森の空想ブログ

森の空想ミュージアムと九州民俗仮面美術館のお知らせブログ

森に子どもたちの声が響くころ[森へ行く道<66>]

2021年01月17日 | Weblog

数日前までの寒波が去って、森に暖かな日差しがふりそそぐようになってきた。

「友愛の森/里山再生ARTプロジェクト」入口の看板を書き替えた。

「石井記念友愛社」が運営する「のゆり児童園」の子どもたちが集まってくる。昨年の秋に、園舎が新築されて少し遠くなったが、歩いて来れる距離だ。子どもたちは、この森で過ごす時間を楽しみにしているという。お地蔵さんが見守る森に子ど子たちの声が響く。

*本文は作業中。

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終 活/白い花の咲く頃(89)[詩人・伊藤冬留のエッセイと画人・高見乾司の風景素描によるコラボ]

2021年01月16日 | Weblog

終 活

伊藤冬留

正月9日の毎日新聞夕刊に、「『終活』準備にギャップ」の見出しで、某出版社が調査したという子供と親の「終活」の意識の違いが紹介されていた。それによると、子供は親のお墓や葬儀のことが気になるが、当の本人はそれらについて関心が薄いとか。親の取り組みたいのは持ち物の整理(69㌫)、思い出作り(43㌫)だそうだ。

「終活」とは、自分の人生の終りに関わる活動の略語で、己の葬儀や墓、遺言の準備や財産相続、身の回りの生前整理などを行うことである。

さて私の場合はどうかというと、80代も半ばに差しかかり、何が起こっても不思議ではない年齢であるが、しかしまだそれ程真剣ではない。というより粗方片が付いているからだ。

先ず葬儀。私も妻もキリスト者なので葬儀は教会でする。教会と言っても一部は葬儀社の手を煩わせるが、それ以外は教会で決められた費用を支払うだけである。それでも葬儀費用はかかるから、費用の準備はそれ相応にしておかなければならないのは勿論である。

次に墓。これも教会の共同墓地に埋葬してもらうことが事実上決まっているから問題はない。

3番目の遺言は、まだ考えていないが、あえて言えば、遺骨の一部(手の指一本でいい)を、条件が許すならば北海道の伊藤の墓に埋めてほしいことである。その墓は亡き母が父の死んだとき建立したもので、母自身も含め兄妹らが埋葬されている。

最後に財産相続。これは笑い話だが、相続というほどの財産などない。強いて言えば現在息子夫婦と一緒に住んでいる土地家屋くらいだ。これも又余程のことが生じない限り、一人息子のものになる。

というわけで、私の目下の終活はもっぱら身辺の整理である。今は溜まった写真を整理している。それが済んだら本棚の整理。この2つが済めば私の部屋も頭の中もすっきりするだろう。あとは余計なことにエネルギーを使わず、体に十分注意を払いながら俳句と詩をー。

2019年「杏長崎」6月号掲載

「駅裏の午後」 鉛筆・墨 14、5㌢×17、5㌢

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「廊下」が展示空間となる時/「神楽」と「仮面」の民俗誌(11)[展示品解説⑪]/オンライン展覧会<4-11>]

2021年01月15日 | Weblog

この廊下は、かつてこの家に住んだ子どもたちが走り回った板張りの空間である。

「この家」というのは、石井記念友愛社を戦後復興した児島虓一郎(こじまこういちろう)・先代理事長が手がけた建築物だ。およそ100年前にこの地を拓き、孤児たちと暮らし、農業・教育・芸術が出会う理想郷づくりを目指した石井十次の事業は、十次の早逝と太平洋戦争によって中断されたが、終戦後、復員してきた虓一郎氏によって再開された。その虓一郎理事長が建てた施設群が、「石井記念友愛社」の事業を引き継いできた。友愛社の歴史の中で、戦後復興の拠点となった記念すべき建物がこの家なのである。

私どもは、新館が完成して空家になっていたこの家を、20年前から使わせていただき、「森の空想ミュージアム/九州民俗仮面美術館」として修復を重ねながら運営してきた。古民家の再生と再利用が現代アートのテーマの一つとなり、コロナ後の地域再生の手法の一つとなるのは必須であるから、この仕事も激動する時代の中で一定の役割を果たすものになる。

