11月7日(火)。
今日は、一日博士論文の校正に取り組み、夜は空手で型の稽古。初めて抜賽小(ばっさいしょう)をやる。足を引っ掛ける型と猫足があるので、なかなか面白い。
さて、日本では、皆さんの話題にも上っていることでしょう。いじめの手紙。
とても心が痛みました。でも、彼はよくそこまでの行動をしたと思います。そこまでのパワーがあるのだから、どうか思い止まって欲しい。全国のいじめをしている側も、これに懲りてやめて欲しい。
先週、うちの子は、幼稚園で、よくある子に叩かれるんだと言いました。両親の言語が日本語なので、天馬には言葉のハンデがあります。彼の日本語は大したものなのですが。
だからかな、と思ってよく聞いてみると、
「あの子が悪いんだよ。僕は叩いちゃいけないから、Say sorry!って言うんだよ。」
と言いました。謝りなさいよ、とちゃんと英語で要求しているのだそうです。これは大丈夫だ、と思いました。言い返すことが出来れば、なんとかなる。
これが小学生、中学生になると、今回手紙を書いた彼が苦しんでいるような、もっと陰険ないじめがあるのだと思います。
いじめは世界中どこにでもあります。それが、冗談で済む程度なら健全なのでしょうね。
僕もウガンダで、研究のため数ヶ月通っていた病院へ向かう途中に、毎日小さなスラム街を通らなくてはならなかったのですが、日本人に慣れていない彼らは、最初、「あ!ムズング(白人)!」「ジェット・リー!ジャッキー・チェン!アチョー!」と大声ではやし立てました。なんだか、寄ってたかっていじめられている気分です。
3日目に、「ムズング!」と言われた時に、この頃いろいろな場所で使い始めていたのですが、「あ!ムガンダ(ウガンダ人だ)!」と叫んで、大げさに驚いて見せました。
すると、一瞬相手はあっけにとられて、それから大笑いし始めました。相手の気持ちが分かったのと、その返し方が気に入ったのでしょう。
それからは、スラムを通るときも、みな、
「ドクター!ワシゾチャー(おはようー)!」
と声を掛けてくれるようになりました。
途上国は、精神的に、先進国より豊かであることは周知の事実になってきていますが、それに比べて日本の今回の出来事には、ただ心が痛みます。日本だって、全学校の全クラスがひどい集団のいじめをやっているわけではないんですよね?反応しすぎなのかな?
今日は、一日博士論文の校正に取り組み、夜は空手で型の稽古。初めて抜賽小(ばっさいしょう)をやる。足を引っ掛ける型と猫足があるので、なかなか面白い。
さて、日本では、皆さんの話題にも上っていることでしょう。いじめの手紙。
とても心が痛みました。でも、彼はよくそこまでの行動をしたと思います。そこまでのパワーがあるのだから、どうか思い止まって欲しい。全国のいじめをしている側も、これに懲りてやめて欲しい。
先週、うちの子は、幼稚園で、よくある子に叩かれるんだと言いました。両親の言語が日本語なので、天馬には言葉のハンデがあります。彼の日本語は大したものなのですが。
だからかな、と思ってよく聞いてみると、
「あの子が悪いんだよ。僕は叩いちゃいけないから、Say sorry!って言うんだよ。」
と言いました。謝りなさいよ、とちゃんと英語で要求しているのだそうです。これは大丈夫だ、と思いました。言い返すことが出来れば、なんとかなる。
これが小学生、中学生になると、今回手紙を書いた彼が苦しんでいるような、もっと陰険ないじめがあるのだと思います。
いじめは世界中どこにでもあります。それが、冗談で済む程度なら健全なのでしょうね。
僕もウガンダで、研究のため数ヶ月通っていた病院へ向かう途中に、毎日小さなスラム街を通らなくてはならなかったのですが、日本人に慣れていない彼らは、最初、「あ!ムズング(白人)!」「ジェット・リー!ジャッキー・チェン!アチョー!」と大声ではやし立てました。なんだか、寄ってたかっていじめられている気分です。
3日目に、「ムズング!」と言われた時に、この頃いろいろな場所で使い始めていたのですが、「あ!ムガンダ(ウガンダ人だ)!」と叫んで、大げさに驚いて見せました。
すると、一瞬相手はあっけにとられて、それから大笑いし始めました。相手の気持ちが分かったのと、その返し方が気に入ったのでしょう。
それからは、スラムを通るときも、みな、
「ドクター!ワシゾチャー(おはようー)!」
と声を掛けてくれるようになりました。
途上国は、精神的に、先進国より豊かであることは周知の事実になってきていますが、それに比べて日本の今回の出来事には、ただ心が痛みます。日本だって、全学校の全クラスがひどい集団のいじめをやっているわけではないんですよね?反応しすぎなのかな?
