森の空想ブログ

「九州派」 カッコイイぜ。/Frashback九州派の閃光(2) [空想の森から<25>]



「Frashback―九州派の閃光―」が始まった。(9月30日まで)
会場は、私の画室を兼ねている二階の企画スペース。
昨日一日かけて展示を終え、静かに会場空間を見渡した時の印象は、
「九州派、カッコイイぜ」
だった。
これは私にとってある意味では意外とも思える感想であった。


・展示風景

九州派とは、1950年代後半から1960年代へかけて、九州・福岡を拠点に、東京=既成画壇に殴り込みをかけると言って暴れまわった荒くれ美術家集団であった。私は60年代後半から70年代へかけて絵の勉強を始めたから、少しのずれがあっても同時代を体験したということも出来る。が、アスファルトを道路にぶちまけてそれが「芸術」と主張したり、グループ展の片づけを終えたゴミを梱包し小便をぶっかけて東京のアンデパンダン展に送りつけたりというような、「反芸術」「芸術表現行為」は、一世代前の先輩方の武勇伝としては伝わっていたが、その活動期は既に終えていたから、個別の作家たちとの深い交わりはなかった。そして、その一般的な評価は、「所詮は手で描けないヤツラの反抗であり、反社会的パフォーマンスであった」といった扱いであり、いわば変人集団を見るような視線であった。当時は、「日展」を頂点とする「団体展」の全盛期であったから、アカデミックな集団の側から見れば当然の見方だっただろう。私たち、地方の美術愛好家、アマチュア画家などは団体展への出品を生涯の目標とし、巡回してくる展覧会が数少ない勉強の機会であった。
だが、それから半世紀が過ぎ、私はこうして、当時20歳代だった若者たちの作品を、再開された「由布院空想の森美術館」の自室を兼ねた展示空間で見る機会を得たのである。それは、第一期の空想の森美術館の時代に出会った「九州派」の作家たちとの交流がもたらした果実であるともいえよう。アートギャラリー付き特急列車「ゆふいんの森号」に乗り込みシンポジウムをしながら博多から由布院へ向かい、由布院アートに関する数々の提言をして下さった菊畑茂久馬氏、空想の森美術館で個展をして下さった大黒愛子氏、尾花成春氏、大黒氏の夫で九州派のまとめ役的存在だった小幡英資氏など、多彩な作家たちが縁を結んでくれたのである。そしてその多くが、九州派解体後、作家として優れた創作活動を続けておられる実直でダンディーな紳士たちであった。


・大黒愛子:由布院の四季

2018年の今、こうして「九州派」の作品群を俯瞰してみると、それぞれが高い芸術的完成度と強烈な個性を併せ持ち、「作家」としても時代の先端を駆け抜ける技量の持ち主だったことがわかる。当時、幅をきかせていた「国展」の棟梁・梅原龍三郎はルノアールの真似だし、「独立」の林武は「フォーブ」のコピーである。デモクラート美術協会を率いて「前衛」のトップ集団を駆けた瑛九の初期はピカソ、晩年はカンディンスキーを下地とした。よその国の文化を移入し、醸成し、我が国独自の文化として育て上げるという技術は日本列島独自のものだが、真っ先に輸入し、真似の上手な描き手が時代の寵児となるという日本画壇の風潮は、明治以降、現代に至っても引き継がれていて世界の美術史の笑い話といっても過言ではないが、戦後の混乱期を抜けてきた画家集団もその時代の渦の中で活動したということだろう。
その中にあって、「九州派」の遺品ともいうべき今回の展示作品が、当時、異彩を放ち、さらには半世紀を経て「現代美術」の源流的仕事と位置づけられ始めているという事実は納得できる現象である。
時代は巡る。
その巡り、めぐる回廊のようなアートの時代性を、今回の展示によって居ながらにして確認できる場となったことは、意外な収穫というべきであろう。
「九州派、カッコイイぜ」
という感想は、的外れではないとも思う。



・桜井孝身「パラダイス」など


・菊畑茂久馬・オチオサム・尾花成春など

・菊畑茂久馬「二つの林檎」1977/シルクスクリーン 菊畑茂久馬氏は長崎県生まれ。「九州派」の中核メンバーとして活躍し、58年には第10回読売アンデパンダン展(東京都美術館)に出品。60年に「九州派」を脱退し、同年「洞窟派」を結成した。
61年には初期の代表作「奴隷系図」シリーズを開始。同年の「現代美術の実験」展(国立近代美術館)で発表した同名の作品は、金箔などを貼った2本の丸太を並べ、片方に男根状のものを突き刺して雌雄の対として象徴化し、そこに無数の新品の5円玉をばらまくオブジェ作品である。きわめて呪術的で土俗的な欲望が露わになっており、それまでの絵画作品における平面イメージの構築から、物質のもつ触覚性と事物のもつ実在感を、立体作品=インスタレーションとして表現した。この作品はスキャンダラスな評判を呼んで、既成の芸術観念を否定・破壊するネオ・ダダ運動や、「反芸術」ともいわれる、日本の60年前後の表現傾向を代表する作品の一つとなった。64年に「ルーレット」シリーズ、続いて「植物図鑑」シリーズを開始、日常を取り巻く事物の属性を切り離し、それらの単純化した記号性に注目していく。その事物の機能とイメージとの乖離(かいり)を、物体を三次元的に集積し、アッサンブラージュの手法によって表現する、「オブジェによる絵画」ともいえる方法を生み出した。それは個人の記憶や内省的思考が凝縮したものだが、表れた作品のイメージは「土着的なポップ・アート」といった印象がある。
60年代後半より大小のオブジェ制作に集中し、それを写真に撮りシルクスクリーンで版画化した作品集『天動説』を74年に出版。83年以降油彩を中心とした大画面の連作絵画「天動説」や「月光」「海道」などのシリーズを制作し、96年(平成8)に「天河(てんかわ)」を発表、以後シリーズの大作群を世に問う。これら大作連作はオブジェ作品や版画においても探求した、事物性とイリュージョン、また平面性とイリュージョンとの関係を、絵画の画面で総合させたものである。オブジェを平面に飲み込み、絵肌に吸収させるというオリジナルな手法は、高い評価を得た。現役作家としても活動を続ける九州派の生き残り的存在である。


・二階踊り場にて 小幡英資「玄海の濤音」F30号2点と小品が仮面や草木染めの展示と響き合う。


・九州派の関連書籍、資料など。筑豊の「サークル村」などとも連携し、文学者とも交流があり、多くの著作が残る。


・桜井孝身の著作「パラダイスへの道」とそれをもとにしたオブジェ。鉛や陶板で本を装丁した異色作。


・桜井孝身「鳥と少女」SMサイズの小品だが、高い完成度を示す。理論家としてグループを牽引した桜井だが、作家としても力量、先駆性も群を抜いていた。


・オチオサム「題名不詳」 小品ながら完成度の高い作品。オチオサムは1936年佐賀生まれ。「九州派」の創立メンバーとして知られ、前衛画家として活躍した。絵を描き始めた高校時代や岡本太郎が任された二科展第九室への出品、「九州派」結成から全盛期のリーダー的存在であった。


・田部光子「コラージュ」 「九州派」の旗揚げに参画して以来、約60年間、時代の最先端の美術を目指し、現代美術の第一線で活躍してきた。1970年の九州派解散後は「九州・現代美術の動向展」や「九州女流画家展」においてリーダー的活躍を続けてきた。

*展示されている作品の多くは、「九州派」解体後に制作されたもの。当時の作品はほとんど残されていないということ。9月2日と9月3日の記事の追記参照。

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