言葉による音楽的な日々のスケッチ

作曲講座受講日記と、言葉による音楽的日々のスケッチを記録

メロディーの向かうところ

2006-05-12 01:38:33 | 映画美学校音楽美学講座:高等科
2006年5月10日 水曜日 音楽美学講座

ここのところ梅雨みたいな天気が続いてる。
とても、太陽と乾いた空気が恋しい。

今朝、自転車のサドルにペタペタと
ベージュ色の小さいあしあとが付いていた。

腰掛けると、ほんのり寂しげな猫の匂い。
猫になって駅まで自転車を漕いでる気になった。
猫バスならぬ猫チャリ、、
すみかのない猫が前のかごに
小さく丸めてあるタオルにくるまって
ひっそり夜を過ごした移り香かもしれない。

北に住む妹から桜が満開という便りをもらう。
ここのところの雨のせいで五月晴れという言葉が
東京から消えてしまいそうな今日、梅雨のない
北海道の乾燥して透き通った空気を思い出した。

さて。連休を挟んで3週間ぶりの講義

お題は「メロディー」

前回に引き続き、楽曲分析の題材は
スティーヴィーワンダーの
「Knocks me on my feet」

これもバカラックの「雨にぬれても」に続き
多数決によって僅差で勝ち取った(笑)楽曲。

学校に行くと菊地さんが
前の仕事の関係で30分程遅れるとの情報が入る。
菊地さんが来るまでジャン・ソオル・パルトルが
登場する物語を読んで暫し待つ。

菊地さんグリーンのジャージを来て登場。少し痩せられた?
全体的な輪郭がシャープになっていて何だか素敵。

スティーヴィーを聴きながら
メロディーについてバークリーメソッドを踏まえつつ
楽理の一般論で説明されていく。

<メロディー>はそれに付随するコードに牽引される
というのが一般的な理論だ。

しかし、今回はカウンターバークリーである
LCC(リディアンクロマチックコンセプト)の理論を用いて
説明がなされた。アンチバークリーメソッド。
無知な私にも、とても興味深く新鮮な内容だった。

菊地さんは100%採用し難いとしながらも
その「なるほど感」について共感出来るような説明がなされた。

LCCの考え方はメロディーを
ヴァーチカル→垂直=VTG
ホリゾンタル→水平=HTGと定義する。

垂直をメロディーに付随しているコードと捉え
それとは別に水平の捉え方では
「メロディには(音楽を推進する上で)メロディ固有の力がある」と定義している、とのことだった。
寝不足でうとうとしかけた私のアンテナが
にょきにょきと伸びる。私も先のピアノレッスン日記で
和声の水平性と垂直性について書いていた事と比較しつつ。

この定義を踏まえてスティービーの素敵にポップな曲の
メロディーをフラグメントに分けて
どこに「グッときたか」を
菊地さんに訊かれて生徒達が挙手する、、、
これ、楽しい!菊池さんに精神分析を受けている気分(笑)

菊地さんも生徒それぞれの嗜好がよくわかるらしく
ある程度、統一性があって傾向化されていて面白い、とのこと。

こうしてメロディーを区切って細分化して
自分の嗜好性を強化して再認識するのは作曲には
重要だ、と仰った。
ただ、本格的に追求していくと、残念ながら
その曲の魅力が薄れていくのも事実だ、と。

何とも切ない話。魅力的で知りたかったその曲を
深く知れば知るほど輝いていた魅力が薄れて行くなんて。
ただ、そのことは蓋然的だった音楽の存在が
必然に変化して行くことに近い。その時点で
音楽は一時凌ぎのものではなくなる。

輝いていたメロディーも理論分析を極めれば
記号化されてしまう。確かにそのことは、
現時点でも多少感じ始めてきている。

でも、不思議なことに、従来あったような
多幸感に溢れた音楽の輝きが薄れていく分
自分の中で響く音楽が少しずつ色づいてくるような
感覚が時々おこる。

たぶん、もう自分が趣味的な
オーディエンスではなくなったのだと
変化を喜んでも良いと思う。きっとこの現象は
音楽の喜びが消えることではなくて
より音楽に近づいたことのようにも思えるから。
そして新しい音楽との出会いの喜びは今後も無限に続く。

同じ音楽を聴いていても…
例えば同じ風景を誰かと一緒に見ていても
感じる事や目線の動き、捉え方などが違うことと同じく

きっと誰もが同じ様にはその音楽を聴いていないだろうと
漠然と考えていたのだけど、今回の講義で
メロディーをフラグメントに分けて
生徒たち各々の嗜好性の差異を感じる事によって
その考えは濃くなった。

自分が思いのほかメロディーに対して
好きと感じるところと、そうでないところが
明確だということを知る。

自分ではあたりまえのことも一般的には
そうでもないことはあって、そのことは
こうして第三者に言われないとなかなか気がつかない。
特に感覚的なことは、、、

何度か日記に書いているテーマ
「音楽の物語性」でも触れているように
(今回のスティーヴィーの曲みたいに)
2回同じフレーズをリフレインする場面でも
2回目は1回目とは同じに聴こえない場合がある。

