Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

MESSA DA REQUIEM: ORCHESTRA E CORO DEL TEATRO ALLA SCALA (Mon, Aug 27, 2012)

2012-08-27 | 演奏会・リサイタル
先シーズン、ブログの更新が滞っていた間、本当、色んなことがありまして、、と、
書き始めた途端、遠い目になってしまったMadokakipです。

今これを書いているのは10月末のことで、ミラノにヴェルレクを聴きに行ってからおよそ2ヶ月も経ってしまっています。
本当なら今頃は10/23に鑑賞したフィラデルフィア管弦楽団の同演目の演奏について筆を走らせている頃で、
ミラノのヴェルレクはブログ休止期間に放置した他公演のどさくさにまぎれて、
自分だけの大切な思い出としてこっそりと胸にしまっておこうと思っていたのですが、
まあ、フィラ管のヴェルレクを聴いて、これはやはりスカラの演奏のことを書いておかねば、、ということになりました。
ここで、フィラ管のヴェルレクに対して”気の毒なことになったぞ、、。”と思った方がいたらば、
実に良い勘をしてらっしゃいますね、とだけ今は申しあげておきます。

さて、冒頭の遠い目が何を見ていたかをお話しましょう。
メトの先シーズンの終盤のハイライト!と私が最も楽しみにしていたのは
4月から5月にかけて予定されていた『ワルキューレ』の三公演のうちニ公演でカウフマンがジークムントを歌うことでした。
実はこれらの『ワルキューレ』はリング・サイクルの一部だったものですから、本来はリングまるまるお買い上げの人しか鑑賞できないはずだったんですが、
私は”マシーン”なルパージの演出を死ぬほど嫌っていて、この演出でリング・サイクルを鑑賞するぐらいなら舌を噛み切って死ぬわ!と思っている位で、
いくらカウフマンといえどもそこを譲るつもりは全くないんですけれども、
しかし、ありがたいことに、同様に感じている人間が私だけではなかったようで、
メトのリング・サイクルでこんなにチケットの売れ足が鈍かったことはこれまでなかったんじゃないか?と思うほどで、
これはいずれ絶対にシングルのチケットが出て来るはず!とずーっと機会を伺ってました。
案の定、本公演を間近に控えたある日、個別のチケットが発売される旨の連絡があり、二公演ともチケットをゲット。
両方ともグランド・ティアで一公演約500ドルx2=1000ドル也。
ところが、見なけりゃいいのに何の因果か、その後もまめにメトのサイトをチェックしていると、
片方の公演でディレクター・ボックスの座席が追加発売されて出て来たのを見つけてしまいました。
ディレクター・ボックスというのはグランド・ティアーで一番舞台に近いボックスにあたり、
ほとんど舞台を横から見るような形になるために少し音の聴こえ方がアンバランスになってしまう問題があるのですが、
一方で、歌手の演技表情までばっちり見えるうえに指揮者やオケの様子も俯瞰できるので、すごく面白い座席で私は好きなんです。
一公演は真正面の一般的に良席と分類される座席で鑑賞し、もう一公演でカウフマンとオケをアップで拝む。
なんてブリリアントなアイディア!ということで、追加でディレクター・ボックス席を購入。300ドルの更なる出費。
カウフマンが登場するなら、不要になったグランド・ティアのチケットに満額を払って引き取ってもいい!という人がいるかもしれないし、
そうでなくとも、多少ディスカウントすれば100%買い手が見つかるはず、、、と思っていたわけです。

