[書籍紹介]
筆者は韓国生まれ、韓国育ちの、生粋の韓国人。
今では、「韓国人」の前に「元」が付く。
というのは、昨年、日本に帰化したため。
「シンシアリー」(SincereLEE)は偽名(ペンネーム)で、
「シンシア・リー」で女性かと思ったら男性。
53歳の元歯科医師。
ここでも「元」が付くのは、
現在は休業中で、今は文筆家だから。
10年以上前から韓国批判のブログや書籍を出版。
偽名でしか出せないところが
韓国の現状をよく表している。
ブログは1日15万PVから20万PVを超える人気で、
初めての著書「韓国人による恥韓論」(2014)は
20万部超のベストセラーとなった。
その後の数々の著作は累計70万部超を記録したという。
「韓国人による恥韓論」は、本ブログ(1)でも取り上げており、
終わり近く、著者は
「私の持論、
それはすなわち
韓国の日本観は狂っているということ。
韓国が主張している
邪悪な日本など、
どこにもないということです」
と書いているが、
韓国という特殊な風土の社会にいながら、
直感的にこうした本質を見抜く韓国人がいることを嬉しく思う。
願わくば、そうした声が表に出て来ることを。
などと私は書いている。
シンシアリー氏は、
独身らしいのだが、
「レナ」という同居人のことが出て来るので、
奥さんか、またはペットかと思ったが、
帰化申請の記述に家族のことも
ペット移住のことも出て来ないので
不思議に感じたところ、
どうやら、人形のことらしい。
ちょっと驚いた。
もしかして、ヘンな人かと心配したが、
書籍は、
ごく客観的、理性的な韓国批判で、
歴史や文化に対する造詣の深さも感じられる。
また、資料やデータに対するアクセス力、分析力もあり、
心配するには当たらないようだ。
風変りな趣味の持ち主と考えればよいだろう。
本書は2021年に刊行された
『「自由な国」日本から見えた「不自由な国」韓国』
に新章を加え、改題し、新書化したもの。
ということは、書かれたのは、
2021年、帰化申請中のことで、
韓国人であるよりも、
日本人であることを選択した、
その心境も書かれている。
日本の住み心地の良さ、環境に対する言及も多い。
オタク文化、軽自動車、整体、ビジネスホテル、コタツ、
桜と富士山を同時に眺められる 等々。
興味深かったのは、「匂い」のことで、
日本には、独特な匂い、
沢山の匂いがあるという。
日本人は気づかない視点。
また、夜景が綺麗なのは、
空気のせい、というのも、へえーと思わせる。
韓国人の特徴は「韓国人である」ことから
離れられないこと、
など、日韓比較論も多いに興味深いが、
執筆したのは、ラムザイヤー論文発表の時期と重なったため、
かなりの部分がラムザイヤー論文について書かれている。
ラムザイヤー論文については、
1月30日の当ブログ(乞う参照)に詳しく書いたが、
ハーバード大学教授が
「慰安婦」について、
多くは前金契約による年季奉公だった、
と論じたことから、
韓国で大騒動に発展した事件。
その韓国側の反応が、次のように書かれている。
韓国は、彼女たちを性奴隷とする歴史観以外は認めていません。
性奴隷が「契約」をしたはずがない。
日本では、信じられないほど報道されませんでしたが、
韓国では2月から連日のトップニュースでした。
ラムザイヤー論文に対する韓国での騒ぎについて、
シンシアリー氏は、4つの疑問を呈する。
1.論文の主要な内容は、「契約」。
なのに、「性奴隷」がどうとかの批判ばかり。
2.併合時代の朝鮮の当時の売春業の状況を
示す資料を提示する人が誰もいない。
3.資料や証拠を示さず、
教授に対する人身攻撃をしている。
4.学問の自由とは何か、曖昧。
(与党)「共に民主党」は、声明で、
「日本軍慰安婦問題は明らかに戦争犯罪であり、
その法的責任は加害国である日本にある」
「ラムザイヤー教授の歴史歪曲は
学問の自由になりえない」
と。
つまり、「慰安婦=性奴隷」を否定する論文は、
学問の自由の範疇外だ、
というのだから、驚く。
ラムザイヤー教授に対する韓国マスコミの人身攻撃は加熱し、
「ラムザイヤー教授は親日派だ」
という部分を集中的に攻撃しました。
(韓国では「親日派」というレッテル貼りは、
死刑通告にも等しい)
論文の内容がどうであれ、
「悪い人が書いたから内容は関係ない」
というのです。
以前から慰安婦性奴隷説を否定してきた
落星台経済研究所のイ・ウヨン氏は、
「メッセージに反論できないなら
メッセンジャーを殺せばいい」
という現象だと皮肉りました。
言い得て妙です。
慰安婦の「強制連行説」と
「性奴隷説」はほぼ一緒だから、
「契約」など持ち出されたら、
根幹から否定されてしまう、
と過剰反応をしたのだが、
シンシアリー氏は、
そこまで「性奴隷」にこだわらなければいけない、
何か別の理由でもあるのだろうか。
まるで、
「泥棒の足は自ら震えだす
(悪いことをした人は、
何かと反応しやすくなる)」
という韓国の諺のようでした。
と書いている。
学問研究には敬意を払うべきだという論は、
韓国では通用しない。
なにしろ、「学問の自由から除外」されるのだから。
前に日本の朝鮮半島統治がよく出来ていたというのを
データの塊のような論証で証明した論文、
慰安婦に対して定量的研究をせず、
5~10人の最悪の事例に注目し、