1度目は「良い」と思わなくても
前後関係のイメージを持って聴くと
2度目は違って聴こえてきて「良い」と思う場合も当然ある。

そういうプレゼンテーションが好きなのだと思う。
2度目に同じフレーズが鳴っていても
1度目とは違うニュアンスで聴こえるような音楽を。


<モードチェンジ>について。

初等科で詳しく触れられなかった
マイナー(ダイアトニック)上のモード
つまりマイナーコードに立ち上るモードの特性について
触れつつ、興味深かったのは、いわゆる
「ドレミファソラシド」の中のファには
実は2つの異なるファがあって
もう片方は#ファ、ということだった。
(これは増4度で最も不協和な音)

このことには作曲の過程で経験的に心当たりがあった。
確信がないのでここには詳しく書かないけれど
この事もとても興味深い内容だったので記しておく。

菊地さんは次回の楽曲分析の予告をされた。
これは何と私が先日の日記で触れた
ある音楽家の曲だった!
何て素敵なシンクロニシティ(笑)

何故か菊地さんが訪れたCDショップに
ことごとくWetherReportのものがなかったという事で
ラッキーなことに!発売前の菊地さんのソロに入っている
「プラザリアル」を聴いた。

聴いて30秒ほどして、或る心的、身体的症状が
久々に起きる。

以前日記に書いたことがあるけれど初めて聴いた音楽に
「音楽そのものが持つ純粋な運動」としかいえないような
音楽的美を感じた時に感情と関係なく
勝手に涙腺が緩む癖が私にはあって、
それが久々に起こった。

目の前の菊地さんが吹いているサックスで
曲の主題が始まったせいもあるのかもしれない…

「その音楽には霊気のような何かが、説明しがたい何かが、
完全に官能的な何かがあった。
肉体から離脱した純粋な状態での官能があった」※
(※ジャン・ソール・パルトルが登場する物語より引用)

内心「なんてなんて美しい音楽…」と
目の前の菊地さんに言いたい気持ちになったけれど
皆がとてもクールな面持ちだったので
大人の振る舞いとして興奮的表現を差し控えた(笑)

でも、これがライブだったらダンスしたかった。
菊池さんの発売前のソロ作品を皆で聴いてるという
とても豪華な生徒の特典なのに
どうして皆こんなにクールでいられるの!?

いや、たしかに全員が感激を表現するのも
どうかと思うけど(笑)学習の場だし…
ただ、こんな時はよくラテン人だったらいいのに、と思う。
そうしたら、こんな素敵な音楽を聴かせてくれて
ほんとにありがとう!とハグを思う存分することでしょう(笑)

いつか、ブラジル辺りで周りが全部ブラジル人の中
屋外でサンバやボサノバを聴いてみたいと夢想する。
夜通し踊ってしまいそう…

目から勝手に溢れる塩分を含んだ水分を出さないべく
感情の形を変えていたら自分の姿かたちや
教室の色や形までも変わったような気がしてきた。

先述の物語の言葉を借りるなら
『音楽の効果で部屋の隅々が姿を変えてきて
まるみをおびてくるのだった』※
そして「どんなふうにこの部屋へはいってこれるかしら、
こんな形をしているお部屋のなかに」※



菊地さんの説明によると
○○氏の曲は、やはり
バークリーメソッドの楽曲分析で多用されるそうだ。

興味深く印象的だったのは、彼の音楽は特別で
同じメロディーでコードが変わったり
抽象的で複雑な展開に聴こえながら
突如として美しいメロディーが現れて
中盤以降はそのメロディーが強調されるも、
そこに付随するコードの全ては
それまでのものとは違う…といったような内容だった。

ときどき、夢の中とか聴覚的なイメージの中で
短く強く聴こえる、とてつもなく美しい音楽があって
(一度も音楽に表せた試しがない…)

今日聴いた菊地さんのソロアルバムのこの曲に
その感覚に近い質感を感じた。
これはきっと私が知りたくて知らなかった音楽だ。


以前書いた日記
<メロディーの因果律>を再び引用

「理由があってそうなっていること、というのは音楽にもある」
と以前の特別講義で外山明氏が言っていた。

また、音楽の機能として曲の終わり以降に起きる
「未来」のことはある程度予測可能だけど
演奏以前に起きたであろう「過去」を想像するのは
困難だと講義で菊地さんが触れたこともある。

そんなふうに音楽を逆行的に想像出来る人は
ある意味天才的だということだった。
何だかファンタジックな話だなと印象に残っていた。

たしかに何度も聴きたくなる曲には
何故そうなったんだろうと考えさせる魅力的なフレーズがある。

高い所から美しい風景を見渡したくなるように
全曲を通してそれを俯瞰するみたいに
何度も最初に立ち戻って聴き始めたくなる。
そして、またその部分に至るまでの様子を確かめる。
これはたとえば画家が絵から離れたり近づいたりして
また描いていく、という作業に似ていると思う。

心が動くフレーズは、感情を操作する
音の修辞的技術から生むことは可能だけど
聴き手はテクニックに感動してるわけじゃない。

目の前で響く音のアンサンブルが
技術や作り手の作為から完全に独立していて
その時「音楽」自らが自由な運動をしている。

で、初めて聴いた曲がそんなだった場合
感情と関係なく涙腺が緩むことがあるのは
「音楽そのもの」というような存在が
別の次元から立ちのぼってくるのを感じるからだ。

音楽はこうして、ほんの数秒間の短い出来事なのに
言葉で表現不可能な忘れられない何かを残して
駆け抜けて行く。今はまだその残った何かの痕跡を
音で辿ることしか出来ないんだけど、
そんな表象的なことを表現するのに楽理は雄弁なのだった。


※部分はボリスヴィアン『日々の泡』より引用











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