「キリストの磔刑」
ジェレナでのスルバランとマリアの記録は乏しいが、フエンテ・デ・カントスやジェレナの教会や修道院から絵画を依頼されていたようだが現存する作品はない。残っているのは二人の子供の洗礼記録だけだが、その後、妻・マリアは亡くなったようだ。なぜなら、1625年にベアトリス・デ・モラーレス(Beatriz de Morales )と再婚をした。ベアトリスもスルバランよりも年上で未亡人であった。何故スルバランは姉さん女房を好むかは分からないが、このベアトリスは地方豪族の娘でスルバランに「貴方は絵の制作だけに専念しなさい」と経済的援助を与え、セビージャの画壇へ押し出す。
1626年、セビージャのドミニコ修道会より聖ドミニクスの生涯を描く注文を受ける。21点の宗教画で制作期間は8ヶ月、画料はわずかであったがセビージャの画壇への足がかりをつかむ。これもモラーレス家の社会力と財力のお陰であった。組織的にも経済的にも力のあったドミニコ修道会の仕事をすることは、セビージャの全修道会のお墨付きを貰ったのと同様であった。
スルバランの仕事に満足をしたドミニコ修道会は、続けて1627年に「キリスト磔刑(たっけい)」画を依頼する。スルバランはこの“キリストのはりつけ”をキリストの体を3本の釘ではなく4本の釘で十字架に打ち付けるパチェコ(Pacheco)のキリスト教絵画理論に従った。当時パチェコはセビージャでは最もうるさい、理論的宗教画家でありベラスケスの師匠でもあった。スルバランの描いたキリストは人間味に溢れて神秘的でもあっただけではなく、修道院の部屋に飾られた絵を見た修道士たちは彫刻と見間違えた。この作品の成功により注文が殺到し、スルバランのアトリエはフル回転で制作をこなすようになる。
1628年、メルセス修道会より聖ペドロ・ノラスコの生涯を描いた作品22点を依頼される。制作期間は1年間、画料は3倍になった。制作中の画家とスタッフのセビージャでの宿泊、食事、画材もメルセス会の負担であった。他の宗派、フランシスコ修道会の制作依頼も入る。スルバランの一連の宗教画の仕事を評価したセビージャ市議会は、1629年にスルバランにジェレナからセビージャにアトリエを移す要請をする。しかしセビージャの画壇を牛耳っていた画家ギルドより異論が上がる。強く反対を訴えたのは、若い画家アロンソ・カノ(Alonso Cano)であった。
スルバランはセビージャ画家ギルドのマスターを持っていない、が彼の主張であった。12年前にビリャヌエバのアトリエで3年間の絵画修業を終えたが、マスターには受からなかったのだ。そのためにセビージャを離れ、エストレマドゥーラ州のジェレナにアトリエは構えたのだった。カノはミケランジェロのように、絵画、彫刻、建築の各分野の才能があった芸術家だけではなく、身内に有力者を持つ政治家でもあった。
窮地のスルバランを救ったのは、セビージャの実力者のラ・コルサーナ子爵(Vizconde de la Corzana)であった。彼の計らいでカノの不服申し立ては一時預かりとなり、セビージャ市議会からスルバランに制作依頼のかたちで「無原罪の御宿り」を描かせて、腕前のほどを見ることとなった。「キリスト磔刑」と同じように「無原罪の御宿り」も素晴らしかったので、セビージャ画家ギルドはスルバランの技量を認めざるを得なかった。これで1926年末にスルバランはセビージャにアトリエ構えた。
セビージャの画壇はスルバランとカノの二人が牛耳るようになった。若きベラスケスはすでにセビージャにはおらず、彼はマドリードで月給25ドゥカードス(17世紀のスペイン通貨)のサラリーマン的宮廷画家となっていた。マエストロとなったスルバランは宗教画の注文をセビージャの教会からだけではなくアンダルシア全土から受けるようになった。セビージャにアトリエを構えてからの大作注文は世話になったドメニコ修道会の聖トマス神学学校よりの「聖トマス・アクイナスの礼拝」であった。
1631年のことで、画料は400ドゥカードスだが3回の分割払いだった。最後の支払いは同校の教授会の評価にかかっていた。この5x4メートルの大作を見ましょう。
