変化を受け入れることと経緯を大切にすること。バランスとアンバランスの境界線。仕事と趣味と社会と個人。
あいつとおいらはジョージとレニー




学問としての「哲学」はおいらの知るところではない。一般教養の授業を
受けたことはあるが、内容の記憶は全く無い。単位は取れたのだが。

ありがちなハナシである。
しかし、とても示唆に富んでいる。
「教養を深め広げる」目的で設置されたであろう授業は、おいらに対して
本来の目的を達成していない。
「卒業するための単位」が欲しかったおいらは、その目的を成し遂げた。
この両者のギャップは興味深い。
双方ともが意思を持って取り組んだ結果である。
ところが、前者にとって後者は惰性的習慣として虚無に「こなした」だけ
であろうし、後者とて言い分は尽きない。
しかるにこの平穏さはどうだろう? 双方とも、生活の基盤を守るという
根本的欲求を見事に成し遂げている。
この文化は果たして、虚無の連続が構築した虚構なのではないのか?

「偶然」は存在しないという意見がある。即ち、全てが必然であると言う。
モノの捉え方、と言ってしまえばそれまでだが、本当にそうだろうか?
宇宙のレベルにまで歴史を紐解いてみると、「必然」こそ有り得ないよう
に感じることがある。つまり、すべからく偶然の積み重ねである。

ここで考えるべきは、偶然と必然の差異である。何が違い、何が両者を
特徴付けているのか。
そこに「意思」の入り込む余地はないのだろうか。

「打ったー! 大きいっ! 飛距離は充分! 左に切れるかー!?」
「上空を風が巻いてますからねぇ!」
「おーっと、風に乗って打球はレフトスタンドに突き刺さったー!」
「ラッキーなホームランですねぇ。」

このアナウンサーと解説者の実況は仮定である。
さて、
打ったバッターは、常日頃からホームランを打つべく練習に励んでいた。
それが「飛距離は充分」という結果を導き出している。
ところが、打球が飛んだ方向が悪かった。それでは単なるファールである。
そこに神風が吹き、打球をポールの内側に招き入れた。
飛距離を叩き出したのは打者の「意思」であり、打球の方向を決定付けた
風は「偶然」なのか。
そこに、常日頃から打たれまいと精進して来た投手の「意思」はどう関わ
るのか。
キリスト教的予定説では「必然」的結果であり、仏教的無常の世界では
単なる「偶然」なのだろうか。
つまり、受け止め側の「意思」によってどちらにでも転び得ると?

うー。
この考察、ちっとはおいらの脳細胞の老化を遅らせただろうか。。


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