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空飛ぶ自由人・2

旅・映画・本 その他、人生を楽しくするもの、沢山

白山神社

2024年08月16日 23時00分00秒 | 名所めぐり

先日のこと。
日比谷で映画を一本観た後、
都営三田線で、ここへ。

東京10社、9社目の白山神社を訪れるためです。

白山にあるから白山神社ではなく、
白山神社があるから、地名が白山になりました。

駅からすぐ、

住宅街の中にあります。

こちらは西の入口。

階段を登り、参道を通って、本殿へ。

天暦2年(948年)、
加賀国の白山比メ(口偏に羊)神社から勧請を受けて、
武蔵国豊島郡本郷元町(現在の本郷一丁目)に創建。
元和年間(1615年-1624 年)に
将軍徳川秀忠の命で巣鴨原(現小石川植物園内)に移った後、
明暦元年(1655年)、現在地に遷座。
五代将軍綱吉公と生母桂昌院の信仰を受け、
小石川の鎮守となった。
という、由緒ある神社。

近年6月には3千株のあじさいが群れ咲き、

あじさい神社として都心の新名所でもあります。

孫文ゆかりの土地らしい。

春には、桜も。

末社の松尾神社。

ここにも。

日本の神社は、系統(系列)があって、
稲荷神社、八幡神社、熊野神社、三島神社、
日吉/山王神社、鹿島/春日神社、白山神社などあります
それぞれ、元宮(本宮)があって、
そこから分身を頂いて分社を建てて代わりにお参りしたもの。
交通機関がない時代に、遠くへ参拝に行くのは困難でしたから、
近所に、分社を建てたわけです。

大神社系列の順位を挙げれば、
1位 稲荷神社祭神 4万社
   総本宮:伏見稲荷大社
2位 八幡神社祭神 2万5千社
   総本宮:宇佐神宮
3位 神明神社祭神 1万社
   総本宮:伊勢神宮
4位 天満宮祭神 8千社
   総本宮:太宰府天満宮

白山神社は第12位
石川県の白山比め(口偏に羊)神社(しらやまひめじんじゃ)が総本宮。
ここが本店で、全国の白山神社は、支店。
日本中に白山神社は、2000社あります。
由来は、多岐にわたって複雑ですが、根本は朝鮮系です。
白山(はくさん・しらやま)=新羅人(しらぎひと)の山。

                                       


王子稲荷神社

2024年08月06日 23時00分00秒 | 名所めぐり

7月29日のブログで訪れた王子神社から
徒歩で5分ほどのところに、
王子稲荷神社があります。


征夷大将軍、源頼義により
「関東稲荷総司」の称号を頂いた、由緒ある神社。

神社運営の「いなり幼稚園」が境内にあり


神門が幼稚園の入口となるため、
幼稚園の開園時間はこの門は閉ざされています。

そこで、この急坂「いなり坂」を登って行きます。

正面。

鳥居。

狛犬ではなく狐が左右に。

中に入ります。

大木。

能舞台?

社殿。

十一代将軍家斉公により寄進されたもの。

更に奥にある社。

この階段は今は閉鎖中。

下に移り、神門から入ります。

幼稚園。

今は閉鎖中の階段を登って参拝も出来ます。

ここにも神社内神社が。

民話「王子の狐火」や落語「王子の狐」でも有名。
狐火(きつねび)は、日本各地に伝わる怪火。

かつて王子周辺が一面の田園地帯だった頃、
路傍に一本の大きな榎の木があり、
毎年大晦日の夜になると関八州(関東全域)の狐たちが
この木の下に集まり、
正装を整えて、
官位を求めて王子稲荷へ参殿したといいます。
その際に見られる狐火の行列は壮観で、
近在の農民はその数を数えて翌年の豊凶を占ったと伝えられています。

