laisser faire,laisser passer

人生は壮大なヒマつぶし。
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まとめて面倒見よう!

2016-08-30 | kabukiza

個別に立てたり、項目すら立てなかったりで計数回は見た八月納涼歌舞伎。それぞれの感想は初回とそこまで変わっていないので、この項目でまとめて感想書くことにしました。はい、手抜き&すでに忘却の彼方ゆえ。

まとめちゃったのでいくら忘却とはいえかなり長くなりました。長文ご容赦。(楽日の翌々日、30日記)

 

一部

(粋じゃない、なんて粋じゃないね)

一部自体、一回しか取ってなくて、山姥はパスでした。11時開演はブラジル時間で過ごしているときにはきつい。

権左と助十

どうしてもこの演目だと劇団のもの、特に菊五郎三津五郎と比べてしまうのはしょうがないよね。
巧い下手ではなくて、こういうザ・世話物ができる役者が少なくなったなあ、と。これからどうやって江戸の粋・風情を体現できる役者を育てるのだろうか。
少なくとも今回の染五郎獅童のは、私が思う世話物とはまったくの別物だったな。

つまらないわけではなく、それぞれに芸達者なので、芝居としては成立してるんだけど、それは、単なるお江戸風コメディーなんだよね。

それは壱太郎についても同じことで、江戸の中に混じった上方ものというにおいがまったくしない。器用に上方訛りは操っているけれど、これまた「上方風役者」としかいえなくて。江戸前が絶滅危惧種だとすれば、上方はもはや絶滅しちゃってるんじゃ?と。(藤十郎さん竹三郎さん生きてるけどもう往年の芸は無理だからなあ)。 

いちばん感心したのは勘太郎の亀蔵。劇団でたいていこの役をやってるのは團蔵なのだが、比較すると、亀蔵のほうが屈折していて、寂しがり屋風。ただの悪者ではなく、酒もって来たとき、実は本当に仲直りしたかったのじゃ?と思わせる雰囲気を持っていて。なんだか権左と助十のほうが相手を「村八分」にする嫌みなやつに見えてしまったり。

これが、染五郎と獅童がザ・江戸前になりきってないせいのような気もします。

具体的にどこがどうと指摘もできずに江戸前じゃねぇ、ってぐだぐだいうのは、それこそタイトル通り、粋じゃないのでこの辺で。

 

二部

せいせいするほど、すっからかん)

外題忘れた、東海道弥次喜多ドタバタ

…これはひどい。
何がひどいって、タイトル通り、すっからかん。

くだらないお笑いものが悪いというわけではない。納涼だし、腹抱えて笑ってああ楽しかったという出し物があってももちろんいいと思う。

思うけれど・・・

とにかく、せっかく染五郎猿之助という若手芸達者が四つに組んでるのに、何一つ新しさも、冒険もないんだもの。
土台は定番東海道膝栗毛。ユーモア芝居は完全にドリフの逆輸入。楽屋落ちはそれぞれの身内話と、ワンピースや獅子王の当て込かみ。
そこに派手な映像と、舞台転換と、本水と、ちりばめて、最後に宙乗りつけて、ちょちょいのちょい、金だけかかるけど頭は使ってない。
「八月の客」なんざこれで大喜びだろ、というのが透けて見えちゃって・・・ああばからしい。
物語としてすら、途中まで狂言回しで大活躍していた弘太郎の読売が消滅いてそれっきり(アマテラス特急に振り切られたということなんだろうがw)とかあまりにいい加減な仕上がりで。 

実際、大喜びの客がそこそこいるのもそら恐ろしい。日本人の民度・・・みたいな大上段の話までちらっと頭をかすめてしまった。
これからの大歌舞伎をしょってたっていくだろう若手がこんな手抜き芝居をやってていいのだろうか。
唯一救いというか希望だったのが金太郎團子コンビ。次次代を担う二人が、けなげな道中姿を見せてさわやかだった。 