これまでの20年間に、ここには、画家・音楽家・工芸家・舞踏家・オーガニックの生産者・神楽の伝承者や研究者など、多くの仲間たちが集まってきてくれた。そして2年半ほど前、この家で暮らしたことのある林田浩之君が長い旅を続けた後、「帰って」来た。いま、彼は、この建物の一角、写真の突き当りに見える小部屋で暮らしながら、里山の森の再生や仮面美術館の修復・展示などの作業をしてくれている。子どもの頃に過ごした懐かしい部屋や廊下が、彼の帰る場所だったのであり、そこがこのような「仮面美術館」としての空間に生まれ変わり、再生されてゆく過程を共有するのは、彼にとっても手ごたえのある仕事なのである。

空間を変える力は「仮面」に負うところが大きいのはいうまでもない。玄関を入った正面で、翁と媼の一対が来客を迎える。そして「猿田彦」の一群が、展示室へと案内する。それから鬼神のコーナーがあり、若男や翁面、「岩戸開き」の神々などが鑑賞者をあたかも夜神楽の一場面のような主展示室へと誘導する。ここはすでに「廊下」ではなく、神々の宿る神秘空間なのだ。

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「鬼」の居場所:会心の展示が完成/「神楽」と「仮面」の民俗誌(10)[展示品解説⑩]/オンライン展覧会<4-10>]

2021年01月14日 | Weblog

昨日の記事を補完。

「鬼面」である。風化が加わって恐ろしい相貌である。長い年月、神社の柱などに取り付けられ、風雨にさらされてきたものであろう。

この鬼面が100点の民俗仮面コレクションと一緒に私どもの手元に来たのは40年も前のことだが、このオブジェ化した鬼面は、これまでに一度も展示される機会がなかった。まるで悪鬼・悪霊そのもののような表情をしており、「怖い」という印象が先だって、展観に供する決断がつかなかったのだ。

高さ37センチ、幅24センチ、奥行き20センチ。大型の鬼神面である。同系のものが、霧島山系北麓のえびの・小林・都城近辺の神社に点在している。霧島南麓の鹿児島県域にも分布する。「柱面」と呼ばれ、神社の鴨居や柱に取り付けられて、神域を守護するものである。神社の創建時に奉納されるものであるから、その起源を古代~中世に求められる古いものが多い。隼人文化圏に分布する「弥五郎」や「猿田彦」とも類似するが、村の境に立つトーテムのような趣も漂わせる。佐賀県金立町東名遺跡からは、縄文時代早期(約7000年前)の巨大仮面が発掘されている。九州国立博物館で公開された実物を私はみたが、眼の部分も眉毛も鼻も刻出された形跡があり、それが人の手による造形物であることが確認された。さらに、顔面の両脇に紐を通すような穴があることから、大きな柱に取り付けられ、村または祭りの場を守護するトーテムのような役割をする「仮面」であることも推理された。この縄文の巨大仮面とは年代が大きく異なるが、用途・性格などは共通項を持つとみていいように思う。けれども、美術館の展示物としては適さない。かといって、焼き捨てるとか、森に持って行き切り株などの上に置いて土に同化させるなどという選択肢はありえない。そうしてこの鬼面は由布院から宮崎へと私たちの一行に加わって旅を続け、40年という歳月が流れたのである。

この「鬼面」を今回、展示替えをして屋久杉の古板に載せたら、ぴたりと収まった。居場所を得たのである。

正面から見ると、面の中央部はがっくりと削り取られたように割れており、その雷に打たれて裂けたような割れ目さえ、風化が進んでいる。二本の角と牙は残っている。それにより、かろうじて「鬼面」であることが判別できるのである。右眼の一部が虚空をにらみ、左眼はすでに失われている。額と口辺の皺が、何者かを威嚇する表情を崩していない。それゆえ、これが悪鬼・悪霊・疫病神などから村や神域を守る守護面であるということがわかるのである。