↓は、その伝承を描いた歌川広重の浮世絵「王子装束ゑの木大晦日の狐火」

これにちなみ、
大晦日から元日未明にかけては、
除夜とともに「大晦日狐の行列」が王子稲荷へ向かいます。

境内にある「狐の穴跡」は、
落語「王子の狐」の舞台にもなっています。

ある男が王子稲荷に参詣した帰り道、
一匹の狐が美女に化けるところを見かける。
男は化かされた振りをして声をかけ、
近くの料理屋・扇屋に上がり込み、
差しつ差されつやっていると、
狐は酔いつぶれ、すやすやと眠ってしまった。
そこで男は、土産に卵焼きを包ませ、
「勘定は女が払う」と言い残して、帰ってしまう。
しばらくして、店の者に起こされた狐は、
男が帰ってしまったと聞いて驚き、
びっくりしたあまり、狐の姿に戻ってしまう。
店の者に追われた狐はほうほうの体で逃げ出した。
狐を化かした男、友人に吹聴するが
「そんなことをするもんじゃない。狐は執念深いぞ」と脅かされ、
青くなって翌日、王子まで詫びにやってくる。
巣穴とおぼしきあたりで遊んでいた子狐に
「昨日は悪いことをした。謝っといてくれ」
と手土産を渡す。
穴の中では痛い目にあった母狐がうんうん唸っている。
子狐は「今、人間がきて、謝りながらこれを置いていった」
と手土産を開けると、中身は美味そうなぼた餅。
子狐が食べようとすると、母狐があわてて止め、
「いけないよ! 馬の糞かもしれない!」                 

噺の中に登場する料理茶屋「扇屋」は今でも存在するお店で、
厚焼き玉子が美味しいと有名。

毎年2月の午の日に開かれる凧市は、

たびたび大火にみまわれた江戸庶民たちが
「凧は風を切る」として火事除けの縁起をかついだもの。

神社が所蔵する
「額面著色鬼女図」は、
日本画家、蒔絵師として有名な柴田是真(しばたぜしん)作の大きな絵馬。


国認定重要美術品です。

絵馬として販売。


このほかにも谷文晁筆の板絵著色の龍図や数多くの文化財が保存されています。

帰り道の京浜東北線をくぐる地下道にも


が描かれています。

夜一人で通ると狐に化かされるかもしれません。

                                        


王子神社

2024年07月29日 23時00分00秒 | 名所めぐり

東京十社めぐり、8社目、王子神社を訪問。

ゲリラ豪雨雲が発生していましたが、
王子駅に着いた時には、
通り過ぎた後でした。
さすが晴れ男。

駅の側にある音無親水公園

このあたりが渓谷だったことをうかがわせる公園。

石神井川の旧流路に整備されたもの。
石神井川は、北区付近では“音無川”と呼ばれており、
古くからの春の桜・夏の青楓と滝あび・秋の紅葉など
四季の行楽の名所、景勝の地でした。

↓歌川広重画「名所江戸百景 王子音無川堰棣世俗大瀧ト唱

             
昭和30年代から始まった改修工事で、
緑の岸辺は厚いコンクリートの下へと消え、
残された旧流路に、
「かつての渓流を取り戻したい」として
音無親水公園ができました。

地形をそのまま利用しており、
石垣に囲まれたせせらぎは、
自然の川で遊んでいる感覚で水遊びが楽しめます。

この坂を登って王子神社へ。


丘の上にあることが分かります。

坂の途中にあった大イチョウ

樹齢は600年。
戦災で境内の殆どを焼失する中で
1本だけ奇跡的に生き残った貴重な銀杏です。
東京都の天然記念物に指定されています。

大銀杏の下には句碑が立っています。

暮際もなく 夜にうつる さくらかな
              八十三翁 大谷暁山

往年の飛鳥山の桜花の情景を詠んだ、
元王子町長大谷氏の句碑。

正面の大鳥居

高さ約8.6m。


石造りの鳥居としては都内有数のもので、
茨城県稲田産の御影石を使っています。

中へ。

本殿

御祭神は
伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、
伊邪那美命(いざなみのみこと)、
天照大御神(あまてらすおおみかみ)、
速玉之男命(はやたまのおのみこと)、
事解之男命(ことさかのおのみこと)の五柱で、
総称して「王子大神」と呼ばれています。

