ゲルニカ
ゲルニカ(Guernica/バスク語ではGernikak)はスペイン北東部(フランス側/地図上では右)のバスク州のビルバオ県にある町です。この町の名が世界的に知られているのはピカソ(Picasso/スペインの画家)の同名の作品があるからです。今から80年前の1937年の出来事で、当時のスペインは市民戦争中(Guerra Civil/ゲラ・シビル)でした。政府の共和国軍(人民戦線軍)とフランコ軍(反乱軍)の国を二つに分けた戦いでした。イギリスとフランスが不干渉の立場を続けたので内戦はダラダラと続きました(1936年~1939年/スペインなのでシエスタ/昼寝ありだったようです)。
それがヨーロッパの国々を不安にさせたのは、その前の第一次世界大戦の火種が消えていなかったからでした。そろそろ火を消さねばと誰でもが思い始めた頃に、フランコ軍に加担したのがドイツとイタリアでした。そしてドイツの空軍はゲルニカを空爆しました。のちの第二次世界大戦で崩壊された街ドレスデン(Dresdenn/ドイツ東部)や広島や長崎の原爆破壊と並べられるのがゲルニカ空爆です。それはヒトラーが誇るドイツ空軍・コンドル隊の破壊力を実験するためでした。街はほぼ消えました。
フランコの夢想と嘘
この爆撃やスペイン市民戦争の話は歴史書を読んでもらうとして、今日はそのピカソの描いたキュビスムの作品、ゲルニカの話です。マドリードで見た人は、あのデカイ作品に驚いたと思います(349,3 x 776,6 cm)。どうしてデカイのかと言うと、パリ万博(1937年5月25日~11月25日)のスペイン館の壁を飾るためだったからです。当時のスペインは共和国政府(人民戦線政府)でした。政府はパリに住んでいたピカソにスペイン館の作品制作を依頼しました。
話は前後しますが、フランスに移住していたピカソが祖国スペインを訪れたのは1934年の夏のヴァカンスが最後でした。共和党派だったピカソは市民戦争が勃発(1936年の夏)すると「フランコ(Franco/ 市民戦争に勝ち独裁政治をスペインに敷いた将軍)が生きている間はスペインの地を踏まない」と宣言し、帰国をせずに1973年にフランスで死にました(1938年のバルセロナでの母親の死にも帰国しませんでした。ピカソと呼ぶ姓名は母親のものです)。フランコはその2年後の1975年に死にました。
ゲルニカの第一段階:各部のデッサンを組み合わせる
話は戻りますが、1936年の8月に始まった市民戦争ですが、その一ヶ月後の9月に共和党政府はピカソをプラド美術館(Museo del Prado)の名誉館長に任命しました。フランス在住のピカソはそれを喜んで拝命し、「フランコの夢想と嘘」のオリジナル画を描き、翌年1937年の1月にそれが印刷所に入り、銅版画が出版されました。ピカソは売り上げをそっくりと人民戦線軍に寄付をしました。それだけではなく、作品も売り政府軍を援助しました。これらはスペインがすでに市民戦争中のことで、まだ政府軍が勝つか反乱軍(フランコ軍)が勝つかは全く不明の初期段階の出来事でした。この1937年にはパリ万博があるので、政府軍はそれを利用して「スペインの民主主義を救おう」とヨーロッパ諸国に援助を求めました。
ピカソがスペイン館の壁画の依頼を受けたのは同年の1月でした。いつもの女性問題で制作がブランク状態だったモテ男・ピカソは、引き受けたけど、はて? 何を描くか?でした。そこに入ったのが「ゲルニカ空爆」のニュースです。1937年4月26日の惨事でした。「憎っくきフランコ野郎、ヒトラーに助っ人を頼みやがって!」とヤカン頭になったピカソはデッサンを描き始めました。大作なので、部分ごとのデッサンでしたが(その中の何点かは下書きだけでは終わらずに一枚の油絵作品になりました)、かなりの数でした。それらをベースにキャンバスに描き始めたのが5月11日でした(パリ万博オープンは25日)。大まかなサイズで、高さ3メートル半、幅8メートルの白い壁です。教会の壁でも思い浮かべて下さい。ミケランジェロの頃のフレスコ画でしたら、2年はかかりますね。
第二、第三段階:部分的な修正を繰り返す