反対側から見ると、材木のかけらにしか見えない。が、これを樹齢2000年以上という屋久杉の古材の上に乗せると、それが時間と空間の間隙を見事に埋めて一体化し、「オブジェ」として独立したのである。右脇に薩摩・苗代川焼の壺を置き、御幣を差した。手前には初期伊万里の香炉。左脇に米良山系の木地師の作による碁笥(飯櫃)を置き、種子島・能野(よきの)焼の花筒を入れ、早咲きの日本水仙を活けた。焼物も木器も彼らの故郷である九州の器物である。それぞれの「もの」が、空間にぴたりと収まり、「美術館」の展示物となった。40年の年月を刻んだ会心の展示が完成したのである。

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鬼の来た道―中国の仮面と祭り/廣田律子著:玉川大学出版部(1997年)[本に会う旅<44>]

2021年01月13日 | Weblog

コロナ過でどこにも出かけられないので、手元にある本を二読・三読している。書物によっては何度も読み返すものもある。昔読んだ本でも、いま読むとまた違った感慨を得たり、新たな発見があったりする。良い本は良いのだ、時代を越えても生き続けるのだ、ということをあらためて実感する日々である。

本書は発行と同時期に買ったので、読後すでに20年以上が経過している。当時は、仮面研究の半ばまでたどり着いた時期で、その後中国奥地の少数民族の村やアジアの山岳地帯を訪ねる旅が始まったので、大いに役立ったものである。この本を読めば、「鬼」はどこからきたか、その原郷はどこであるか、その変容はどのような経緯をたどったか、そして、日本列島の鬼観念にどのように影響し伝承されたか、等のことがよく理解できる。

今回、読み返してみて、また新たな発見があった。各地を歩き、多くの祭りと仮面に会い、資料を読み込んで情報が積み上げられ、解釈が深まったというべきだろう。そのデータをもとに読み進んでゆくと、思考はアジアの山岳の村にまで翔び、はるかな時空を駆けるのである。

ところで、この写真の背景に座すのは、「鬼面」である。風化が加わって世にも恐ろしい相貌である。私どもの手元に来たのは40年も前のことだが、このオブジェ化した鬼面は、一度も展示される機会がなかった。それが、今回、展示替えをして屋久杉の古板に載せたら、ぴたりと収まった。居場所を得たのである。このことについては付記すべき情報が多いので次回に書くことにして、本題に戻ろう。

中国古代の「鬼」については、文字の成り立ちや古文献などにより、その起源をたどることができる。古代中国で「鬼」または「鬼神」と表現されたものは、死者とその霊を原義とする。国の王や村の長、一族の長老、戦争で勝利した英雄などは「善鬼」として祀られ、信仰されるが、戦闘や病気、事故などで不慮の死を遂げた者の霊は「悪鬼」となって地に籠り、崇りを成すとして恐れられたのである。この悪鬼には、山川・陰陽・天地などの超人間的威力を持ち、災害をもたらす自然神が付加された。恐るべき悪鬼を鎮める儀礼が、善鬼が悪鬼を追う「追儺」である。

追儺の儀礼については、中国の古代史書「周礼」「礼記」「後漢書」「淮南子」「史記」他多くの史書に記される。それによれば、悪鬼を追うのは「方相氏(ほうそうし)」という熊の毛皮を纏い、黄金の四つ目の仮面をかぶり、矛を持った神である。この方相氏が史書に記録されたのは2600年ほど前のことであるが、その原型は夏王朝の王「黄帝」と「蚩尤(しゆう)」の戦いにまでさかのぼることが出来る。5000年前のことである。黄帝は黄河の治水に成功し、中国全土をはじめて統一した王であったが、蚩尤は最後まで抵抗した豪族であった。蚩尤は、天道に明るく、風伯雨師を従え、五兵を駆使して反乱を繰り返したのである。その豪傑・蚩尤は、黄帝に服属すると、虎の皮を着て鉞を持ち、悪鬼・悪魔を祓いながら王の行列を先導する。これが方相氏の原型であり、以後、形を変えながら伝承されたのである。方相氏と追儺の儀礼は日本にも伝わり、宮廷の祭儀として定着した後、一般にも普及し、「修正会」や「節分」の鬼追いの行事として伝承されたのである。