ところが!!!
カウフマンはリハーサルのためにNY入りしながらも、結局体調を崩してしまって、
これらの二つの公演と、間に予定されていたプエルト・リコでのリサイタルもろともキャンセルになってしまいました。
当然カウフマンの出演しなくなった『ワルキューレ』をフル・プライスで買い上げてくれるような奇特な人物はおらず、
結局まるごとボックス・オフィスに寄付返しです。
おかげでファン・アーケン/ウェストブロック夫妻の”夫婦の危機”を目撃したり(一回目の公演)(9/29の『トロヴァトーレ』の感想のコメント欄を参照)、
代役のスケルトンが意外と良かったりして(二回目の公演)、それなりに楽しませてもらったのですが、
カウフマンが次にメトに登場するのは年(2013年)も明けてからの『パルシファル』になるので、
その気も遠くなりそうな先のことに、すっかりシーズン終了後、ブルー入っていたMadokakipなのでした。

しかし、そんなMadokakipを天もあわれに感じたのでしょう。
ある日のこと、会社で仕事中に”8月の末にスカラでカウフマンがヴェルレクを歌う。”という情報をもらいました。
早速会社のPCでスカラのサイトをチェックすると、確かにまぎれもないカウフマンの名前が見えます。
そして、一緒に歌うのは、アニヤ・ハルテロス、エリーナ・ガランチャ、ルネ・パペ。指揮はダニエル・バレンボイム。
ヴェルレクをこの顔ぶれで、しかも、スカラのオケと合唱で聴けるだと?!
やおら、同僚の方を振り向いて叫んでしまいました。
”私、8月の末にお休みを頂いてもよろしいでしょうか?ミラノに行かなければならなくなりましたので!!”


(ソプラノ:アニヤ・ハルテロス)

その後間もなく、メトの2011/12年シーズンを総括する!というテーマで、いつものヘッズ友達とディナーを計画したのですが、
ひとしきり今のメトの(言い換えればゲルブ支配人の)演出の趣味の悪さをくさして盛り上がった後、
メトが夏休みの間、どのようなオペラ活動が入っているかをお互いに開陳することになりました。
”キャラモアの後は例年通りバイロイトだ。”
”僕は夏休みの間中ヨーロッパに滞在して、比較的小さな音楽祭を回る予定。”
お金持ってるセミ・リタイヤ組は優雅よのう、、、と羨望の眼差しを向ける私に、”で、Madokakipは?”と話を振られましたので、
待ってました!とばかりに、”スカラで、ヨナスのヴェルレクを聴きますのです。”と言うと、
カウフマンが登場する保証はどこにあるのか? 君はあれほど『ワルキューレ』で散財して痛い目に合ったばかりではないか、
そこにミラノの旅行代を足したら一体いくらになるんだ? 
わしもパヴァロッティのキャリア末期には、彼がメトに登場すると言っても決してチケットを事前に買うことはしなかったぞ!と、すごい勢いで畳み掛けられました。
え?カウフマンってもうキャリアの末期なの、、、、?? ちょっとそれは言い過ぎよ、あんた達!!

いや、確かに彼らの言うことは一理あります。いつぞやのスカラの『トスカ』もどえらいことになりかけましたからね。
なので、今回は私もその時の経験を生かして、仮にカウフマンが出演しなくても行って良かった、と思えるかどうか?ここについてはよーく考えました。
そして、このソリスト達なら、そして何よりもこの作品をスカラのオケと合唱で、スカラの劇場で、ミラノの聴衆と聴けるなら、
行った価値はあったと思えるはず、、そう考えたからチケットも手配したんです。
だし、スカラのサイトによると、続けて同じメンバーでルツェルン、ザルツブルクにも引越し公演を行う予定らしいんだけれども、
最初のミラノでの演奏会にはDVD化のための撮影クルーも入るみたいだし、ソリストのキャンセルの可能性は非常に少ないと思う、、
ってなことを力説するMadokakipに、”かわいそうに、、ヨナス会いたさに頭がおかしくなったんだな。”と終いには憐れみの表情を浮かべつつ、
”これでも食べなさい、、。”と私の大好物プロフィットロールを薦めてくれる我がヘッズ友なのでした。


(メゾ・ソプラノ:エリーナ・ガランチャ)