個人的には最後まで大好きにはなれなかった勘三郎だけど、それこそくだらない芝居もいろいろやってたけれど、これに比べたら常に「勝負!」してたよなあ、と改めて 大きな存在だったと確認してしまう結果になりました。

 

紅かん

 

弥次喜多が納涼の新勢力?中心の座組なのに対して、こちらは勘三郎の手下たちwを中心にした舞踊。
典型的な江戸風俗舞踊なのだけれど・・・ここでもまた、江戸前を表現できる踊り手不足を痛感。
いちばんましな勘九郎の朝顔売りですら、どうも粋が、ではなくて活きがない。彌十郎が江戸前とはほど遠い客だから、というわけではなくて、やはり、勘九郎自身の疲れあるいは気力不足からかなあ。特に初日は生彩を欠いていた。楽はこれで終わり!という気分からか、朝顔売りの楽しさが伝わってきたのでちょっとほっとした。
長い長い仕抜きの橋之助による踊り。歌舞伎の演目のもじりなども入って、十分楽しい場面であるはずなんだけど・・・ちっとも楽しくない。
姿もすてきだし、踊りも下手じゃない。なんでここまで退屈なのか・・・退屈しのぎにいろいろ考えてみたけれど、どうしてもわからない。
以前の橋之助は、自分だけが楽しそうで客に伝える気がないんじゃないか、と思われたのだけれど、さすがに50づら下げていまだにそんなことはないと思うし。
この人の、役者としての素質と、人気のなさのアンバランスは本当、私にとって永遠の謎だわ。

最後の総踊りで、ようやく勘九郎のめざましい切れのある動きを堪能してちょっとだけほっとした。

…というわけで、ほーら、本来の納涼の仲間のほうがずっと内容よかったでしょ!と胸張れる内容でもなく。 
あーあ。

 

 

三部

(父になり、父から巣立つ)

結論から言えば三部だけで今月は十分だった。(山姥見てないので、そこはスルーで)。

 

土蜘

間狂言と後シテ「は」受けていた。まあよくできた芝居だから、後半は誰がやってもそこそこ盛り上がる。
問題は前シテ、特に胡蝶と智躊(こんな字だっけ?ま、いいや)。
胡蝶ってよく考えると前シテの中の間狂言というか箸休めだよね。別に出てこなくて物語は成立する。
それだけに、際だって美しい、とか際だって舞がいいとかないと、絶対退屈する。で、今月の扇雀にはどっちもないから必然的に客席には眠りの精が訪れる仕掛けに。あたしゃ寝ませんでしたけどね。本当だよw扇雀さん踊り巧くなったなあとちょっと思った。まあ退屈でしたけど。
太刀持ちの團子が所作もきれいで台詞も(初日はとちってたけどw)きちんと時代になっていて、実に巧い。巧すぎていわゆる「子役風」なのはいいのか、悪いのか。まあいいんでしょう、器用なのがここのおうちの芸風。

問題の智躊。花道の出、一切気配を見せなかった勘九郎とどうしても比べちゃうのだが、所作板がきしんじゃうのはまあ本人の責任ではないとしても、なんだかとても普通。怪しさも恨めしさもなーんも感じられない。
本舞台にたどり着いてからも、とっても普通で、本当にこの坊さん、快癒祈念に来たんじゃないの?と思っちゃう。
ま、そのほうがいきなり糸撒いたときの驚きが強いので計算かも、って絶対違うし。

というわけで退屈をしのいで前シテが終わり。

待ってました!の間狂言。

今月唯一の、どころか何年ぶりか?の猿勘連れ舞。…を楽しみにしてたんですけど。
その場になったら、3歳幼児に、目を奪われてしまい、初日はほとんど猿勘見てませんでした。「子供と動物には勝てない」って本当ですなあ。
 