古い歴史を持つ文化も、中国本土では政権が代わるたびに刷新され、消滅する例が多い。追儺の儀礼も近代中国全土を覆った文化大革命によってほぼ壊滅した。現代の中国では周辺部に点在する少数民族の中にわずかに残り、少しずつではあるが復活の兆しもあるという。著者の廣田氏は、現地を訪ね、取材し、本書にまとめたのである。本書の後半部には、その代表的な事例が収められている。私も短期間の旅でいくつかの村と祭りを訪ねる機会があったが、そこでは、祭りの様子、信仰の形態、仮面の造形性など、驚くほど日本の「神楽」や「祭り」に類似する事例を見出すことができるのである。郷愁にも似た思いでこの本を眺め、アジアへの旅の再開を夢想する一日である。

*現在、宮崎の「神楽」を世界遺産に推薦するための資料作りが進められているが、この作業は「記紀神話」に沿って進められていることから、上記のような中国本土に残る神楽や祭りの源流をたどる視点が欠けている。黒潮文化との接点をさぐる南島・東南アジアの民俗事例との比較も欠けている。記紀神話も大切な資料ではあるが、記紀一辺倒では、誤った神楽観を初心者や世界に向けて発信することになりかねない。記紀神話が国学・皇国観と結合し、神楽を改変した時代があることを忘れてはならない。本書を読んだ後、日ごろ感じていたこの懸念が強まったので、一言申し添えておく。

 

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淋しい鬼/「鬼の絵本」に描かれた「鬼」[本に会う旅<43>]

2021年01月12日 | Weblog

札幌の斉藤正純さんから「鬼の絵本」14冊が送られてきた。斉藤さんは、北海道出身で映像関係の仕事をしておられる方で、普段は横浜に住み、仕事の都合によって北海道と東京・横浜を行き来している。ここ数年、宮崎の神楽に魅せられて、九州への旅が加わった。日本列島の北から南まで、鬼の飛翔のごとく飛びまわっている斉藤さんを、米良山系の東端に位置する「中之又神楽」を伝える村に行く途中、「木城えほんの郷」にご案内したところ、山深い里にあるこの絵本美術館のたたずまいや収蔵されている本の質・量、そこを訪れ、静かに読書をする家族連れや読書人の姿に感激して、ご自身の蔵書を寄付したいと申し出て下さったのである。

これらの「鬼の本」を窓辺に置いて眺めながら、「鬼」とはなんと悲しく、淋しいものか、と私はため息をつく。

絵本に描かれた鬼は、例えば鬼が島で退治されるももたろうの鬼は、古代吉備王国の製鉄の鬼であり、こぶとりじいさんは鬼の祭りに紛れ込んでこぶを取ってもらう。大江山の酒呑童子は都から姫をさらってくる恐ろしい鬼だが、大江山もまた古代製鉄の拠点であった(私はそこを訪ねた時、たたら場の遺跡を確認した)。節分の夜に母親を看病する貧しい女の子に食べ物を届ける子鬼もいる。それらの鬼たちは、追われ、退治され、屈伏して神話の中に組み込まれたり、説話や童話として語り継がれたりしてきたのである。童話や絵本の鬼たちは、皆、人間と仲良くなりたいと思い、涙ぐましいほどの努力をするが、人間たちは恐れ、逃げ、彼らを排除する。

浜田広助の「ないた赤おに」では、人間と仲良くなりたいと思った赤おにが、お菓子を作り、お茶を用意して山の家に人間を迎えようとするが、村人たちは恐れて近づかない。そこへ、仲良しの青おにがやってきて、自分が乱暴者のふりをするから取り押さえて村人を安心させるよう、作戦を練る。そして村へ暴れこんだ青鬼を退治した(ふりをした)赤おには村人から信用されて、彼の家には大勢の客がくるようになる。が、青おには自分の存在があきらかになると赤おにが疑われて彼の幸せが帳消しになると思い、置手紙をして旅に出る。自分を犠牲にしても友の幸福を願う青おにの友情。赤おには、その手紙の前で、ひとり、泣く。

