マドリーの恋人

ヤマダトミオ。 画家。 在スペイン52年。

たたき売られるワイナリー、消えて行くバル、どうなる?呑兵衛の老後の楽しみ

2013-08-08 15:30:00 | スペイン日記

ワイン樽が並ぶ小さいボデガ

 スペインは不景気です。消費はドンドン落ち込み、庶民は必需品しか買いません。食品も高い子牛肉や魚を食べず、臓物やすね肉を煮込んでます。米やパスタの消費量が増えたのは少なくなったおかずをカバーするためです。高いウイスキーやワインは飲まず、水道水です。税金、ガス代、電気代、教育費など毎月の生活に必要な出費が値上がったので、他の部分を削る羽目になりました。生活に絶対に必要とはいえないワインは安くないと売れませし、若い人はワインを飲まなくなりました。ワイナリーも困っているようです。

 ワイナリーをスペイン語ではボデガ(Bodega)と言いますので、ボデガと呼んで話を進めます。スペインはブドウ畑の面積では世界一です。日照条件がワイン用ブドウに最適なので高い糖分が得られます。醸造にアルコール糖分の添加を必要としないので100%収穫したブドウです。そこがフランスワインやドイツワインとの違いです。この数年でスペインワインの知名度は世界的に広まりました。大手のボデガはそれを利用してアメリアや中国へ輸出を大幅に増やし、スペイン国内のマイナス消費を乗り切っています。


小さいボデガはオーナーが気さく

 でも小さいボデガは四苦八苦です。ざっとスペインには5000のボデガがあります。100を超えるボデガが売りに出ています。国内の消費が冷え込んでも、それらのボデガの生産量は高が知れているので地元で消費されます。問題は資金繰りの行き詰りです。ワインはブドウの収穫からビン詰めしたのが店頭に並ぶまでには数年かかります。今まではその間の回転資金は銀行が貸していました。ところが今はスペインの全ての銀行はバブルの焦げ付きを抱えて大赤字です。それどこか、欧州中央銀行からのスペイン銀行向け特別融資でやっと破産を免れている状態です。ボデガや中小企業や個人にカネを貸す余裕は全くありません。

 そこでこのチャンスを逃すまいと手を差しのべるのが投資銀行です。その後ろには中国、ロシア、サウジアラビアのプチ投資家達が居ます。投資銀行にしても投資家にもスペインのボデガを買い取ってワイン造りをしてワインを自国で売って儲けようなんて考えてもいません。兎も角、安く買い叩いて、近いうちに訪れる「スペインボデガの大セール」までにペンキを塗り替えて、売り逃げるのです。もうハゲタカ行為としか言い様がないです。彼らが物色しているのが百万リットル程度の生産量規模のボデガを2百万ユーロ(約2億5千万円)以下での買い叩きです。


どこにでもあるバル

 普通その規模のボデガを立ち直すには7億円近くはかかると言われています。ボデガに詳しいスペインの銀行の人は、そんなハゲタカには債務整理を裁判所に申請したボデガを掴ませろ、と言います。まず、再建の見込みが無いそうです。こうなるとタヌキとキツネの騙し合いです。ボデガを持つのは男のロマンなのでスペインのマンション・バブルの時に、土建屋のシロウト達がドッとボデガの世界に入りました。今売りに出ている多くはそのボデガです。

 僕らのようにワイン通でもない、たんなる呑兵衛の楽しみは旅行先の地ワインを味見して気に入ったら一箱買って持ち帰ります。それをとなり近所や友達に配ります。皆、フルーティー度がどうのこうの、タンニンが何だかんだの能書きを言う連中ではありません。夫々の好みで自分の口に合ったか合わなかったか、それだけです。彼らも同じように僕に地方ワインをおみやげにくれます。小さいボデガのワインなので、高くても一本千円で、大抵500円か600円です。量り売りなら1リットル、200円でもあります。外れても惜しくない値段で、酸化防止剤なしの天然ワインです。これらの小さいボデガが潰れていきます。ワインはスペイン語でビノ(vino)です。


生ビール一杯は200円くらいでアペリティボ(アペリチフ/aperitivo)はサービス。
このつまみ・ファバダ(白インゲン豆の煮込み)は塩が強かったので、
ビールをお代わりしてしまった。商売上手