全体の慰安婦を一般化している、
と批判した研究論文も黙殺。
やはり「学問の自由から除外」されているのだ。
シンシアリー氏のすごいところは、
「朝鮮日報」「東亜日報」の紙面をスキャニングして
ライブラリー化したサービスを
自在に活用していることで、
軍艦島の朝鮮人労働者たちを取材した
戦前の記事を読み、
地獄のような島という、韓国の定説が間違っていることを
証明したりしている。
そして、戦前記事から、
当時の朝鮮の娼妓(売春婦)雇用において、
契約が存在したこと、
前金による年季奉公が事実であったこと、
前金には、 最初金利がついたが、
警察の指導で無利子になった、
などという記事を発見している。
いずれもラムザイヤー論文の正しさを証明するものだ。
馬山という町では、
警察署長が
1.芸娼妓酌婦の年季契約期限は5年以内にせよ
2.毎月1回の公休日をおくこと
3.毎月所得の3%の賞与を与えよ
4.営業中の業務に起因する疾病(性病)に対する治療費、給食費は
全額店主が負担せよ
などと指導した、
という記事がある。
いずれも、当時は売春が合法であり、
ビジネスとして存在していたことを表す。
これを今の「女性の人権」などで裁くことは不当だ。
評論家の多くは、
慰安婦制度の「不道徳」性を強調するが、
今の物差しで過去のことを非難するのは
間違っている。
4日前のブログで紹介した
売春業に従事する時に必要な提出書類について、
もっと詳しいものが、本書では掲載されている。
特に、軍慰安婦はその条件が厳しく、
本人と慰安所業者が一緒に作成する
就職申請書の一種である
「臨時酌婦営業許可願」、写真2枚、
戸主と女性本人が捺印した就職承諾書、
以上の関係者の印鑑証明書、
女性の戸籍謄本が必要で、
しかも、日本領事館職員が直接、
女性が慰安所に就職しようとする
意志を持っているのかどうか確認するなど、
女性と業者を調べて作成する「調査書」も必要でした。
また、慰安所を利用する軍は、
慰安婦が自分の意思で慰安婦になったのかを
確かめていた、とも。
李字衍氏は、
「行為者がいて、
彼らが一定のパターンに基づいて行動したなら、
それは契約当事者が契約に基づいて行動したものであり、
契約が存在したことを意味する」
と主張します。
性病を避けるための管理システム(軍慰安所)の必要性、
違法的な契約による犯罪に
誇り高き日本軍が巻き込まれる危険性を
防ぐための証明書類、などなど。
全てが当時の記事から理解できる内容ばかりです。
こうした資料を駆使して、
シンシアリー氏は、こう書く。
(過去の新聞記事を検証して)
ここらへんで、私は確信が持てました。
ラムザイヤー教授の論文は、
賛否は人それぞれだとしても、
決して撤回される、教授が謝罪する、
そんな類(たぐい)のものではない、と。
心情的には最初から教授を応援していましたが、
こうして自分なりに調べてみて、
確信が得られました。
「えらい教授が書いたから」ではなく、
自分で一次資料を調べて得られた確信。
これは、私は、この確信を行使できる権利を持っている
と言ってもいいでしょう。
だからこうしてブログや拙書に書いています。
反対者は、ラムザイヤー教授が契約書を提示していない、
と批判するが、
契約書を交わして文字に残すという発想の方が
当時の人々の状況には無かったという方が妥当だろう。
「事実上の黙示的契約」として、
ある条件を満たせば、
契約書なしでも契約として機能するという
米国最高裁の判例もある。
つまり、口約束でも契約は契約ということだ。
戦前の商習慣を今の物差しで当てはめるのも、間違いだ。
シンシアリー氏は、書いている
(仮に契約書がみつかっても)
どうせ「一枚だけの契約書で何が分かる」
と言葉を変えるでしょう。
私の4日前のブログで、
ラムザイヤー論文撤回、罷免の要求に対して、
ハーバード大学が応じなかった、と書いたが、
もう少し詳しいことが、本書には出ている。
ローレンス・バコウ ハーバード大学総長の解答。
「大学内で、このように、
ラムザイヤー教授が論争的な表現をしたのも、
学問の自由に含まれる。
論争的な見解が、
私たちの社会の多数に不快感を与えるとしても、
それは変わらない」
見事な解答だね。
多様性尊重などの
最近の風潮についても、シンシアリー氏は、こう書く。
それらの問題の多くには、
「少数の意見でも尊重される価値がある」
という、とても美しいフレーズが共通しています。
少数の意見でも尊い存在だというのは、
まったく異論がありません。
しかし、誰もがその意見を尊重しないといけない
と言うなら、
私はそんな「美しさ」もどきは欲しくありません。
残念ながら、「私の意見は尊い」ではなく、
「私の意見を尊いと思わないやつの意見は尊くない」
になるから、
様々な市民運動が暴走してしまうわけです。
最後の方で、
シンシアリー氏は、こう書く。
私が日本に来て手に入れた日常の一つ、
「書きたいことが書ける」。
韓国にいた時、
「書きたいことを書いた」という理由で
放送局に追いかけられた経験があるという。
「祖国の悪口を言って大金持ちになった男」
というタイトルの放送だ。
このあたりに、
韓国を見捨てて、
日本に帰化した理由があるのかもしれない。
しかし、祖国を出る、という決断は、
大いに迷ったことだろう。
心中の複雑さを察する。