ。 画家。 在スペイン52年。

スルバラン(ZURUBARAN)と17世紀のセビージャ(1)

2014-09-05 15:30:00 | スペイン日記

聖母ミセリコルディア(スルバラン)

 9月に入ったのに、今日のマドリードの昼間は40度だった。夜は風が出てきて少しは涼しくなったが、昨夜も熱帯夜だった。明日からは少しは気温が下がるようだが、もう初秋になるというのに、何なんだぁ!この暑さは?!日本には残暑と言う言葉があるが、それは8月の季語でしょう。まぁ、こう暑いと、半地下のアトリエにこもってしまう。来年の東京での個展の制作が思うように進まないのですが、アトリアの本棚のホコリを払っていたら、古いファイルがありました。20年か25年前に僕が書いたスルバランの連載でした。

 25年前と言ったら僕がまだ40歳になったばかりで、東京の紀伊國屋画廊と椿近代画廊の個展で追われていた頃です。その忙しい合間に、どこかの会報に書いた連載だったと思いますがもうすっかり忘れました。読み返すとひどい日本語の文章ですが、若い時の勢いだけはあります。それに40歳だったので、スルバランのゆかりの土地を自分で車を運転しての旅でした。当時のスペイン通貨はペセタで、一般の車にはエアコンは付いてなかった時代です。今は、通貨はユーロ、車も道路も快適になりましたが、歳とともに車を運転するのも億劫、旅もかったるい、と家でグタグタとワイン漬けです。再度掲載しますが、絵に興味が無い人には退屈な話なので、よかったらどうぞ。僕の文章欠点は「くどい」なので少々省略します。スルバランとはヴェラスケス(Velazquez)と同時代・17世紀の画家で、宗教画家と位置づけられています。


ヒラルダとセビージャ市内



フランシスコ・デ・スルバラン(FRANCISCO DE ZURUBARAN)

 「発見の年」と謳われた1992年万博の開かれたアンダルシアの州都・セビージャの17世紀は人口12万人のスペイン一の商業都市であった。繁栄した都市にふさわしく、16の男子修道院と21の女子修道院を擁していた。それらの修道院の食堂から礼拝堂までのあらゆる壁を宗教画で埋めるべく、絵の注文は殺到していた。それだけではなく、新大陸からの注文も入るようになった。セビージャより北に130km行くと、そこはエストレマドゥーラ州(Extremadura)となる。四季の穏やかな移り変わりはなく、酷暑の日が一夜にして冬となるのがエストレマドゥーラ州の土地柄だ。


スルバランのゆかりの土地マップ

 州に入って直ぐの村がフエンテ・デ・カントス(Fuente de Cantos)で、1598年その寒村でフランシスコ・デ・スルバランは生まれた。季節は、強烈な日差しに焼かれた家々の白い壁が突然襲ってきた寒波に縮み上がる初冬だった。フランシスコの父親ルイスは商人だった。「元々は3本の河を有し、ローマ時代より農耕に適した肥えた土地であったようだが荒廃してしまった」現在のエストレマドゥーラ州、


刈り取られた麦畑の遥か彼方にあるのが、フエンテ・デ・カントス村

そこにあるフエンテ・デ・カントスを訪れた。僕は、18世紀のスペイン絵画の巨匠・ゴヤの生まれたアラゴン州のフエンデトドス(Fuendetodos)村も訪れたが、そこと比べたらまだましだった。ゴヤの生地は1970年代でも「泣きたくなるほどの寒村」だった。このフエンテ・デ・カントスを通る「銀の道」と呼ばれる国道630号をさらに北上すると、ローマ時代の遺跡の街・メリダ(Merida)がある。さらに「銀の道」を北上するとカンタブリヤ海の港町・ヒホンまで続く。まわりは刈り取られた麦畑の茎が残り、あたかも黄金色のジュータンのようだ。


フエンテ・デ・カントス村。正面にあるのがグラナダ聖母教会

 フエンテ・デ・カントスの村に入ると、狭い路に2階建ての白壁の家が並び、水飲み場には馬とロバが繋がれていた。スルバランの時代は人口500人だったが、1940年代の16,000人をピークに減少し現在は5200人だ。村のアギラ通りにある家でスルバランは生まれた。現存する平屋の生家は1986年に再建されたもので、虫食いの梁一本のみが当時のものだ。中庭と4つの部屋があり、その一つにはスルバランの静物画「瀬戸物」のモチーフとなった水瓶が置かれている。他の部屋には複製の絵がかけられている。生家を出て村役場のある広場へ歩く。その役場の前にスルバランが洗礼を受けたグラナダ聖母教会がある。外壁の一部が崩れレンガが剥きだしの教会の中は礼拝堂が工事中だった。


