まさかり
夏の正午
キハダの大木の下を通って
左へ曲って
マツバボタンの咲く石垣について
寺の前を過ぎて
小さな坂を右へ下りて行った
苦しむ人々の村を通り
一軒の家から
ディラン・トマスに似ている
若い男が出てきた
私の前を歩いていった
ランニングを着て下駄をはいて
右へ横切った
近所の知り合いの家に
立ち寄った
「ここの衆
まさかりを貸してくんねえか」
永遠
詩というと西脇順三郎。バッグの中に入れておきたいものが、その詩を読める文庫本、他の本。「宝石の眠り」は未刊詩集だったもので1963年に西脇順三郎全詩集が刊行された時に入れられたもの。この「まさかり」もなんとも言えず彼のものらしさがあって印象に残る。ウェールズの詩人ディラン・トマス(1914~1953)のイメージが出てくるのもそうだし、新潟弁も味を与えてくれている。というよりそれがあるから同県人の私には印象深いのかもしれない。この「ここの衆」は、「ここのしゅう」ではなくて新潟弁では「ここんしょ」。順三郎さんも表記の仕方を考えた筈。新潟弁では、「ここんしょ、まさかり貸してくんねえか」。彼は小千谷(おじや)の出身で、私はすぐ隣の地域の出身。だから彼への親近感も強い。この詩集の中にもう一箇所、新潟弁の言い方として出てきているものと思えるところがある。そしてそれは知らない人にとって捉えがたかったりするのでは? そんな部分。
「ローマの休日」という130行以上の長い作品の中にあるこんな部分
黄色いキウリの花が咲いて
いるだろう
女は
「いいてえ」といっているだろう
河原に流れてきたアカシヤが
とげを出して砂利取りのトラックが
休んでいるだろう
「いいてえ」と女が言っているという部分。「いい」ということでgoodという意味にそのままとれれば良いけれども、「いいてえ」と訛りの言葉に変じているところで分かりにくくなっているということと思う。いずれにしても何に対して言われているのかは不明、だが順三郎さんの生まれた地方に深く関わる訛りの言葉がある。それが何かそこの空間ならではの地方的イメージを何かわからないままに通りすがりのように喚起する。彼の作品の中ならではの言葉のタッチの中で。
最後の言葉、「永遠」はもう彼の世界では不可欠のしるしとして置かれるべきもの。時空を超え向けられ繋がる現在現実イメージ。現在の中の永遠。永遠の中の現在。ということは途方もなくかけ離れた意味を持つそれぞれの言葉もまた、その間に距離はなく同じ次元で繋がり合うものと捉えることができる。順三郎さんの詩を読んでいてのたのしみは途方もなく遠い言葉の隣り合わせに触れること。イメージを味わうこと。その数行を読むだけで満足して本を閉じることもある。