創建は不明ですが、
源義家(1039 -1106) の奥州征伐の折、
社頭にて慰霊祈願を行い、
凱旋の日に甲冑を納めた故事も伝えられ、
古くから聖地として崇められていたと思われます。

その後、元亨2年(1322年)、
領主豊島氏が紀州熊野三社より王子大神をお迎えして、
改めて「若一王子宮」と奉斉し、
それよりこの地は王子という地名なりました。
「王子権現」の名称で江戸名所の一つでした。

狛犬

「子育て狛犬」として建立されています。
社殿向かって右側の狛犬が父親で、
子どもをあやす鞠を持っています。


向かって左側の狛犬が母親で、子どもを守っており、
ご夫婦揃って子育ての守護となっています。

本社神輿・神輿蔵

関神社

全国でも珍しい「髪の祖神」
御祭神は百人一首でも有名な蝉丸公で、


髪の毛が逆髪である故に嘆き悲しむ姉君「逆髪姫」のために
「かもじ・かつら」を作ったという伝説により、
髢、鬘や床山業界の方々の信仰の対象です。

説明板は、

タッチパネルになっています。

夏祭りの準備中。

 


芝大神宮と氷川神社

2024年07月21日 23時00分00秒 | 名所めぐり

「東京十社」というのがあるのを知り、


5つは行ったことがあるので、
残りの5つを順に回ろうと思い、
まず、増上寺に近い
芝大神宮にまいりました。

新橋駅近く、最寄りの駅は都営浅草線大門駅

ここが参道。

立派な鳥居です。

階段を登ると、
えっ、これで終わり?

神社というものは、
うっそうたる森の中にあるものと思いましたので、
ちょっと拍子抜け。

調べてみると、
東京十社とは、
明治天皇が東京近郊の主だった神社を
准勅祭社(じゅんちょくさいしゃ)と定めて
東京の鎮護と万民の安泰を祈る神社としたもので、
神社の規模は関係ないようです。
准勅祭社の制度は短期間に終わりましたが、
1975年、
元准勅祭社12社の内から、
東京近郊の10の神社を
「東京十社」と定めたものです。

芝大神宮は、社伝によれば、一条天皇の御代、
寛弘2年(1005年)、伊勢の内外両宮を勧請して創建したもの。

本殿

祭神は天照皇大御神豊受大御神
中を覗きます。

境内にある力石


力自慢が持ち上げるのを競ったもの。

この狛犬の台座に書かれた「め組」とは、


火消という江戸時代の消防組織の一つ。
文化2年(1805年)に起きた町火消し「め組」の鳶職と
江戸相撲の力士たちの乱闘事件が起こり、
「め組の喧嘩」として、講談や芝居の題材にされました。

想定していた森の中の神社とは、
違ったので、
気を取り直して、
別の日、赤坂へ。

東京十社の一つ、氷川神社を参拝するためです。

赤坂と六本木の中間あたり。

犬の散歩をする住民とすれ違う
閑静な住宅地を歩いていると、


突然森が出現します。

氷川神社というのは、各地にあり、
東京都港区白金にある白金氷川神社や
元麻布にある麻布氷川神社と区別するため、
赤坂氷川神社とも称されます。

祭神は、
素盞嗚尊(すさのおのみこと)、
奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)、
大己貴命(おおなむぢのみこと)。

東側、一の鳥居から入ります。

境内には、石灯籠と狛犬があちこちにあります。

右には、神社内神社

四合稲荷神(しあわせいなり)は、

古呂故稲荷(ころこいなり)・地頭稲荷・本氷川稲荷・玉川稲荷の4社を
合祀したことに由来。


勝海舟が命名したそうです。

西行稲荷神(さいぎょういなり)