スルバランの生家とその中庭

 17世紀に戻ろう。子供のスルバランは絵画技術をバダホス(Badajoz /エストレマドゥーラ州の州都)の画家・ルイス・デ・モラーレス(Luis de Morales )の弟子に学んだようだ。15歳になるとセビージャの画家・ペドロ・ディアス・デ・ビリャヌエバ(Pedro Diaz de Villanueva)のアトリエに見習いで入る。当時は子供が12歳~15歳になると画家のアトリエに見習いで入るのが習わしだった。そこで修行を積んで画工、親方と進み、画家ギルド(同業者組合)の試験に受かると画家としてのマスターを与えられて、セビージャでアトリエを構える事を許された。


静物画「瀬戸物」のモチーフが並ぶ部屋

 これで自由に絵の注文を受けることが出来るわけだが、ここでちょっと、当時のセビージャを振り返って見よう。すでに16世紀より新大陸との取り引きを独占したセビージャはスペイン商業の中心地であった。栄華を極め、爛熟した文化のなかで、絵画はセビージャ派が生まれる。17世紀に入るとスルバラン、カノ(Cano)、ベラスケス、ムリーリョ(Murillo)らがスペイン絵画の黄金時代を築いた。よく、「顕微鏡を通して描いたような写実」のベラスケス、「鏡に写したような写実」のスルバランと言われるように、セビージャ派はキリスト教をテーマとした宗教肖像画の写実主義絵画が主流だった。


スルバランの静物画「瀬戸物」

 同時に風景が殆ど無いのが特色のスペイン・バロック時代であった。修行時代を同じセビージャで過ごし、歳もほぼ同じのスルバランとベラスケスだが、その後の二人の画家の人生は明暗を分けて行く。それはそれぞれが結婚をする歳になってからのことです。二人がまだ10代の頃は教会が画家のパトロンとして君臨するセビージャだった。出だしに書いたように、教会は絵を必要としていたが、当時のインテリでもあった聖職者の審美眼は厳しかった。運良く教会より絵の注文を受けても、作品の不出来(聖人や宗派の決められた表現が問題で、上手い下手の技術レベルの問題ではなかったようです)に聖職者が文句を付けた場合は描き直しや作品返品を認める旨を契約書に加えなければならなかった。


ジェレナのマヨール広場

 駆け出しの画家の画料は僅かで、前払いは画材代ほどだった。作品の納期にも厳しく、遅れると次の仕事は他の画家に奪われた。1617年、19歳になったスルバランは3年間の絵の修行時代を終えた。しかし、セビージャにアトリエは構えずエストレマドゥーラの田舎へ帰ってしまう。自分が生まれたフエンテ・デ・カントスではなく、隣り村のリェレナ(Llerena)にアトリエを構える。そして、9歳年上のマリア(Maria)と結婚をする。所帯を持っても絵だけでは食えず、セビージャ議会から依頼された噴水のデザインも手がけていた。その噴水のレプリカがリェレナの広場に現存します。


マヨール広場に残る噴水のレプリカとその後ろがスルバランのアトリエ

 さて、リェレナとはどんなところか?ですがここは一つ、「リェレナ」ではなく僕のまわりのスペイン人が発音する「ジェレナ」でいきます。スペイン語のLLを日本では正統派の発音として「リェ」と書きますが、みな「ジェ」と発音します。で、ジェレナへ行きました。フエンテ・デ・カントスと比べると村ではなく市で、駅もある。人口は7000人と大差は無いが、中心のマヨール広場はムデハル様式(Mudejar /回教徒の影響を受けた11~16世紀のスペインキリスト教建築)の白いアーチで囲まれ、ここにもグラナダ聖母教会がある。ムデハル様式とゴシック様式の融合した美しい教会だ。昔から戦略的要地だったためサンティアゴ騎士団の駐屯地として栄えた。スルバランが移り住んだ頃も経済的にはフエンテ・デ・カントスよりも豊かであった。後年、このジェレナのグラナダ聖母教会に祭壇画「サンティアゴの殉職」を描くが、それはセビージャで成功をした後であった(その作品は現在、プラド美術館に保存されている)。


ジェレナのグラナダ聖母教会

と書き始めましたが、長くなって来たので話の続きは次回にします。
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