倉野立人のブログです。

日々の思いを、訥々と。

青木島遊園地存廃問題 =一部の者の都合に翻弄される〝エンドユーザー〟=

2023-04-20 | 日記

未だ大きな社会問題となっている「青木島遊園地存廃問題」ですが、遊園地の利用者 とりわけ児童の「心」をないがしろにしたままに進められた原形復旧工事は、工事開始から僅か3日間で 植栽や樹木などの上物があらかた撤去されてしまいました。

 

 

 

ついこの間まで 子どもたちの笑顔が見られた青木島遊園地は、もはや ただの更地(さらち)と化してしまったのです。

 

 

 

あれほどすったもんだした経過を踏んだのに、廃止が決まった(決めた)後の市の〝仕事〟は早いの何の。

〝逃げ足〟とでも言いたくなるような素早さで、児童が見ていようがいまいが お構いなしの様相で、一気にぶっ潰していった感です。

 

児童センターに子どものお迎えにきた保護者さんらは、この〝荒野(こうや)〟と化した遊園地(だった)敷地を見て、一様に言葉を失なっているとのことです。

中には「酷(むご)い…。」と口を手で覆い 嗚咽(おえつ)する人もいるそうです。

言葉にできない虚無感に覆われるところでありました。

 

 

一方、遊園地に隣接する青木島児童センターの窓には、大きな文字で掲示物が掲げられていました。

 

 

 

他でもない、去る14日の〝最後の遊び〟の日に 遊園地に感謝の意を伝えようと準備したものの、児童センターを管理運営する長野市社会福祉協議会の職員(指導主事)の「待った」によって掲示を拒まれた「ありがとう」を記した掲示物です。

 

 

 

最後の最後に行なわれようとした記念の行動が 本来は児童福祉向上を果たすべき内部の職員によって阻まれ、無垢な児童らは「どうして?」の思いを最後まで抱かせられたまま遊園地に別れを告げなければなりませんでしたが、その無念さを慮(おもんばか)った支援員さんが市社協と談判し せめてものこととして遊園地に向けて感謝の言葉を掲示することになったとのことです。

 

 

 

なぜ あのとき、児童の純粋な思いに水が差されなければならなかったのか。

その〝一部の大人の見解〟を児童に押しつけた行為に大きな疑問を抱くと同時に、そのことについて「こちら(大人側)が正しい」と決めつけて(ありがとうの)掲示を許さなかった市社協の それも指導主事の了見は今も理解できません。

 

 

 

その後 既に工事が始まってしまったことから、週明けに遊戯室(体育館)でプラカードと共に全員写真を撮り直したとのことですが、本来であれば 青空の下、遊園地が現存しているうちにそれ(一緒の写真)を行なうところだったのに…残念極まりないところであったでしょう。

 

 

・・・・・・。

いつも泣かされるのは「エンドユーザー」です。

例えば 今回の青木島遊園地存廃問題におけるエンドユーザーは 他でもない「子どもたち」です。

大人同士のすったもんだで居場所を奪われ 利用を制限され、それが あたかも子どものせいであるかのように言い訳の道具にされ、あげくは 存続を匂わせながら実際には廃止の道が決まっていて、最後には目の前で遊園地がぶっ潰される様子を見せつけられる理不尽。

で せめて最後に感謝の思いを伝えるだけの行動を、大人の屁理屈で阻(はば)まれる理不尽。

 

また例えば、このことについてブレーンのMくんは この状況を「障がい者支援事業」にも重ね合わせます。

本来は障がい者の待遇を向上させ 工賃(時給)アップを図るための障がい者施設が、いわば〝職員のための施設〟と化し、障がい者(利用者)さんは低劣な状況に留め置かれたまま いわば施設(事業)を維持するための存在にさせられている現実。

一部の運営主体(者)のために、本来は主役であるべき存在のエンドユーザーさんらが泣かされるような社会構造は「おかしい」としか言いようが無い。

 

遊園地は更地になっても、この問題は終わりにはなりません。

イヤ、むしろ これからが始まりと言えると思います。

今回のことで 改めて見えてきた長野市行政の問題点を改めて検証し、次へと活かしてゆかなければ 児童らの無念は浮かばれるものではありません。