「聖トマス・アクイナスの礼拝」
最上部はキリストや聖母や守護聖人がならぶ天上の世界である。その下の中央にはこの絵の主役の聖トマス・アクイナスが立ち、まわりを4人の博士聖人が囲む。雲の下は俗世界で、右は国王カルロス5世と卒業生たちである。このカルロス国王の右手を見て欲しい。上を向いた手のひらは天上の聖人への崇拝の意であるが、同時に柱の向こうに見える聖トマス神学学校のパトロンは「このわしである」との意味だ。
そして左は同校の創立者・デサがひざまずき、後ろは当時の学長や教授たちが並ぶ。恐れ入るスルバランのサービス精神だが、これで最後の支払いも手に入れたのはもちろんだ。スルバランの若さあふれた一点である。
1634年、スルバランはマドリードへ出張をする。一年前にスペイン国王フェリペ4世(Felipe IV)がオリバレス首相(Conde-Duque de Olivares)に命じたブエン・レティーロ(Buen Retiro/現在はプラド美術館別館)と呼ばれる新王宮の増築が終わっていた。有り余る財力で集めたイタリア絵画やフランドル絵画が宮殿の壁を飾るのだが、大サロンだけは数人のスペイン人画家達に描かせた作品で埋めるのが国王の夢であった。アンダルシア贔屓のオリバレスの意見か、ベラスケスの意見か、アンダルシアから呼ばれたのはスルバラン一人だった。
スルバランへの依頼作品は「戦いの勝利」を描いた大作2点と「ヘラクレス」の10点で制作期間は5ヶ月であった。現存する「戦いの勝利」の一つが「カディスでの防衛」であるが、構図は物語りすぎで人物のポーズもあまりにも儀式ばりショーウインドウのマネキンのようだ。「ヘラクレスの活躍」の連作はヘラクレスのレスラーのような筋肉の体は不自然でロボットのようである。着衣の聖人の瞑想の姿を描くのを得意としたスルバランは躍動美の体を描くのは下手だった。スルバランは19歳の時のマスター失格のように、36歳にして再びしくじってしまった。
「カディスでの防衛」
フェリペ4世国王より「そちはわしの画家である。そちは画家たちの王者である」と褒めの言葉を貰い「王様の画家」の名誉は得たが「マドリードに残り、余のために描け。ベラスケスのように宮廷画家になれ」とは言われなかった。
ここでちょっと話がそれますが、宗教画家スルバランと宮廷画家ベラスケスとはどこが違ったのでしょうか? 画才、アトリエの運営力、パトロンの経済力などと巨匠になる条件は色々とありますが、この二人を見ると「都」と「運」の二つだと思います。今でも「大いなる田舎」と言われるセビージャと首都マドリードとは17世紀でもヨーロッパ芸術の受信度が違いました。
ちょっとだけ彼らの修行時代に再び戻ってみます。ベラスケスは理論的宗教画家パチェコのアトリエで絵の修行を終えますが、彼は初めからパチェコのアトリエに弟子入りしたのではありませんでした。当時パチェコと並ぶ人気画家エレラ・エル・ビエホ(Herrera el Viejo)に弟子入りをしました。この画家エル・ビエホは鋭い画才の故か恐ろしく気むずかしく気性も激しかった。やはり画家を目指した息子のエル・ホーベン(Herrera el Joven)でさえも、こんな気狂い親父の癇癪には付き合っては居られない、と他のアトリエに弟子入りをしてしまった。
そんなところに弟子入りしたのが子供のベラスケスだったのです。でも、やばいアトリエに来ちゃった、と数日で逃げ出したベラスケスの判断は正しく、パチェコのアトリエを選んだのは先見の明があった。なぜなら、ベラスケスはパチェコのアトリエの親方となり、パチェコの娘も娶りマドリードへ旅たったのですから。当時のしきたりで、アトリエの巨匠に男の跡取りが居ない時は親方となった弟子が娘を嫁にするのであった。チャンスを見逃さない感と土地を選ぶ先見の明もベラスケスの才能であった。結局、スルバランはセビージャでしか巨匠として開花出来ず、ベラスケスもマドリードでしか巨匠として開花出来上なかったのです。
