
宮崎→高千穂→日田へと向かう旅の途中で「箕<み>」を手に入れた。
竹を細く割り、黒葛(ツヅラ)で編みこみ、山桜の皮で「止め」をしたその作風、丁寧な仕上がり、古びて雅趣に富む風合いなどにより、「サンカ(山窩)」が作ったものと思われる。
「サンカ(山窩)」とは、日本列島脊梁の山間部を生活の基盤とし、夏場の川魚漁、冬場の竹細工を主たる生業としながら山野を渡り歩いた非定住の漂泊職業民である。民俗学の柳田國男も注目し、三角寛他の調査・研究もあるがその実態は把握されないまま、戦後の定住政策により、姿を消した。それにより「幻の民」「原日本人」などと呼ばれる。
独特の「サンカ文字」は漢字渡来以前の古代文字の系譜を引くともいわれ、古史・古伝に分類される「上記(うえつふみ)」はサンカ文字で書かれているという研究もある。
大分県由布岳に伝わるサンカの古伝承では、昔、由布岳に依拠したサンカが、楮の繊維を「箕」に容れて温泉と真水が湧き出る湖につけておいたところ、天日に照らされてドロドロの薄皮が得られた、と「紙」の発見の起源を語る。楮は、古代、その繊維をほぐし「木綿(ゆふ)」という白い布を得た、という由布院の地名起源と連関している。

この「箕」と出会ったのは、熊本県南小国町の国道沿いにあるリサイクルショップの店先である。雨風の吹き込む軒先に置かれていたこの珍品を、私は信じられないような安価でゲットした。
小国町・南小国町は阿蘇の北外輪山の一角に位置する高原の小都市である。大分・日田から阿蘇方面・竹田方面へと向かう古道が通じている。この日田・小国・竹田街道の道筋からは、時々、小鹿田焼の優品が収集されてくる。牛の背に積んで、草原を分け、峠を越えて人や物を運んだ交流の道であったことを示す事例である。この道は、日田から竹田へと往来した文人たちの道でもあった。サンカの道もこの古道に沿っていたことと思われる。
私の育った日田の町へも戦後までサンカはやってきて、川原に居住し、箕や竹籠類、下駄、茶筅、竹笛などの楽器類などを作り、食料と交換していたという。私たちの地域では「セブリ」「ポン」などと呼ばれていた。
「箕」は戦後頃までの農作業に欠かせぬ農具であった。この用具の中に、臼や木槌などで搗いたり叩いたりして皮が混じった状態の米・麦・豆などを入れて、風の強い日に、それを両手に抱えて、ふっ、ふっ、と上下に振る。すると実はその重みで真下に落ちて再び箕の中に納まり、殻だけが風に飛ばされて風下に散り去ってゆくという、まことに原始的で風趣に富む道具である。私も子供の頃、使ったことがあるが、辛いことのほうが多かった農作業の中で、この仕事は面白かった。風に乗って、豆殻とともに、山の村の向こうの見知らぬ世界へと旅立って行くような、軽やかな気分になったのである。


同じ店で入手した小鹿田焼の醤油徳利、小ぶりの徳利、盃、(これらは店主愛玩の品ということだったから正規の価格で買った)、我が家で長年使っている鉢などを乗せて縁側に置くとなかなかの風情である。

古い狐面は凄みを増す。

白い「翁」と黒の「姥」の面を置いてみた。これも絵になる。サンカは、芸能民や漂泊の木地師などとも交流した事例がある。
この「箕」を、一点の「アート」とみるか、貴重な民俗資料と位置づけるか、「骨董」あるいは「民藝」の範疇で捉えるかはひとまず保留しておきたい。柳宗悦が提唱した「民藝運動」は美の革命であり、さまざまな美の価値基準を生んだが、以後、民藝運動は変容し、蓑笠や古箪笥などの庶民の生活用具が土産品店や酒場の飾り物になるに及んで「民藝」は衰退した。
私は今から15年ほど前、宮崎県・米良の山中で「箕」を売りにきた中年の男性と会ったことがある。南朝の落人伝説が残り、神楽を伝える村であった。私はその時、空き家になった村の古民家を改装し、ギャラリーとして再利用する仕事をしていたのだが、訪ねてきたその人は、中型のライトバンに「箕」を積み込んでいた。そして一枚の箕を肩に担ぐようにして持ち、私に声をかけてきたのである。私はすぐに彼がサンカの末裔だということがわかったが、そのことにはあえて触れずに、いくつかの質問をした。彼は、
ー「箕作り」は先祖から伝わる「わざ」であり、この山の村々が代々引き継がれてきた「セブリ=縄張り」である。
と答えたのである。そして、彼らの住む地域の名も聞きいた。私は、これでこの人が現代のサンカであるという確信が持てたので、カメラを取り出して写真に撮らせて欲しいと頼んだら、彼は
ーそれだけは困る、
と言い、両手を交差させて顔を隠した。一度、新聞の取材に応じ、仲間や先輩から強い反発と叱責を受けたと言うのである。
そして彼は、まるで風のようにその場を去ってしまった。
その一年後、同じ米良山中のある商店の壁に、その時彼が担いでいた箕と同じ様式のものが掛けられているのを見たので、私の出会った現代のサンカは「幻」ではなかったということが確定できる。
山を去るサンカの後姿の写真は、今も手元に保存してあるが、彼の居住地と共に私は公開しないでおくことにする。いつか、彼の住む村を訪ね、彼と語り合う日が来ることを願いながら。