前回ミラノに行った時は足を延ばしたベルガモの美しさにすっかり魅了されましたので、そちらも再訪したかったのですが、
今回はヴェルレク鑑賞前に、パヴィア(修道院を見て回った後にはバスが無くなっていて焦りまくり!)、マッジョーレ湖の島巡り、
マリア・カラスも温泉療養に出かけたというシルミオーネなど、ミラノやベルガモとはまた違う顔を持った土地を見れて本当に満足でした。
いや、まじで、このままヴェルレク聴けなくても、来てよかった、、と思う位。
日ごろまみれたNYの垢をこれらの場所で落とし(イタリアの皆様、すみませんねー。)、
おいしいものを食べまくったせいで(道理でオープニング・ナイトのドレスも入らないわけだ、、)、
いつものメトに駆け込む時の般若顔とは我ながら全く別人とも思えるリラックス・モードで足を踏み入れたスカラ座です。
今回は張り切るあまり、やや端には寄っていますが平土間の一列目のかぶりつき席で、
舞台にぎっしり並んだオケのメンバーの最前列の方のおみ足が目の前にばばーん!と聳えていて、これ以上オケに近寄ることは絶対に不可能、
考えてみたら、メト・オケでもこんなに側で聴いたことないわよ、私、、という位の至近距離です。
そして、確かに事前に通知されていた通り、いくつかのカメラの姿も舞台上に、ボックスに、ちらほらと見えます。

チケットを取る時はあまり深く考えてなかったのですが、良く考えたらラッキーなことに、一般的な立ち位置から言って、
真ん中の指揮台をはさんでこちら側が男声陣、向こう側が女性陣(舞台上手からバス、テノール、指揮者、メゾ、ソプラノの順)のはずで、
ってことは、私のいる座席からはカウフマンが良く見えるはず、、、ああ、生きてて良かった

ソリスト達と指揮者のバレンボイムが舞台上に姿を見せ、その通りの順に着席し、女声陣がすっと顔をあげて中空の一点を見つめると、
やがて、バレンボイムの指揮棒に導かれてRequiem(永遠の安息を与え給え、主憐れみ給え)の旋律が現れました。
やや!!!こ、これは!!!!
スカラのオケは鉄壁の(全員が全く同じタイミングで同じことをやるという意味での)アンサンブル集団ではないと思うし、
こうやって至近距離で聴いていると、同じセクション同士で機械のようにぴったりと一寸違わぬタイミングで弾いている・吹いているわけではないことに気づきます。
しかし、奏でられる音には、楽器の種類に関わらず、奏者全員が同じ内容の表現をしようとしているのが伝わって来るような猛烈な一体感があって、
その結果、機械のような揃い方をしていない!なんて些細なことはどうでもいいと思えて来るし、
むしろタイミングが完璧には揃っていないことが、そんなレベルとは違うところでの一体感を強調する結果にもなっていて、一種の味に思えるほどです。
奏者全員が同じ内容を、同じ感情を込めて表現している、というのは口で言うのはたやすいですが、これはすごいことです。
なぜなら、『レクイエム』という作品が、どういう作品なのか、何を伝えんとしているのか、ということを、全員が理解している、ということなのですから!!
また、これを言ってしまったら元も子もないというか、ならアメリカのオケは多分永遠にここにはたどり着けないだろうな、、という、
私のようにNYでの音楽鑑賞が中心になっている身としては悲しい結論に落ち着いてしまうのかもしれませんが、楽器の音色が本当違う、、、
特に低弦楽器の深みのある響きとキンキラすぎない金管。
しかも、肝心な点は、彼らの演奏にはヴェルレクを演奏するにはこの音が一番なんだ!という強烈な説得力が宿っていることで、
実際、アメリカのオケのパワフルな金管に慣れている耳には一瞬あれ?と思うところもあるのですが、
聴きすすめていくうちに、スカラの音色の方がやっぱり作品にふさわしいな、、と思えてくるのです。