三部は三回見たのですが、のりゆきに関しては、初日がいちばんよかったかもw
すごく楽しそうにゆらゆら揺れて、足や手で拍子取っていて。動きすぎてお面がずれそうになって、後見のいてうくんが必死で支えてたw
二度目は、動いちゃだめといわれたのか、とてもおとなしくて安心して見ていられたけれど、つまらなかった。ま、そのおかげで父ちゃんたちの踊りも見られましたが。
三度目、楽はちょうと中間。適当に踊りながら、落ち着いて間合いもとれていた。
ただ・・・一ヶ月でもっと台詞は進歩するかと思ったんだけど。進歩なかったなあ。w
声が小さいのはしょうがないとしても、きっと、台本知らない人にはまったく伝わってなかったんじゃないかなあ。

「それ知られたら百年目」「許させられい、許させられい」 

それしゃーたら○×えんめ   しゃらーい、しゃらーい

と聞こえましたよw

いやいいんです。かわいいからね。だけどね。だけどね。野暮なおばちゃんでごめんね。

 

後シテで感心したのは国生。まあ四天王が子供ばかりだったので一つ頭抜けてたってのもあるんだけど、声がちゃんとできあがって、線の太いいい立ち役になりそうな気配が。ひょっとすると父親よりいいかも?w

いや、父親も10月に偉大な名前を継ぐのだからそろそろ大化けしてくれることを祈りたい。芝翫の名前で下手なことやったら許さん!

 

山名屋浦里

 

私の八月を返せ!ともう少しでいいそうになった今月の歌舞伎。

最後の最後に、オリンピック寝不足でも来てよかった!と思わせてくれる芝居に出会えました。本当、これがあってよかった。

吉原で実際にあった話をタモリが掘り起こし、鶴瓶が落語にし、それを見た勘九郎が、歌舞伎にしようと即決。
かなりのとんとん拍子で歌舞伎座にかかることが決まったらしい。

まあ、内容は大人のおとぎ話というか、歌舞伎版ちょっといい話というか。軽いんだけど。

花魁と田舎武士の人情と奇妙な友情の話。
実話なのか、本当に?実話だとしてもかなり粉飾されてるでしょ?と思うのは世間ずれした汚いおばちゃんのゲスの勘ぐり。
嘘みたいな話に真実味を与えてるのは、勘九郎演じる田舎侍の人間性。野暮天と四角四面の融通の利かないやつ、と思われてもしょうがない人物像なのだけれど、ぎりぎりのところでピュアなまっすぐな人間に見せている。
七之助の浦里もまた。ただきれいなだけの花魁ではなく、中にピュアな田舎娘の魂を持ち続けていたことを、ちゃんと感じさせてくれる。

これ、役者がだめだと、とんでもない嘘くさい話になってしまうところを、中村屋兄弟が実にはまっていてぎりぎり切り抜けたんだと思う。

兄弟の当たり役って、鰯売りとか仇夢とかこれまでもいろいろあったし、籠釣瓶なんかもそうなっていくのだと思うけれど、父親がやっていない芝居での兄弟の当たり役、見つけたなあと、勘九郎に拍手送ってあげたい。
天日坊もそうではあったけれど、あれはクドカンと串田作品を勘九郎と七之助が見事に演じた、という形だったけれど、
今回のは勘九郎が見事に自分たちに合った題材を見つけて、歌舞伎座に掛けるところまでもって来た、というところが大きく違っている。

まさに、次男の初お目見えをプロデュースした土蜘で、「父になり」

親とは違う、兄弟の当たり役をプロデュースしたこの作品で「父から巣立った」のだと思った。


そしてまた、次の世代へ受け継ぐ新しい「家の芸」にこの狂言がなっていくといいなあ、とも。気が早すぎるけど。

おまけ。終演後の集合写真。やっぱりタモさんすてきw

(S雀さんのブログより拝借しました。ありがとうございます)

てか今気づいたけど、なんでシド君と香川君がいるんだ?w