 ボデガだけではなく、バル(Bar)も消えて行きます。5軒に1軒のバルが消え、この4年間で20%、72万軒のバルが閉まりました。客足が遠のいたのと、一人の客が使う金も減りました。ペセタ(Peseta/20世紀まで)の時代にはオヤジや年金爺さん達が一日中バルにたむろしていました。用事があったら彼らの家へ行くよりも、彼らの行きつけのバルへ行きました。バルAで飲んでいなかったら、バルBにいました。もう皆の溜まり場、遊び場でした。

 昼メシに頃にはオカミさんや子供がオトーサンを呼びに来ます。午後も再び現れて、トランプやドミノゲーム、サッカー試合のある時は、自分ちで観ないでバルで仲間と応援します。もうバルは生活の一部で自分ちの居間でした。タパスで日本でも知られるスペイン版飲み屋・バルですが、ワインやビールだけではなく、コーヒーやソフトドリンクもあり、朝食はもちろん昼メシもだすバルもあります。その日の新聞も置いてあり、頭が痛くなったらアスピリンもくれます。


ツーリストで賑わうバル。手前はジャガイモ、奥はタコのラシオン(ración/一皿盛り)

 土地の人だけではなく旅行者にもトイレがあるので何かと便利です。コンビニの便利さもありファミレス的な役割もこなしていたのが昔からのバルです。バルは一日中オープンしているようなものなので、かなりの重労働です。家族で切り盛りしていれば子供を大学まで行かせることが出来ました。人を雇えるのは繁華街のツーリストが多い場所です。

 そのバルが変わったのがユーロになってからです。ワインやビール一杯の値段が2倍から3倍になりました。ペセタからユーロへ切り替えの便乗値上げです。ペセタの時代は生ビールコップ一杯が80円~120円でした。ユーロになって160円~280円(2001年レート1ユーロ=110円)に上がり、今は200円~350円(2013年レート1ユーロ=130円)です。


チャコリ(バスク白ワイン)とタパス2つ。これで800円くらい。

 値上がった分、バルも清潔になりました。何でも床にポイポイ捨てていましたが、ゴミ箱が置かれました。トイレがまともになり、トイレットペーパーだけではなく石鹸や紙ナプキンが常備されました。マドリード市内でもツーリストで賑わう繁華街と住宅街では値段がちょっとだけ違います。マドリードやバルセロナなど大都市と地方都市では生ビール一杯の値はだいぶ違います。さらに田舎へ行くとペセタ時代のオヤジ大好き値段のバルもあります。つまみもペセタ時代のオリーブ漬けやピーナッツから気の利いたタパスになりましたが、客はだんだんと行く回数が減り始めました。

 その後、マンション・バブルが来てバルのオヤジはこんなきつい仕事はやっていられない、と若い中南米人を雇いました。顔をだすのは売上げの勘定をする夜の戸締りの時だけになりました。僕もこの頃からバル離れが始まりました。バルでスペイン人のオヤジと昔話をしながら飲むワインが美味しいのであって、昨日今日マドリードへ来たエクアドル人との会話は水を飲んでいるようでした。


田舎のバル。

 ワインの染み付いた大理石のカウンターを今風の合板に取り替えて、黒を基調のおしゃれなバルが人気になりました。でも、バブルは弾け、中南米人は国へ帰り、再びオヤジがバルへ戻りましたが、一度遠のいた客はなかなか戻りません。そこが客商売の難しいところです。おしゃれに模様替えしたバルに50過ぎの腹の出たオヤジが戻り、昔ながらの白エプロンじゃ似合いません。リフォームの借金も残っているので値段を下げるわけにも行かず、不景気で客は減り儲けも薄くなり、結局店をたたむハメになりました。

 確かに、バルが減った、スペイン人は行かなくなったと言っても、スペインはヨーロッパではキプロスの次にバルの数は多く、170人に一軒のバルがあります。使う金もヨーロッパ人平均の倍は使っています。だから少々減っても大丈夫に思えますが、客の回転する観光地や街の中心地ばかりのバルが残り、家の近所にあった昔スタイルのバルが消えていくのが困るのです。