別名「火伏の稲荷」。火災除の御神徳があると言われています。

階段脇にある太鼓橋。

階段を登ると、

二の鳥居があり、

脇に包丁塚

大イチョウ(港区の天然記念物)。

年に一度、氷川まつりが行われ、

祭りに使用する神輿を展示。

三の鳥居

天暦5年( 951年)、東国を遊行していた蓮林僧正が霊夢を見て、
一ツ木村(現・赤坂4丁目付近)に奉斎したと伝えられています。

享保15年(1730年)、江戸幕府第8 代将軍徳川吉宗の命により、
現在地に遷され、


現在の社殿はこの時に造営されたもので、

東京都の有形文化財に指定されています。

桶新稲荷(おけしんいなり)。

宇迦之御魂(うかのみたまのかみ)を祀ります。

山口稲荷(やまぐちいなり)

九神社(くじんじゃ)

天祖神社・春日神社・鹿島神社・八幡神社・諏訪神社・
秋葉神社・厳島神社・金刀比羅神社・塞神社(さいじんじゃ)
の9社を合祀。   

                                                                     南側の一の鳥居から退出。

都会の中の森。

静けさに包まれて、いるだけで姿勢が正される、
神社らしい神社でした。

 


増上寺

2024年07月13日 23時00分00秒 | 名所めぐり

先日、ここへ。

地下鉄を出ると、いきなりの緑。

東京タワーの近くです。

ここにも東照宮があります。

芝東照宮は、元は家康を祀る増上寺安国殿でしたが、
神仏分離令の折に独立し神社化されたものです。

その増上寺に行ってきました。

なにしろ、以前に、一度しか行ったことがありません。

その「一度」も
蜷川幸雄のギリシャ悲劇「王女メディア」の観劇のため。
当時、新宿の花園神社や本願寺などを使って演劇をするのがはやりでした。

増上寺の少し手前、木造仁王像

増上寺
浄土宗の七大本山の一つ。
9世紀、空海の弟子・宗叡が武蔵国貝塚
(現・千代田区麹町および紀尾井町あたり)に建立した
光明寺が前身といいます。
その後、増上寺は、明徳四年(1393年)、
浄土宗第八祖酉誉聖聰(ゆうよしょうそう)上人によって開かれました。
関東における浄土宗教学の殿堂として
宗門の発展に寄与。
貝塚から、一時日比谷へ移った増上寺は、
江戸城の拡張に伴い、
慶長3年(1598年)、
家康によって現在地の芝へ移されました。
風水学的には、寛永寺を江戸の鬼門である上野に配し、
裏鬼門の芝の抑えに増上寺を移したものと考えられています。
山号は三縁山(さんえんざん)。

境内の図。


三解脱門

増上寺の表の顔。
東京都内有数の古い建造物であり
東日本最大級を誇るこの門は、
中門にあたり(表門は大門↓)、

煩悩から解脱した覚りを開くための
三種の修行「空門」「無相門」「無願門」の三門を三解脱門といい、
この門をくぐると、念仏を称えて阿弥陀様と親しく近しい縁を結び、
「むさぼり、いかり、おろかさ」といった煩悩から解脱すると言われています。
国の重要文化財に指定されています。

三門をくぐり、煩悩を解脱して、大殿へと向かうと、
ご本尊である阿弥陀仏が鎮座し、
大門から大殿本堂に至る道程は、
穢土(えど・我々の世界)から極楽浄土に至る世界を表しています。

大門から三門・・約108間。三門をくぐり108の煩悩から解脱します。
三門から大殿・・距離にして約48間。阿弥陀仏の48願。
参道から大殿前に至る階段・・18段。阿弥陀仏の本願、第18願。
大殿に登る階段・・25菩薩を表し、25段の階段となっています。