この絵本のシリーズには、子どものころに親しんだ鬼の話があり、近作では「鬼の生活図鑑」まである。生活図鑑では、近代の民俗学の調査もふまえて、山の鬼や海の鬼の生態が描かれている。日本民俗学の創始者・柳田國男翁は、「鬼とは制圧されて山に依拠した先住民の末裔」と解明した。宮崎の「神楽の鬼」は地主神であり、自然界を支配する精霊神として登場し、自然と人間との協調を説く。なにもかもを「文明」の力で押え込もうとする思考こそ、不自然であり、限界性を持つのではないか。童話や説話は、そのことをやさしい言葉で伝えてきた、異界からの伝言なのだ。「鬼」とは、災害を引き起こしたり疫病を流行らせたりする厄介な神だが、親しく祀れば、家や村や地域の守り神ともなる心優しい神である。地球上の「人類」が新型コロナウィルス蔓延に恐れ慄いている21世紀のいま、「鬼」との付き合い方を考えてみるのも処方のひとつではなかろうか。

 

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反逆と批判の精神を秘めた、まつろわぬ民の残像「道化神」/「神楽」と「仮面」の民俗誌(9)[展示品解説⑨]/オンライン展覧会<4-9>]

2021年01月11日 | Weblog

村の祭りや神楽に乱入し、滑稽な演技や性的な所作をして観客に絡んだり若い女性に抱きついたりして、祭り空間を騒乱の渦に巻き込み、さっさと退場する人気者、道化神。祭りを祝福に現れる歪んだ顔の「田の神」や「ひょっとこ」、山の神の使い「猿」、稲荷神の使い「狐」などの愉快で個性あふれる神々は、制圧された先住の民であり、風刺と反逆の精神も併せ持った「まつろわぬ民」の残像である。彼らが神楽の場に登場して、偉い神様たちにちょっかいをかけ、支配者を風刺して権威を失墜させ、世情にするどい批判の矢を放つと、観客はやんやの喝采を送るのである。「道化神」とはアウトローのヒーロー、マージナルな領域に跳梁する神である。

掲示の写真は能面の「べしみ」様式の仮面だが、高千穂神楽では「八鉢」という演目に使用される。八鉢とは「スクナヒコナノミコト(少彦名命)」である。

少彦名神は、芋茎で出来た船に乗ってやってきたという。蛾の皮またはミソサザイの羽で出来たお洒落な服を着たこの神は、生まれた時、父神の神産霊神の指の間からこぼれ落ちたほど、小さな神であったという。
その可愛らしい神・少彦名命は、海の彼方から出雲の国にやって来て大国主命と出会った時、大国主命が掌の上で玩ぶと、跳んでその頬を噛んだという悪戯者である。その後、大国主命と力を合わせ、国作りをする。その活躍によって薬学の神・穀霊神・酒造りの神・芸能神など多くの神格を獲得して人気者となった。

高千穂神楽「八鉢」は、この少彦名命伝承に基づく演目である。口をへの字に結んだいかめしい表情の仮面を着け、赤い布で頬被りをした八鉢は、腕組をした気難しい表情で現れるが、神庭の中に寝そべったり、でんぐり返りをしたりして愛嬌をふりまく。そして、太鼓の上に逆立ちをしたり、足の指に挟んだ御幣を振って舞う所作をしたりして神楽宿の中を大いに賑わせる。
2008年の秋元神楽では、妙齢の婦人が、誤って拝観者の荷物(カメラバッグ)を跨いで客席を横切ったことに怒った荷物の主が、失礼を詫びる女性に、大事な道具を跨いで通るとはなにごとか、と絡んだ。神楽の場は白けたが、その数番後、「八鉢」が客席に踊り込み、その荷物を、くるんでいた毛布と一緒に放り投げた。観客の拍手は一層盛大なものとなった。後で聞くと、八鉢役の舞人は、客同士のいざこざは知らなかったというから、この時の八鉢の行為は、「神意」というべきであろう。
たちまちその女性は八鉢=少彦名命に恋をしたが、粟殻に弾かれて常世の国へと去ってしまったというその神は、もうその場にはいなかった。

*上記は2009年に「宮崎日日新聞」に連載した「神楽と仮面」に発表した文を採録。

「道化神」の系譜をたどると、顔の歪んだ仮面や鼻曲がりの仮面など、縄文の「土面」との類似に気づく。大和王権によって日本列島が統一された後、先住の神々は封じ込まれ、新しい祭祀者が「まつりごと」を行うようになったが、その土地の神々は祭りの場を祝福に現れる「服属した神=道化神」としてその造形と祭祀形態を残したのである。彼らこそ、万物すべてに神が宿ると把握した列島先住の精霊神であった。