自分の記事にもかこうかと思いましたが、まだまとまってません。
今思っていることは、虐めって、虐められる側と比べると虐めている側は、ほとんど「いけないことをしている」意識がないってことです。
私の子供時代にも虐めはありましたが、そのときもそうでした。
そして、これは、大人社会の縮図なのではないかということです。
まだまだ、とめどなく思うことあります。
いずれ改めて、自分の言葉で記事で書きたいと思います。
思うのですが、ちょっと遊び半分でいじめても、やり過ぎないとか、ちゃんと謝るとかするのがバランスの取れたやりかたでしょ?
いじめられる側も、普段なんか言われても、実はピンチの時はみんなは頼りになる、と思える関係でなければ、ずっと辛いまま生きなければいけなくなる。
僕も、考えがちゃんとまとまっていないけど、これを書くことで、みんなの中の雰囲気が、いじめをしないように少しでも変わればいいと思いました。
自分でコントロールできないなら、周りから「もうやめなよ、やり過ぎだよ。」という声が掛からなければいけない。
また、いずれTAKAMIさんの記事も、お待ちしてます。
実は お恥ずかしいことですが
この事件のこともよく知りません
いじめの問題についてもどう考えていいかよくわかりません
ただ ぼくが子供のころは いじめと言ってもひどかった
まぁちょっと弱い子は
からかわれ つきとばされ なぐられ
大変だったと思います
先生まで みんなと一緒にある子供を笑いものにしたりしていた
でもいじめられる子は 泣きながらも
毎日元気に学校に来ていたのです
いじめられるから 学校を休むなんてありえなかった
もちろん いま考えると
よくいじめられた子は よく耐えていたと
同情するというより
尊敬します
この子達も いまだったら 自殺するのでしょうかねぇ
ネバーエンディングストーリーのはじめでも
主人公の子は 強い子に ゴミ箱の中に
放り込まれるのです
今だったら この子も自殺するんでしょうか…??
正直言ってぼくには わからないですね
残念ですが、いじめは無くならないと思います。
私たちが子供の頃も、かなり過酷ないじめはありました。いじめを苦にした自殺だってあったはずです。ただ、学校は今よりももっと確実に「隠蔽」したでしょうし、あの頃の子供たちは自殺の仕方に関する知識がなかったので、したいと思っても出来なかった・思いつかなかった子が大半だったのではないでしょうか?
時代ともにいじめのタイプは変化していると思います。私たちの頃のいじめは、確かに「やめなよ、やり過ぎだろ」と、クラスの誰かが言うことで収まる可能性はありました。しかし今のいじめは、そんなことを言った子供が次のターゲットになりますから、悲しいことですが、それを期待するのはむしろ酷かもしれません。
過去30年、いや、もっと昔から無くならないものが、ちょこっと対策を考えただけで、突然無くなるわけがありません。問題は、いじめられた子が比較的簡単に命を捨ててしまうこと・・・そして親がそれを助けられないこと・・・親は自分の子供がいじめで自殺をすれば、学校の責任にするけど・・・敢えて書くのですが・・・書くのは辛いのですが、子供が死んだら、それはどんな理由であろうと、親の責任だ・・・と言うのは乱暴な意見でしょうか?私自身は、そのくらいの覚悟で子供を育てなければ、親にはなれないだろう、と考えます。
もちろん学校の対応には失望するし、怒りも覚えます。でも、学校や先生は当てにならない、という前提の元に、親が子供を守らないと、命を救うことなど出来ないのではないでしょうか?