スルバラン芸術の理解者は伝道で世界を旅した修道士たちで、ベラスケス芸術を賛美したのはヨーロッパ宮廷の文化人だったとも言えます。しかし、宮廷画家にはなれなかったスルバランではあるが、マドリード滞在はけっして無駄ではなかった。自分の目で見た王室コレクションの名画の数々、イタリア人画家たちの運んできた新しい美術の息吹、ベラスケスの成した画風の大胆な変貌など、スルバランは多くを学んだ。マドリードから失意でセビージャに戻ったスルバランではあるが、彼を待ち受けていたのは以前にも増す作品注文であった。
キリスト教の神秘思想を追求する修道士たちの精神を視覚化したのがスルバランの描く宗教画の魅力であり、教会の求める理解しやすい信仰心の伝道目的とも一致したので、教会は帰りを待っていたのです。アトリエは大所帯となり、弟子が描く「アトリエの絵」が増えスルバラン直筆の作品は減っていった。スルバランは小作品を弟子に任せ、自分は修道院からの大作のみに仕事を絞っていった。1638年よりカルトウジオ会修道院の「受胎告知」や「牧師たちの礼拝」や「割礼」などの大作の連作に専念をする。その一つ、「牧師たちの礼拝」を鑑賞してみよう。
「牧師たちの礼拝」
2x3メートルのイエス誕生の作品でカラヴァッジョの影響の明暗技法を使ったテネブリズムの画風である。マリアやホセの顔つきも衣服も田舎者そのもので、ポーズの誇張もない。画面下の籠に入った卵、水瓶、仔羊などはその部分だけでも見事な写実の静物画のようです。神の造った自然物が慈しみを持って描きあげられている。全体を眺めると、人々の服の色の組み合わせは見事な調和がとれている。マドリードでの勉強の成果だと思う。
同じ修道院からの注文で描いた、6人の修道士の絵も見事である。一人ひとり、50号くらいのサイズで6枚の連作である。スルバランが描くとカルトウジオ修道会の白い法衣がそれぞれの修道士の性格を表しているように見える。1639年からは聖ヘロニモ修道院のために8人の修道士を描き始める。スルバランの宗教絵画の傑作と評価されている連作である。その一点、「ゴンサレス・デ・イジェスカ」を見ましょう。
「ゴンサレス・デ・イジェスカ」
構図の大胆さに目を奪われるが、画面の右の上より、赤い布→ケープのグレーの布→机の茶の布→法衣の白と視線は下がり犬で止まる。犬の視線を追うと、机上の書籍→果物メンブリージョ→屋外の人物→建物と左上へ上がる。そんな我々の目の動きをイジェスカは鋭い目つきで見つめる。スルバランの描いた布の質感は見事で、光の中では優しい色の布であるが陰の中ではしっかりと織られた布である。
この1639年に妻ベアトリスがスルバランの成功を見届けたかのように死ぬ。スペインの繁栄が翳り始めたのもこの頃からで、フランスやポルトガルとの戦やカタルーニャの反乱で戦費は増大していった。国の財政救済のためにセビージャの金銀はマドリードに吸いあげられていっただけではなく、中南米からの銀を積んだガレオン船の沈没も相次いだ。(よみがえれ!海賊!夢よ、もう一度!(その1))
1640年になるとセビージャの商業経済は不況に陥り、教会の収入も大幅に減り始めた。絵の注文も減り、セビージャの画壇は勢いをなくしていった。年ごとにスルバランのアトリエも仕事が減ったので、中南米の教会に宗教画を送り始めた。しかし、作品代金の回収は容易ではなかった。だんだんと大都市のブルジョアが経済力を持つ時代に移り始めた。そんな1644年にスルバランは近所に引っ越してきた金銀細工師の娘レオノール(Leonor)と三度目の結婚をする。レオノールは未亡人ではあったがまだ28歳、スルバランは46歳にして初めて娶った年下の妻であった。再び掴んだ幸せだが、スルバランでさえも、未曾有のカオスがセビージャを襲うとは想像もしなかった。
と、25年前の連載を再掲載しているだけなのに、スペイン語の人名や名称を今の日本で通用するカタカナ名に変換しているだけで息切れがしてきたので、続きは次回です。9月も2週目になりやっとマドリードの夜は涼しくなりました。新学期が始まったので餓鬼どもの甲高い声が庭から消えました。実に心地良い一日です。
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