タイミングも込みでの完成度と言ったら合唱です。いやー、これはもう本当にすごい!!
いくら彼らがプロだと言っても、これだけの人数が歌ってここまで言葉のタイミングやニュアンスが統一出来るというのは信じられないです。
Dies Irae(怒りの日)の、
Quantus tremor est futurus, すべてをおごそかにただすために
Quando Judex est venturus, 審判者が来給う時
Cuncta stricte discussurus. 人々のおそれはいかばかりであろうか
のところでの、言葉がもぞもぞっと地下から這い上がって来て姿を現すような言葉そのものに”動き”を感じる表現の仕方なんか素晴らしいですし、
その後のTuba mirum(くすしきラッパの音)で全オケの上でomnesと歌うところも絶叫調めいたところが皆無で、怖いくらい音の響きに崩れがないんですが、
これはオケにも言えるかもしれない。
Dies IraeからTuba mirumの冒頭にかけては、ピッツバーグの演奏なんか、
奏者があんまりどんぱちやるもので、心臓の弱いお年寄りだったら椅子から飛び上がってそれこそ昇天しかねないような演奏でしたが、
スカラの演奏だってもちろんかなりの音量が出ているには違いないんですけど、決して我を忘れて演奏している感じはしなくて、
常に良い意味でのコントロールが効いていて、びっくりして椅子から飛び上がらされるというよりは、
竜巻みたいなものに、ごーっ!!と床から根こそぎ持って行かれるような、そういう感じです。
そうそう、まさにここで歌われる
Tuba mirum spargens sonum この世の墓の上に
Per sepulchra regionum  不思議な光を伝えるラッパが
Coget omnes ante thronum  全人類を王座の前に集めるであろう
という言葉と音楽が、体の回りを渦巻いてまさに私を根こそぎスカラの椅子ごとその王座の前とやらに吹き飛ばさんとしている、というような。

とにかく一事が万事その調子なものですから、Sanctus(聖なるかな)での合唱のきらきらとした輝きに天国を見、
Libera Me(我を許したまえ)での畳みかける波のようなオケの演奏にどきどきし、演奏が終わった時には、
まぎれもないヴェルディのレクイエムを聴いた!という実感がありました。

私はバレンボイムの指揮がいつもいつも素晴らしい、と感じるわけではないし(というよりも、私の感覚に合わない、といった方が語弊が少ないか?)、
また私はこのヴェルレクという作品には並々ならぬ思い入れがあるのと、演奏の仕方に非常にはっきりとした好みがあるので、
オケや合唱のサウンド自体は楽しめるだろうとは思っていましたが、それ以上の期待を持っていたわけではなかったのですけれども、
見事に良い方に裏切られました。

まず、この作品で絶対に外してはならない点は二つあって、それは、
1)レクイエムというフォーマットと、それにしてはオペラティックな側面も備えているこの作品で、この二つのバランスをどのようにとっていくか?
2)音楽のまとまり・流れと区切れを大事にする
この二点です。

この作品はオペラの演目ではなくて、あくまで『レクイエム』なので、
オペラ作品の時のようなやり方、つまり、普段の喋り言葉の延長のような形で感情表現を込めた歌唱方法をとると非常に下品になるし、
それはオケの演奏についても同じことが言えて、闇雲に感情を爆発させるのではなくて、底にどっしりとした碇が降りているような、そういう演奏をしなければならないと思います。
今回、バレンボイムが賢明だったのは、彼がスカラのオケが指揮者にごたごた言われなくてもこのバランス感覚をきちんと身につけていることを十二分に理解し、
彼らが自発的に演奏するのを助ける、それ以外のいらないことはほとんど(ま、一箇所、むむむ、、と思わせるわざとらしい箇所があったのはご愛敬ですけれども、、)
何もしなかった、その点に尽きると思います。
だから、演奏が良かったのはオケと合唱の力だと言えるのですが、特別なことは何もしないというのも一つの指揮のあり方であるとすれば、
今回のバレンボイムの指揮は素晴らしい指揮だったと思います。
ずっと前に、一度、ムーティが率いるスカラの『レクイエム』を生で聴いたことがありますが、
オケと合唱の演奏内容に感銘を受けた、という意味では今回の方が上だったかも、、とも思います。