水盤舎

もと清揚院殿(家光公三男・綱重)の御霊屋にあったもの。
徳川家霊廟建造物として現存する数少ない遺構のひとつです。
昭和53年、現在地に移築されました。

鐘楼堂(しょうろうどう)

寛永10年(1633)年の建立ですが、
現在の鐘楼堂ほ戦後に再建されたものです。
鐘楼堂に収められている大梵鐘は、
江戸三大名鐘の一つに数えられています。
朝と夕べ、2回撞く鐘の音は、時を告げるだけではなく、
人を惑わす108の煩悩を浄化し、
人々の心を深い安らぎへと導く6度の誘いでもあります。
江戸時代の川柳には
「今鳴るは芝(増上寺) か上野(寛永寺) か浅草(浅草寺) か」
「江戸七分ほどは聞こえる芝の鐘」
「西国の果てまで響く芝の鐘」
等と謳われ、庶民に親しまれました。

その他、いろいろなモニュメントがあります。

大殿(だいでん)

昭和49(1974年)年、
大本山の念仏の根本道場として、
あらゆる儀式法要が行えるよう斬新な設計と意匠で、
戦災に遭い焼失した本堂が再建されました。


本堂のご本尊阿弥陀如来(室町期製作)は、
両脇壇に高祖善導大師と宗祖法然上人の御像が祀られ、
参拝される方々の厚い信仰をあつめています。

法然上人(ほうねんしょうにん)は浄土宗の開祖。


浄土宗は、
「救いは念仏を称えることで得られる」という
「専修念仏(せんじゅねんぶつ)」を中心とする教え。

↓本殿脇にある法然上人の幼少期の像。

大殿の扁額

大殿から見た三門。

増上寺宝物展示室

平成27(2015)年、徳川家康公の没後400年を記念して
本堂の地下1階に、宝物展示室を開設しました。
英国ロイヤル・コレクション所蔵の「台徳院殿霊廟模型」の他、
増上寺所蔵の宝物を展示しています。

これがその模型。

今展示しているのは、五百羅漢図

1枚に5人の羅漢が描かれ、
100枚で500人の羅漢。
10枚でずつ入れ替えて展示しています。

入場料は700円。

将軍家霊廟500円とまとめて買うと1000円になります。

仏舎利

インドのマハボディ寺院から贈られた
釈迦三尊(釈尊、ラーフラ尊者、アーナンダ尊者)の御舎利が、
地下ラウンジにお祀りされました。

篠田桃紅「四季」

光摂殿(こうしょうでん)

平成12(2000)年、「心を洗い、生きる力を育てる」ための
講堂、道場として完成しました。

増上寺会館(寺務所)

増上寺会館の老朽化に伴い、
法然上人八百年御忌に向けた境内整備事業の一環として、
平成11(1999)年に建立されました。
寺務所機能のほか、大食堂や和洋2種の各個室は
参拝や法事、研修や修養会で来られる多くの方々に利用されています。

安国殿

戦災で焼失した大殿の代わりに仮本堂としていた建物を、
昭和49(1974)年、新大殿完成の折りに境内北側に移転し、
御堂「安国殿」としました。


「黒本尊」といわれる
室町時代の恵心僧都作とされる秘仏の阿弥陀如来を祀っています。


正月15日、5 月15日、9 月15日にのみ開帳されます。

西向聖観世音菩薩(にしむきせいかんぜおんぼさつ)