それから、こう言う問題が起きる度に考えるのですが、私たちは必ず「被害者(あるいはその親)」になることだけを心配し、そうならないための対策だけを考えがちですが、例えばいじめの場合には、いじめられて自殺してしまう子供の数よりも、いじめる子供の数のほうが圧倒的に多い(なぜならクラス全員・集団で1~2人をいじめの対象にするのですから)のは明らかです。つまり、自分の子供が被害者になる可能性よりも、加害者になる可能性のほうがずっとずっと高い、ということを認識するのも大切です。加害者が所謂「悪い子」とは限らない・・・と思います。
色々長々書いてしまいましたが、私も考えがまとまっている訳ではありません。
多分、永久に「まとまる」ものではないでしょう。考え続けることが大切という事だと思います。
正直、家が自営業(クリーニング屋)のせいか、小学校時代はその頃では珍しい「塾」通いをしていたせいか(性格もあったのでしょうが…)、クラス全員+担任の先生+その他のクラスの生徒からもからかわれたり、いやみをいわれたりしていました。いわゆる「いじめ」です。
僕の時代にも「もうやめなよ」という生徒も先生もいませんでした。
そんなものは理想像であり、ウルトラマンみたいなものです。
僕の経験から言えば、最大の問題は
「加害者が加害者である認識がない」
という点に尽きると思います。
それまで友達だと思ってた人から周りと同じような発言や態度をとられる…これが幼い時に一番堪えました。
わが国には「中庸が一番」という国民性があります。
これがなくならない限り、
「顔がわからない人達によるいじめ」
はなくならない様な気がします。
いじめが続いていた時に親に相談したか?
しませんよ…そんな事。
もし相談して親が前に出て行ったら、さらにいじめられるんですよ…。
相談できる友人…。その人もいじめに参加するかもしれないんですよ?。
この閉塞感は、きっとされた事のある人しか解らない感覚だと思います。
その頃は「自殺」なんてアイデアすら浮かびませんでしたが、そんな事をテレビで紹介されたら「その方が楽かも?」なんて考えるのも仕方がないかぁ、なんて今でも考えてしまいます。
だから第三者的な存在で、相談に乗るというよりただ話を聞いてくれる大人の存在が必要なんです。
私の場合は、小学校の近所にすむ陶芸家の人がいつも話を聞いてくれた事で非常に楽になりました。
話を聞いて意見を言うわけでもなく、「じゃぁ、どうしたい?」と自分の中の答えを探す手助けをしてくれる人が一番必要だったんだと思います。
(なぜか地域の評判が悪く、親はその人の所には行ってはいけないといってましたがね。)
今はできればそんな人になれればいいなぁと、ちょっと思ってます。
できるのであれば、その人がしていた事のできる「親」になりたいなぁと。
みなさん、とても貴重なコメントを有難うございました。なんだか、子供時代をよく思い出すことが出来ました。
きっと、ずっと前から、世界中のどこでも(ただやっぱり日本は異常に多い気がしますが)、今と変わらずいじめはあったのでしょうね。そして残念ながら、これからもずっと、いじめはあり続けるのでしょう。
なぜなら、加害者のほうは、被害者がそれほど精神的苦痛を強いられているとは気付かないか、気付いていても、自分に火の粉が降りかかっては嫌だから、上手にいじめを続けるから。
ただ、自分たちが子供の頃と違う点は、自殺という行為がマスコミを通じて世間に浸透してしまったので、追い詰められた子にはそれが当然選択肢の一つになってしまう、と。
実は僕は子供の頃、いじめられる側といじめる側の両方をやりました。特に中学生の頃は、いじめの対象が、数カ月おきに自然に変わっていたのです。いじめられた記憶よりも、いじめでひどいことをしてしまったという記憶に、後々思い出しては苦しめられました。その時は、罪悪感が片隅にありながら、実際楽しかったのです。
罪悪感は、誰にでもあると思うのです。僕がイギリスで特に感じるのは、皆さん個人主義をよく勘違いされますが、個性を伸ばす、やりたいことをやる、ということは大切にしているのです。でもそれよりもよく耳にし、感じるのは、人にいかに親切に気を配るか、どうやって文化、民族の違いを超えて協力し合っていったらいいのだろう、というメッセージです。バスの中にも、そういう広告が貼ってあります。もっとも、いじめや差別が存在するからこそスローガンを出すのでしょうが。
しかし、ここで気が付くべきなのは、やはり教育、スローガンの大切さです。
皆さん、いじめはやめましょうとただ言っても、変わらない。イギリスでは、教会、モスク、そして政府の仕事でしょうけど、日本の場合はマスコミ、政府、自治体、自治会でしょうね。
おねえちゃんの水着なんかより(イギリスでは性的なものはあまり広告されない)、道徳に関するものを、しつこくしつこく宣伝、放送、教育すべきです。
いじめはなくならないだろうけど、そういうことはやるべきです。
コメントの中で一番心に残ったのは、islayさんの、陶芸のおじさんです。聞いてあげると言うことは、本当に大切なことなんですね。
かなりマジになってしまいましたが、非常に意義の深いブログのやり取りでした。皆さん、どうも有難う。