ちなみに、奈良県纏向遺跡から出土した木製の仮面は、農耕祭祀に用いられたものであることが確認されているから、王権樹立と同時期に、先住民の祭祀としての服属儀礼=農耕祭祀が朝廷に奉納された(記紀にも記述がある)ことを実証する資料である。「道化神」と「先住の神」の考察は今後も続けられるべき課題である。

*以下は由布院空想の森美術館に展示。

写真左「ヒョットコ」。火男。炭焼きなどとしても出る。古代製鉄の火焚き労働者と解釈できる。

鼻曲がりの仮面。縄文時代土面に類似の仮面がある。取集地・年代は不明。

田の神。各地に類似の仮面がある。田楽等に使われた古式の仮面。

 

田の神。年代・収集地等は不明だが、仮面祭祀の古風を伝える。

 

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時空を駆ける馬:神馬の居場所/「神楽」と「仮面」の民俗誌(8)[展示品解説⑧]/オンライン展覧会<4-8>]

2021年01月10日 | Weblog

この「神馬」が私どもの手元に来て、およそ40年になる。当初、100点の「民俗仮面」を南九州在住のコレクターから譲っていただいた時に、一緒だったものである。それは、幾つかの仮面とともに西都原周辺の神社に奉納されていたものが流出し、古美術業界を点々としていたものだということであった。第一期の「由布院空想の森美術館」が、オーナーの急死という突発時を乗り越えて開館した時、100点の仮面展示の前面を飾った。風化によって足も頭部の一部も尻尾も失われていたのだが、むしろそれによって余分のものが削ぎ落とされ一点の「オブジェ」として美が宿り、独立していた。その形態は、唐三彩の様式を残し、アジアの草原地帯を風を切って走る姿や風の音を展示空間に甦らせた。騎馬民族が日本国を樹立したという説には簡単には同意しかねるが、「馬」とともに生き、馬を神聖視する民族との何らかの文化的交流があり、それが渡来し、日本列島の政治や生活文化に影響を与えたものであることは、これによってわかる。

古代、朝廷や貴族に馬を献上する儀礼があった。各地の古墳には馬の埴輪が存在し、平安時代の文書には、ある貴族の庭に献上された馬があふれて困ったという記事がある。その後、「馬」は彫刻や板に描かれた「絵」で代用されることとなった。「絵馬」の起源がこれである。作今の合格祈願の絵馬などは、神格を持った馬の零落の果てというべきだろう。

軍馬として重用された時代は武田の騎馬軍団に象徴されるが、鉄砲の伝来により、その戦法は過去のものとなったはずだった。が、太平洋戦争においては軍馬は兵の命よりも大切にされたという歴史の皮肉がある。軍艦から大砲が発射され、戦闘機が空を飛ぶ時代に、人と馬で戦った無知で愚かな戦争は、負けるべくして負けたのである。

農村や山村では、田畑の耕運や林業資材の運搬などで活躍した。人と馬とが家族のように暮らし、生活と労働をともにしたのである。重い荷を峠を越えて運ぶ時など、懸命に引いてもなお荷の重量がその力に余る時、馬は飼い主の顔を見つめ、ぽろりと大粒の涙を流すことさえあったという。人と馬とは、情を通じ合う仲間だったのだ。

掲示の「神馬」は、2001年の空想の森美術館閉館後、東京での企画展に展示されたり、京都の古美術商が主催するカタログオークションに出品されたりしながら、流浪の旅を重ねて、いま、ここ西都原古墳群にほど近い「九州民俗仮面美術館」で、100点余りの仮面とともに展示され、南の国のあたたかな冬の陽射しを受けてようやく安息の吐息をついているようにみえる。その風姿が、本来の居場所に還ってきたことを物語っている。

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古代の女性シャーマンの系譜をたどる「女面」の歴史/「神楽」と「仮面」の民俗誌(7)[展示品解説⑦ /オンライン展覧会<4-7>]