鎌倉時代、執権・北条時頼公が
観音山(現:東京タワー)に辻堂を建て、
鎌倉街道(現:六本木方面)に向けて安置した石像の観音様です。

江戸時代、増上寺は徳川家の菩提寺として隆盛の極みに達しました。
六人の将軍の墓所が設けられています。

鋳抜門

本来家宣公の墓前にあった鋳抜き(鋳造)の中門を入口の門とし、
内部に各公の宝塔と各大名寄進の石灯籠が配置されています。

四菩薩像

入るのは、ここから。

改葬され、整然と並んでいます。

二代秀忠公、

六代家宣公、

七代家継公、

九代家重公、

十二代家慶公、

十四代家茂公の各墓所。

その他、側室の墓所もあります。

歴代将軍は、
日光東照宮、上野の寛永寺、芝の増上寺、谷中霊園の4カ所に埋葬されています。

初代家康 日光東照宮
二代 秀忠 増上寺
三代 家光 日光東照宮(輪王寺)
四代 家綱 寛永寺
五代 綱吉 寛永寺
六代 家宣 増上寺
七代 家継 増上寺
八代 吉宗 寛永寺
九代 家重 増上寺
十第 家治 寛永寺
十一代 家斉 寛永寺
十二代 家慶 増上寺
十三代 家定 寛永寺
十四代 家茂 増上寺
十五代 慶喜 谷中霊園

家康、家光、慶喜以外の12人の将軍たちは
なぜ寛永寺と増上寺に分かれて埋葬されているのか。

徳川家は元々浄土宗だったのですが、
家康、秀忠、家光は天台宗に帰依していました。

家康は自分が死んだら
「静岡にある久能山に葬ってくれ。
そして一年後に日光に移してくれ」
という旨の遺言を残しました。

家康は死後神格化する為に日光に祀られ、
二代秀忠は天台宗に帰依していたものの、
徳川の菩提寺である浄土宗の増上寺に埋葬され、
三代家光は深く天台宗に帰依していたので寛永寺を作り、
法要を寛永寺で行った後、
日光へと移され天台宗のお寺、
輪王寺へと埋葬されました。

家光による寛永寺建立、天台宗への帰依の流れを受けて、
四代家綱、五代綱吉は寛永寺に埋葬されました。
これにより寛永寺は正式に徳川家の菩提寺となりました。

これに怒ったのが増上寺。
いろいろあって、
それでは交代に埋葬しましょうということになった次第。

大殿の後ろの橋を渡って、

貞恭庵(ていきょうあん)

十四代将軍徳川家茂公御正室、
皇女和宮ゆかりの茶室です。
「貞恭」とは和宮の法号から名付けられています。

圓光大師堂(えんこうだいしどう)

元祖法然上人八百年御忌を記念し、
平成18(2006)年、知恩院より法然上人御廟の御浄砂を拝領しました。
この法縁を承け奉安する御堂の建立を発願し
「圓光大師堂」として平成21(2009)年9月に竣工。
                                        大納骨堂(舎利殿)

昭和8(1933)年に建立され、
ご本尊は高村光雲氏作をもとにした地蔵尊像。
増上寺に有縁無縁のご本骨、ご分骨が収められています。

三解脱門の西にあるのが、黒門

昔、増上寺方丈の表門であった旧方丈門です。
三代将軍家光公の寄進・建立とされ、
慶安年間(1648~1652年)の建立とされています。

慈雲閣(じうんかく)(開山堂)

黒門の中にあります。
平成元年(1989)増上寺開山・酉誉聖聰(ゆうよしょうそう)上人の
550年遠忌記念事業の中心として、
戦災で焼失した開山堂の再建を企画、建築されたものです。

経蔵

内部中央に八角形の輪蔵を配する、
九間半四面、土蔵造りの典型的な経蔵で、
都の有形文化財に指定されています。
中に収蔵されていた宋版、元版、高麗版の各大蔵経は、
家康公が増上寺に寄進したもので、
国の重要文化財に指定されています。

土木建築殉職者の慰霊塔

熊野(ゆや)神社

三解脱門の東にあり、
元和10(1624)年、
当寺第十三世正誉廓山上人が増上寺鎮守として東北の鬼門に勧請したものです。

浮世絵に描かれた増上寺。

想像以上に大規模な増上寺。
もっと早く来るんだった。