[書籍紹介]
1995年3月、
東京・渋谷駅で、新興宗教団体による
毒ガス散布事件が起き、
5人の人の命が奪われた。
主人公の岡本啓美(ひろみ)は
実行犯として指名手配され、
容姿と名前を変えて別人になりすまし、
2012年に逮捕されるまで、
17年間の逃亡生活をする。
どう考えても、オウム真理教の地下鉄サリン事件、
そして、主人公は「走る爆弾娘」と呼ばれた
菊池直子がモデルだと思われる。
実際、編集者から持ちかけられたお題は
「17年間逃げていた女を書きませんか」だったという。
作者の桜木紫乃は、
報道記事や手記などの資料に目は通したが
「かえって本当のことがわからなくなったので捨てました。
虚構じゃないと、見えてこない真実もある」
という作家魂によって、
小説世界を構築している。
借りたのは、新興宗教団体による凶悪事件と
その実行犯として指名手配され、
17年後に逮捕されたことのみ。
つまり、逃亡生活は全て創作。
そこに様々な問題を内包させる。
啓美はバレエ教室を経営する母に、
ダンサーとして厳しく育てられたが、
期待に応えることができずストレスを溜め、
その束縛から逃れるように入信し、
18歳で新興宗教「光の心教団」に「出家」、
子供たちの教育係を担当していたが、
ある日、教団の異変に気付く。
子供たちが親と共に姿を消した。
そして、教団幹部の一人貴島に同行を命じられ、
何も知らぬままに渋谷に。
貴島は持っていたリュックを渋谷の雑踏に置き、
毒ガスを発生させるが、
啓美自身は何が行われたかは分からず、
翌日の新聞で初めて事件を知った。
つまり、全くの無実なのだが、
貴島と一緒にいたというだけで、
実行犯とされ、指名手配を受ける。
新潟の実父の元に潜伏し、
そこで、父の再婚相手のみどりと
その娘、腹違いの妹・すみれを知る。
すみれは、どういう血のつながりか、
バレエダンサーを目指し、
啓美と共鳴する。
父のDVが発覚し、
家を出た後、
公園で声をかけて来たのが、
フリーライターの鈴木真琴。
真琴は、貴島を匿っており、
告白本を書かせているという。
啓美は真琴の祖母・梅乃が経営する
スナックで梅乃の孫として生きる。
つまり、鈴木真琴を騙り、
保険証も共有する。
そのスナックにも指名手配のポスターが貼られる。
出入りの中国人の技能実習生・ワンウェイと関係を持つ。
姿を消したワンウェイを追った啓美は、
残留孤児だった母の元に身を寄せたワンウェイと同棲し、
山口一と名前を変えたワンウェイの妻、
山口りりとして生き、
技能実習生逃亡の手助けをする。
「わたしたち、もともとの自分じゃないんだ」
やがて事件が起き、
ワンウェイと離れ離れになった啓美は、
友人の借金肩代わりで借財を負い、
自殺しようとしていた男を助け、
同棲生活を始める。
共に偽名の山口ハジメの妻りりとして。
こうした逃亡生活の中で、
ダンサーにさせようとした母との確執、
すみれのバレエダンサーとしての成長、
梅乃の大往生、
自殺した貴島の死体を
真琴と一緒に処分し、
ワンウェイの子を生み、
真琴に託すなど、
驚くような展開を見せる。
そして、逮捕・・・
というすさまじい逃亡生活。
実際の菊池直子の人生がどうだったか知らないが、
それよりよほど劇的な生き方だったのではないか。
ただ、よく考えてみると、
元々冤罪なのだから、
ただ貴島についていっただけだと分かれば、
刑期は短く、出所すれば、
晴れて生きることが出来たはずで、
17年の逃亡生活より
幸福になれたのではないか、
という気がするが、
そう言ってしまっては身も蓋もない。
追われる者は、それだけで逃亡するのか。
実際、菊池直子の方は、
逮捕後、裁判で無罪を勝ち取っている。
メディアの報道は嘘ばかりで、
名誉棄損の裁判でも勝っているが、
メディアの姿勢は改まらなかった。
今、菊池直子は「ブロガー」だそうだが、
あまり更新していない。
一体どんな生活をしているんだろう。
最近発覚した桐島聡容疑者の逃亡生活といい、
「他人になりすまして生きる」
というのは、どのようなものか、
興味は尽きない。
本書は、その一端を覗き見させてくれる。
また、ダンサー時代は
体型維持で100グラム単位で食事制限していたが、
教団に入ってからは、好きに食事をし、
太ってしまい、
貴島と行動を共にする時、
鏡を見て、太った自分の姿に驚く。
教団にいる間、鏡を見ることを禁止されていたのだ。
また、出家する時預けた衣服を着ると、
入らなくなっていた、
など、おもしろい描写だ。
教祖の第四夫人だった女性の言葉。
「結局、なにかを信じるということは、
なにも信じられない自分との闘いでした。
自分を信じられるひとは身軽です。
自分以上の荷物がないのです。
身軽ゆえに重いご自身と付き合ってゆけるだけの力があれば、
神仏など頼らずとも生きていけます。
ただ、たいがいの人は
自身の背にある荷物が
なんなのかを知らないまま生きていると、
わたしは思うのですけれど」
ワンウェイが子供を残して
ひとり日本に戻った母親を探し、
会った時のことを言う。
「とてもかわっていました。
もうわたしのこと、わすれたです」
啓美は言う。
「良かったんや、それで。
人間は忘れるのがいちばん大変なんや。
あんたのマーマはあんたを捨てて
自分を手に家いれたんや。
ええ年してそんなこともわからんのか」
親に捨てられ国に捨てられた女が、
自分の家族を捨ててやって来た祖国で、
再び息子を捨てた。
どんな理由があったとしても、
それは彼女にとって捨てるに価するものなのだ。