ま、バレンボイムが何もしていない、というのが言い過ぎだとしたら、間違いなく彼のクレジットとしておきたいのは、
この作品の、一つの長いまとまったフレーズとして演奏すべきライン、
また、曲と曲の間のつなぎ方(体裁的にはいくつかの曲にわかれているが、これは全曲を通した一つの大きな作品であるので、
交響曲の楽章と同じような取り扱いの仕方をしてはいけない。
こんなこと、当たり前じゃん!と思われる方がいらっしゃるかもしれませんが、その当たり前のことが出来ていない演奏が存在するんです!!この世には。)、
それから音が休止して次の音に入るまでの音のない”間”も、これまたこの作品で大切な一個の音である
(Tuba mirumで合唱の後に、バスのMors stupebit et naturaが入ってくるタイミングの大切さなど)、など、
こういったところで、私が”あなた、やっちまいましたね、ここ!!”と残念に思ったり、違和感を感じるような部分が一切なかった点です。


(バス:ルネ・パペ)

歌手について。
まず、ソプラノのハルテロス。
彼女は本当に変な癖のないきちんとしたソプラノ声で、音程やテクニックも確かで安心して聴いていられますし、
(Offertorioのラストの高音もすごく綺麗に入ってました。)
もともと彼女が持っているノーブルな雰囲気がこの作品にも良く合致していて、良い人選だったと思います。
ただ、さっきの、レクイエムというフォーマットとオペラティックな作品の性質のバランス、という点でいうと、
私の好みからいうと、彼女の歌はもう少しオペラティックな方に寄っても良いのかな、、と感じます。
この作品で私が感じたいものを基準とすると、歌がちょっと冷たい感じがするかな、、、。
もしかすると、DVDの収録があるということで、多少安全運転に走ったところもあったのかもしれません。
例えば先述のピッツバーグでのミードなんか、最後のLibera meの押し寄せるような感情を非常に上手く表現していて、
大変エモーショナルな歌唱だったんですけれども、そういった意味でのエモーションがほんとに少しですが、欠けていたのが残念でした。
一つには、彼女の声は少しドライに寄った声質で、
ミードのようなスティーリーなピンを使ってあそこのオーケストレーションをサーフすることが出来なくて、
少し埋没してしまって聴こえるのにも原因があったかもしれません。
しかし、歌が丁寧かつ上手な人であることは間違いないです。

メゾのガランチャ。
考えてみれば、彼女に赤ちゃんが生まれてから生で歌声を聴くのは今回が初めて。
私が覚えている限りでは、それほど声の性質にドラマティックな変化が生まれたわけではなく、割と以前のまま、な印象を受けました。
(その点、ソプラノのネトレプコとか、同じメゾならメトの『テンペスト』に出演するイザベル・レナードなんかの方が、
産休後に戻って来た時に、あ、少し声が変わったな、とより強く思いました。)
ただし、今回、彼女は声を振り絞る時に、体を前屈姿勢にしてそこから声を出すという動作が時々見られました。
以前はこういう癖はなかったように思うんですけれど、私が単に気づかなかっただけなのかな、、
まあ、オペラの全幕ものの場合は演技がくっついているのでそういうことはしてられないので気づきにくいとは思うのですが、
でも、2010年のタッカー・ガラの時だって、そんなことしてなかったように記憶しているんですが、、、。
これはあまり良くない癖なんじゃないかと思うんですよね、、、実際、彼女がこれをやる時、音がきちんと前に飛んでないように感じましたし、、。
彼女のスレンダーなメゾ声と歌唱のスタイルは、あまり”イタ”らしくない部分もありましたが、
レクイエムvsオペラのバランスの面では一番上手く行っていたのが彼女かな、と思います。
まあ、しかし、ガランチャも歌が丁寧でかつ上手な人であることは間違いないです。