大手のボデガの貯蔵庫

 こうなると年寄りは田舎へ引っ越しです。統計上では田舎のバルの減り方は本当に深刻ですが、昔スタイルのバルはそこのオヤジが生きのびている限り残ります。都会の年金者は家飲みかメトロで繁華街へ出向いて飲むかです。年金で美味しいワインを飲みながらのバラ色の老後を夢見ていた僕ですが、これではサーモンピンク色程度になってしまいます。トホホホ。


バルは楽しい
コメント (2)
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スペインの高速鉄道事故

2013-08-01 13:41:19 | スペイン日記

脱線事故現場

 7月24日の夜、マドリードを発車した高速列車がガリシア(Galicia)のサンティアゴ・デ・コンポステラ(Santiago de Compostela)の手前で脱線事故を起こした。79人の死者と100人以上の重軽傷者をだした。事故の原因は運転手のスピードの出しすぎだ。制限速度が時速80キロのカーブに190キロで進入した。脱線しないわけがない。車両の一台は6メートルの柵を飛び越えて脇の道路に落ちた。この高速列車はスペイン新幹線・アベ(AVE)ではありません。ガリシアはスペインの北西部、地図で見るとポルトガルの上です(ホトケさんの数よりも多い葬儀場(斎場)があるのがガリシアです)。

 そのガリシア州の州都がサンティアゴ・デ・コンポステラで、巡礼の聖地・サンティアゴ大聖堂がある。25日はガリシアでの一番大事な祭り、聖サンティアゴ祭なので、高速列車は満員に近かった。僕は脱線事故現場の映像をTVで見て、なぜ?燃えてるの? と不思議に思った。スマホのビデオだから、ブレてピントもぼやけているが、それにしても車両が丸々と炎に包まれている。電車は車軸の潤滑油に火が付くことがあるが、ボヤ程度ではないのか?


転覆連続写真


 理由は翌日の新聞で分かった。スペイン鉄道はまだ全線電化されておらず、新幹線・アベは電動だが他の路線は今だにディーゼル車なのだ。車での旅が多い僕は知らなかった。この高速列車は電気でもディーゼルでも走るハイブリッドだった。だからディーゼル車が火を吹いたのだ。スペインの鉄道レールは2タイプある。新幹線のヨーロッパゲージと従来線のイベリアゲージで、前者は狭軌、後者は広軌。この高速列車はハイブリッドだけではなく、両方のゲージに自動対応するオールマイティー、どこでも走れる四駆車並なのだ。マドリードからガリシアへ向かうと、ヴァジャドリまで新幹線レールで・・・。


助かった運転手


 おっと、スペインの地理には不案内だと思うので、日本の東海道線で説明しましょう。東京から大阪へ向うとします。東京から名古屋までは新幹線レールを走り、名古屋→京都は従来線レールを走り、京都→大阪は再び新幹線レールです。新幹線は電気で走り、従来線はディーゼルで走ります。新幹線は狭軌で従来線は広軌です。何故こんな走り方をするのかは、まだマドリード-ガリシア間の新幹線は全区開通しておらず、途中のヴァジャドリ(Valladolid)までだからです(地図参照)。これはバカな政治家の気まぐれが原因です。


スペイン新幹線マップ

 その前にひとつ。この高速列車はアルヴィア(Alvia)と呼び、タルゴ社が造りました。タルゴ社はスペイン・バスクの会社で、20世紀の名列車と呼ばれるタルゴ(Talgo)を生み出しました。軽合金製の車両は独自のサスペンションを持ち、カーブを高速でかつ車体が傾かずに曲がることが出来ました。マドリード-パリをつなぎ、フランスとスペインはゲージが異なるので、国境で車台を替えました。

 さて、政治の色が濃い話です。古い話ですが、フランコはガリシア出身です。独裁時代にマドリード-故郷・ガリシアをクルマで往復するために、マドリード北部のグアダラマ山脈に長いトンネルを掘りました。カーブの多い山越えは難所だっただけではなく冬は雪で通行止めになりました。

スペインに民主主義が戻り、社会労働党(PSOE)のゴンサレスが首相になりました。彼は故郷・セビージャに新幹線を通しました。スペインの発展と経済利益を考えたら、まず初めにマドリード-バルセロナ間を新幹線で結ぶべきです。東京-大阪間のように、人、物資が移動する大動脈です。ところが彼の政治力でマドリード-セビージャ間がスペイン初の新幹線となりました。言い分は「セビージャ万博と新幹線はワンセット」だったと思います。