2021年01月09日 | Weblog

「女面」を真っ赤なパネルの上に配置し、赤・黄・白の御幣を添えたら、古代の女性シャーマンを髣髴させる空間となった。古代の女性シャーマンといえば、「天照大神」「天鈿女命」をその頂点とする。天照大神は太陽神であり、大和王権を象徴する国家の最高神である。天鈿女命は、弟神・スサノオノミコトの暴虐に怒り、岩戸に籠った天照大神を半裸の舞を舞い、八百万の神々の笑いを誘って導き出して太陽を復活させ、天孫降臨の一行の前に立ちはだかった先住の神・猿田彦をその性的呪力で和した、シャーマンである。芸能の祖・神楽の祖とされる由縁である。宮崎の神楽に、霧島山系から宮崎平野を経て米良山系の神楽には「神和(かんなぎ)」という演目が分布し、静かで呪術的な舞を舞う。この芸態は、鹿児島神宮に伝わる「隼人舞」と同系である。先住の神の儀礼が、宮廷の守護職・芸能職「隼人職」に関連しながら、天鈿女命の子孫「猿女君(さるめのきみ)」に引き継がれ、民間に分布したものであることを示唆する。

                

女面と女性芸能の源流については、以下のような謎と課題がある。

  1. 神楽や能楽などで男の演者が女面をつけ、女物の装束を着て演じる演目があるのはなぜか。
  2. その様式は、いつ、どのようにして発生したのか。だれが考案し、普及・分布したのか。
  3. 本来、神がかりの舞を舞うはずだった女性芸能者は、いつ、どこで、どのようにして消えたのか。あるいは現存するとすれば、どのような歴史と芸態をもつのか。
  4. 日本列島には縄文時代という長い歴史を有する時代があり、そこでは女性シャーマンが祭祀を行い、国を治めていたと考えられている。ところが古代から現代に至る歴史の中で、政治と祭祀は男性が行い、女性芸能者は時代とともに零落していった。この連続性と非連続性をどう説明すればよいのか。
  5. 女面を含む「仮面」は芸術性が高く、「神」として信仰されてきたものが多い。その製作者はどのような人々か。いつごろ発生して、どのように普及と分布に関与したのか。

上記写真2点は古代の神子舞を想定して撮影したもの。古代中国の歴史書によれば、2600年前頃の朝廷の儀礼として「日食があり、壇を設えて楽器を打ち鳴らし神がかりして太陽の再生を乞う儀礼を行なった」とある。それが日本の神楽「岩戸開き」の源流とすれば、いつどのようにして伝わり、現地では消失したのか。これらの「謎」について、既著「神楽が伝える古事記の真相」(廣済堂/2019)で私はくどくどと書いたが、まだ書き足りない。現在、「小説」の手法で一書の原稿は仕上がっているが、まだ発表の機会は得られていない。書き続けてゆくべきテーマである。

「女面」由布院空想の森美術館所蔵。

中之又神楽の「神和」

高千穂神楽の「天鈿女命」

諸塚神楽の「浮輪取」。天鈿女命が岩戸の開いたことを喜んで舞う。

諸塚神楽の「天照大神」。6歳~7歳の少年が神面をかぶって岩戸に籠り、春日大神の舞によって導きだされる。この時、はるかな山脈に昇った朝日が神面を照らす。

 

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翁の相貌/「神楽」と「仮面」の民俗誌(6)[展示品解説⑥ /オンライン展覧会<4-6>]

2021年01月08日 | Weblog

このシリーズ好評です。でも、行きたいけれど行けない、というコロナ過の現状と皆さんの反響をふまえて、「オンライン展覧会」シリーズとします。

シリーズ<1>昨年4月に東京・京橋のアートスペース繭さんとの連携で行なった「野の壺・野の仏」展。そして繭さんはこの1月の展覧会を最後に惜しまれながらの閉廊となりました。展覧会は実現しませんでしたが、記録に残し、引き続き活動を継続する予定です。

シリーズ<2>「九州民俗仮面美術館」の屋根の修復。台風で崩落しそうになった屋根をアートな技法で修復し、展示品であり「神楽」と「仮面」の歴史をひもとく資料として守るべき文化遺産でもある「民俗仮面」を保護することが目的でもあります。ひとまず崩落と大規模な雨漏りは避けられる状態のところまでこぎつけましたが、作業は今後も続きます。

シリーズ<3>この「九州民俗仮面美術館」の展示の過程を記録したものです。「展示」も「アート=創作」の一環だと把握し、仲間たちや子どもたちと一緒に行い、記録しました。それぞれの思いや感性が反映されながら、作業が進行し、「インスタレーション」という現代美術が獲得した表現芸術の一環と位置付けられたと思います。