(指揮のバレンボイムとカウフマン。ただし、写真は今回の演奏会のものではなく、ドイツで撮影されたもの。)

バスのパペ。
パペは面白いですね。すごく真面目に歌う時があるかと思えば、突然大はじけする時があって。先シーズンの『ファウスト』でもそうでしたが。
さすがに『レクイエム』に関しては、彼はフォーマット重視型、つまり、ハルテロスと同じタイプだろう、とにらんでいたのですが、
これがどっこい、今日のソリスト四人の中で、一番オペラティックな歌を繰り広げていたのが彼だったと思います。
あまりに思い入れたっぷりに言葉を発していた箇所(Mors, mors, morsのところとか、、)や突然爆発の大声!ってな箇所があったので、
これも私の感覚を基準にしての話ですが、”そこはもうちょっとトーン・ダウンしても良いのでは、、。”と思ったほど。
でも、やっぱり、なんだかんだ言って、パペも歌が丁寧で、かつ上手!!
、、、とパペについての感想はそれだけ?と気づかれた方、実に鋭いです!!!
そう、私は今、パペに猛烈に怒っているので、意図的に感想も短く、です。
なぜならば、演奏会開始までは、平土間一列目のこの位置からなら、遮るものは何も無い!状態でカウフマンを観察できるじゃないの!と超ワクワクモードだったのに、
演奏が始まってみれば、テノールが絡んでいる時間の1/3ほどに渡って、カウフマンの顔が良く見えない、、、。
それはなぜならば、私が鑑賞している角度からだと、パペが手に持っているスコアがカウフマンの顔にばっちりバッティングしてるから。
すんでのところで、パペに”あなた、ちょっと、ちゃんと暗譜してきなさいよ!!”と叫んでしまうところでした。
(ま、全員、楽譜持ちでの参加でしたが、、。)

で、最後に残った、そのカウフマンなんですが。
こんなこと言ったら、皆様にずっこけられるかもしれませんが、実は私、数年前にヤンソンスの指揮だったかな、、?
カウフマンがこのヴェルレクを歌ったのをネットラジオか何かで聴いていて(ソプラノはストヤノヴァでしたね、確か。)、
彼のヴェルレクはいまいちだな、、、と思ったことがあるんです。
先に言いました通り、私はヴェルレクに関しては、”かくあるべき!”という、強烈な理想像があって、
なんか、彼のヴェルレクはちょっとエキセントリックだなあ、、、と感じた覚えがあります。
どこがどうエキセントリックか?と聞かれると、全てを説明することは難しいのですが、
一つには彼の声質が今一つこのヴェルレクのテノール・パートには向いていないのではないか、ということと、
彼は純粋な歌唱のテクニックで聴かせるタイプのテノールというよりは、歌にドラマを載せるという点での才能に秀でた人だと私は思っているのですが、
先に書いたことと重複しますが、オペラ作品で、日常の(もちろん、オペラの内容の多くはかなりエクストリームな日常ではありますが)
言葉の延長のようなものにドラマを載せるのと、
この『レクイエム』のような、典礼という非常に形式化された言葉にドラマを載せるのとは、全く異質なものじゃないかな、という風に思っていて、
その辺があまり上手く行っていないような印象を持ったからなのです。