それをピカソは5週間で描き上げました。キャンバスに描きながらも気に入らない部分は納得いくまでデッサンを描きなおし、それを再びキャンバスに描きました。寝る暇もなく制作に没頭したピカソの闘牛的体力と憎みの激しさから生まれた集中力には、さすがスペイン男!これぞマラガっ子(アンダルシア人)!です。スペインに永く住んでいる僕ですが、時々辟易するのはスペイン人の嫉妬深さや日常茶飯事の妬み言葉です。日本人社会では「出る釘は打たれる」ですが、スペイン人社会では「上に登るヤツの脚を引っ張る」です。「何故かって? 悔しいからさ」とスペイン人の友達はあっけらかんと言います。ヤレヤレです。
第四段階:完成直前の修正
おっと話はピカソに戻ります。当時のピカソは55歳でした。歴史の話よりも現実は生臭いものです。ピカソのゲルニカ制作の手助けをしたのは恋人・ドラ(Dora)でした。ユーゴスラヴィア生まれでアルゼンチン育ちのドラは写真家であり画家でもあり、ピカソの当時の愛人でした。助手としても有能だった彼女のお陰でゲルニカの大まかな構図が生まれました。それだけではなく、彼女はゲルニカのデッサン(70点にも及ぶ)や制作過程もフイルムに収めました。何しろ、壁画のデカさです、ピカソはチューブ入り油絵具ではなく缶入りのペンキ塗料で塗りました。
速乾性があるので制作のスピードはかなりはかどりました。6月末には“ゲルニカは乾き”、パリ万博のスペイン館に収めました。すでに万博はオープンしていましたが、スペイン館は7月12日に開館しました。何回も催されていたパリ万博とは言え、各国の館のオープンもその国の都合に合わせられたのでしょうか? まだまだおおらかな時代だったのですね。ゲルニカはたいした評判にはならず開館が遅れたので万博カタログにも載りませんでした。万博の後は、人民戦線軍の援助目的で、1938年1月~4月はノルウェー、デンマーク、スエーデンの各国で開かれた展覧会を巡回し、9月にはイギリスをまわりました。
パリ万博・スペイン館での展示
1939年にスペイン市民戦争がフランコ軍の勝利で終わったので、ゲルニカはフランス船「ノルマンディー号」でアメリカへ渡りました。偶然とは言え、皮肉なことにその船にはアメリカへ亡命するスペイン共和党政府の最後の首相・ネグリン(Negrin)も同船をしていました。アメリカ大陸ではスペイン戦争での戦災者や亡命者の援助を求めて巡回をしました。そうこうしているうちに、第二次世界大戦が始まりフランスはナチ軍に占領されました。ピカソはアメリカ合衆国にゲルニカを置いておいたほうが安全だと判断を下し、ニューヨーク近代美術館(MoMA)に「スペインに真の民主主義が戻るまで」と一時的に預けました。
ピカソ
それがスペインへ戻ってきたのはピカソの死後8年後の1981年でした。この「帰国」は秘密に行われました。MoMAがいつものように閉館した1981年9月9日の夜中にゲルニカは壁から外されて丸められたキャンバスは木箱に収められて、10日の深夜にニューヨーク空港へ運ばれました。イベリア航空のニューヨーク・マドリードの定期便のジャンボ機に運び込まれましたが、同乗した当時の文部大臣は保険をかけませんでした。スペイン国民が「帰国」を知ったのは、新聞「ABC」がマドリードのバラハス空港から護衛されて、プラド美術館の別館・カソン・デル・ブエン・レティーロ(Cason del Buen Retiro)に運ばれるゲルニカ記事を報道してからでした。
ドラ
その数か月後に一般公開されました。1981年はピカソ生誕100年だったのです。スペイン政府はそれに間に合わせたかったのでした。僕も観に行きました。ゲルニカは防弾ガラスで保護をされ、隣には銃を持った治安警官が立っていました。個人的な感想ですが、この後の時代のピカソのキュビスムの人物画のほうが不気味さでは勝ります。ゲルニカは平和の時に見て「戦争は生活を破壊するものだ」を思い起こさせる作品です。その11年後の1992年に最後の引っ越しをして、現在もレイナ・ソフィア美術館(Centro de Arte Reina Sofia)に展示されています。1992年はバルセロナ・オリンピックとセビージャ・万博の大イベントが重なった年です。それでなくても一年中がお祭りのようなスペインですが、10年分の花火を一年で打ち上げたような年でした。
巻かれたゲルニカ