そして今日から始めることにしたシリーズ<4>「展示品解説」は「神楽と仮面の民俗誌」とサブタイトルを付し、「展示」によって生まれた神々の空間の物語と仮面史の深奥部に迫る考察を続けてゆきます。これまでに発表したものにも写真と解説を加え、再掲示してゆきます。

なお、当館のホームページはメインパソコン故障のため更新できない状態がつづいているため、当分の間、情報はこの「森の空想ブログ」と「高見乾司のフェィスブック」のみの公開となります。

お楽しみに、この「オンライン展覧会」へお越し下さい。もちろん、現場の美術館は開館し、里山再生ARTプロジェクトの仕事も並行して進んでいます。ご訪問の際は万全のコロナ対策確認の上、ご予約をお願いします。

【翁の相貌】

                     

「翁面」を金地のパネルに配置。〇△□の図形は五行・五輪塔をイメージし、下方に世阿弥の風姿花伝の一部を書き込んだ高見乾司の作。上から山の神。宮崎県北浦神楽に黒い翁面を付けた山の神が出る。翁と山の神の古形とみることができる。

2つ目は白い翁。能面の白式尉と同様式。能面の完成時と同時期あるいはそれ以前にこのような翁面が存在していたことをうかがわせる資料。同様式の翁面が西都市歴史資料館に展示されており、西郷地区からの伝来であるとの伝承を持つ。裏面に室町時代の年号が墨書されている。銀鏡(しろみ)神楽の「シシトギリ」の姥面が同様式である。銀鏡神楽の仮面は南北朝時代に米良山系に流入した仮面群と同じ系譜をたどることができる。この姥面もほぼ同時代と解釈できる。宮崎県比木神楽の「寿の舞」の翁面も同様式であり、影響下にある小丸川沿いの神楽に分布する。起源を百済王族の亡命時代とする伝承があるがそのことを確定できる資料はない。旧・由布院空想の森美術館が収集した仮面で現在は九州国立博物館に収蔵されている同様式の翁面に「弘安二年」の墨書がある。今後の研究課題の多い仮面神である。

三段目は黒式尉。能面様式の神楽面である。能楽が普及し、民間の寺院や神社の芸能・神楽とともに分布した過程で用いられたものだろう。

四段目も黒い翁だが、用途・起源ともに不明。黒い面に赤の線で皺を描いている。江戸中期頃の作と思われる。

翁の群像が二つの展示室の中央に座り、展示が重厚さを増し、奥行きを深めた。

玄関に白い翁と媼面。制作年代は江戸中期~後期頃か。神楽面として使われたものと思われる。この様式ならば、大蛇退治のテナヅチ・アシナヅチが想定される。媼面は現代の補修だが、本体は古作。

黒い翁三点。いずれも土地神であろう。村の長(おさ)や一族の長老が長寿を全うして死ぬと、神として祀られ、祖先神となって家や村を守護した。どこか村の老人に似た風貌。

今季、日向市東郷・坪谷神楽で「寿の舞」が復元奉納された。コロナ過の影響により、関係者のみの執行となったというが、仮面は比木神楽の古面を模して新作された。この神楽は、比木神楽・高鍋神楽の分布圏にあり、往時・漂着してきた百済の王族にちなむ伝承がある。比木神社から出発した祭りの一行が、西郷村・神門神社へと向かう途中、坪谷神社にも立ち寄り、神楽を奉納した時期があるというのである。この祭りは「師走祭り」と呼ばれ、小丸川河口近くの比木神社に祭られた皇子が、神門神社に祭られる百済王を訪ねるという儀礼である。道々で神楽を奉納し、一行が神門神社近くに到着する頃、村人が盛大な焚き火を焚いて迎える。夕刻から奉納される神楽の終盤、社殿から若い祝子(ほうり)に背負われて登場した翁神が、よろめきながら舞い、時には性的な所作を交え、子どもたちと遊んだりして退場する。祖先神が祭りの場を祝福に現れ、子孫繁栄を約束するのである。この面もまた時代を重ね、年輪を刻んで、伝承されてゆくことだろう。

 

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