 次の国民党(PP)のアスナール首相は故郷・ヴァジャドリに新幹線を通しました。確かにヴァジャドリを起点にガリシアへとバスクへと新幹線を分けて伸ばせます。このように首相や大臣になると故郷に錦を飾るのがスペイン人です。

 次に再び社会労働党になり、サパテロ首相はレオン出身でした。ガリシアとマドリードの中間当たりがレオンですが、ヴァジャドリからレオンへの新幹線の延長計画はすでに決まって工事は始まっていました。そこで、サパテロが名指しで任命した建設省大臣・ブランコが今回事故のあった、サンティアゴ・デ・コンポステラ-オレンセ(Orense)間に新幹線を敷きました(地図参照)。この頃になってやっとマドリード-バルセロナ間の新幹線が全区開通しました。

 フランコではなくブランコですが、彼もガリシア出身です。この区間(たった87キロメートル)は新幹線のレールを敷いただけで、新幹線・アベはまだ走れません。なぜなら、オレンセ-ヴァジャドリ間の新幹線はまだ工事中で、マドリード発車したアベはヴァジャドリ止まりです。そこでブランコは僕が東海道線を例に説明したように、ヴァジャドリまで新幹線レールを走り、まだ工事中の区間は従来線レールを走り、再び新幹線レールでサンティアゴ駅へ着くプランをひねり出しました。

 ブランコはタルゴ社にオールマイティーの列車を依頼し、タルゴ社が造ったのがアルヴィアです。何回も繰り返すようですが、新幹線区間は電気で走り、従来線区間はディーゼルで走り、ゲージの違いにも対応します。お陰で、マドリード-サンティアゴ・デ・コンポステラを5時間足らずで結びますが、新幹線工事を急いで、全線開通を待ったほうが金の無駄遣いになりません。

 全く、政治家の見栄丸出しで、故郷に錦を飾らないと気が済まなかったのです。おまけにサパテロ首相時代はスペイン・バブルでしたので、国のフトコロなんかは考えません。事故現場は新幹線レールと従来線レールが並んで走行するサンティアゴ・デ・コンポステラ駅の3キロ手前のカーブなので、減速して徐行区間でした。確かにレールは新幹線タイプですがアベが走らないので、安全装置は従来線用でした。これは時速200キロ以上なら自動ブレーキがかかりますが、以下ではかかりません。今回は190キロでした。

 運転手は60回以上もこのカーブを走っているベテランで、それも手動で走り、今まで事故はありませんでした。事故は複数のファクターが重なって大事故に発展します。運転手のミスは免れませんが、サンティアゴ祭の前日で満員の乗客、列車の5分の遅れ、安全装置のレベル、新幹線にはきついカーブなど色々とありますが、バカな政治家たちにも大事故になった責任があります。年間60人の乗客しかいない地方の空港などは造らずに、その金で新幹線工事を急ぎ、全線開通させるべきでした。今は再び国民党で、ラホイ首相ですが、彼もガリシア出身です。建設省大臣は女性ですが、彼女もガリシア出身です。ガリシアカラーが強い政府ですが、大丈夫でしょうか?

 40年以上もスペインに住み、納税者の一人としてひとつ愚痴らせて下さい。マドリード-バルセロナ間に新幹線が開通したお陰で、イベリア航空(Iberia)のドル箱だったマドリード-バルセロナのピストン便は乗客を失いました。ドル箱を失った、スペイン航空界のフラッグシップ・イベリア航空は経営破綻になり、イギリスのブリティッシュ・エアーウエイ(BA)に買収されました。破綻原因はそれだけではありませんが、いかにマドリード-バルセロナ新幹線が利益を生むかです。

 もし、この新幹線が最初に開通して、その利潤とヨーロッパ中央銀行の融資を合わせれば、スペイン全土に新幹線網は出来上がっていたかも知れません。リスボン-マドリード間も新幹線で繋がっていたかもしれません。ゴンサレス前首相のわがままは大罪です。物事は僕の思っているほど上手くは運ばないでしょうが、600万人の失業者は出なかったでしょう。最後は事故と関係のない話になりましたが、亡くなった方々の冥福を祈ります。
コメント (1)
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