ところが、今回の演奏では、生で聴いているという環境の違いもあるし、またスカラのオケが非常にエクスプレッシブで、
歌唱と負けないくらい音にドラマを乗せてくるので、それとの相乗効果もあったのか、
はたまた実際に若干歌い方が変っている部分もあるのか、以前よりは違和感を感じない歌唱でした。
いや、以前よりは、というより、今回、全くといっていいほど違和感を感じなかったです。
このあたりはもしDVDが発売されるようなら、その時に再度、じっくり以前とどういう違いがあるのか・ないのか、
気をつけながら聴いてみたいと楽しみに思っている点です。
メトの『ワルキューレ』の降板と合わせて、かなり長期間休養をとっていたように聞いていたので、
声の方がどのようになっているだろう、と、その点をすごく心配していたのですが、
Requiemで”Kyrie~”と全パートに先駆けて歌い出す部分から、Ingemiscoのパワフルな歌唱まで、きちんと復調しているようで安心しました。
しかし、あれはOffertorio(主イエズス)だったか、Lux Aeterna(永遠の光を)だったか、まだ、これからテノールが歌わなければいけない曲の直前で、
カウフマンの左手がプルプルし出したのを私は見逃しませんでした。
どうしてプルプルしているのだろう、、?薬の発作(って、何の薬?って感じですが)かしら?と目を皿のようにして観察していると、どうやら録音もされている場で、女声陣の歌声に自分の声がかぶってはいけないし、また、ゴホゴホしている場面をカメラマンに抑えられてはやばいと思ったのか、
湧きあがってくる咳を懸命に抑えようとして、半分涙目になっているのです。かわいそうなヨナス!!!
日本と違って湿度が低く、空気が乾きがちなNYのような場所にいると、私もたまに小さな塵みたいなものが気管の変なところに入って、
突然、猛烈な咳の発作に見舞われることがありますし、まあ、そのような単純な事態だったなら良いのですけれども、
こういう演奏会のような気が張っている場で、歌手が突然咳に見舞われるというのはあんまりあることではないようにも思いますので、
何か、まだ喉に問題や不安がある、その徴候でなければいいな、と思います。
この咳の発作の後、心理的なものもあるのか、若干、薄氷の上を歩くような、注意深い歌唱になってしまったのはかえすがえすも残念です。

歌唱に関しては、かように、きちんとした歌唱力を持った歌手が集って堅実に歌うとこうなる!という見本のようなパフォーマンスで、
良くも悪くも、型破りなところはありませんでしたが、しかし、その分、オケと合唱が型破りなレベルできちんとヴェルレクの演奏をしてくれたおかげで、
それはもう私にとっては至福の時間でした。

また、イタリア人歌手が1人もいないソリストのメンバーと彼らの歌唱について、色々思うところがあった地元のファンもいらっしゃるかもしれませんが、
少なくとも私の座席のまわりの観客の間には、”良い演奏を聴いた。”という充実した空気が溢れてました。

公演の前までは、このままヴェルレクがなくても満足してNYに帰れるなんて思ってましたが、とんでもない!!
スカラのオケと合唱のおかげで、すでに大満足だったミラノ旅行の思い出に、さらに忘れられないレイヤーが加わって、
今となっては、ヴェルレクがなくても、、なんて、どうして思えたのか?と自問したいくらい。
終演後にあまりに幸せだったものですから、気が大きくなって、またどか食いしちまいました。

翌日、ヴェローナで丸一日遊んで(これこそ、全然、時間が足りなかった、、、次回イタリアに旅行する時には絶対に再訪したい!)、
最後の夜は、ホテルの部屋にあるヴェルディのレリーフ(まじで、、)に見守れながら、
”絶対また来るぞ!”と誓いつつ、パッキングに燃えるMadokakipなのでした。

(トップの写真は同じメンバーでザルツブルクに移動して演奏を行った際のものと思われます。)


GIUSEPPE VERDI Messa da Requiem

Anja Harteros, soprano
Elīna Garanča, mezzo-soprano
Jonas Kaufmann, tenor
René Pape, bass

Conductor: Daniel Barenboim
Orchestra e Coro del Teatro alla Scala

Platea Fila A
Teatro alla Scala, Milan


*** ヴェルディ レクイエム Verdi Requiem ***