森の空想ブログ

森の空想ミュージアムと九州民俗仮面美術館のお知らせブログ

巨大な狐面の神が降臨:米良山中に秘められた究極の神楽/西米良村・狭上神楽③[宮崎神楽紀行19-20<17>]

2019年12月12日 | Weblog




*上記までの画像はHiroshi Kanemaru氏のFBから転載。

狭上稲荷神社に供えられる供物が山の神信仰、狩猟民俗との集合を物語る。




「清山」。宮司と禰宜が舞う神迎えの舞。






淡々と舞い継がれてゆく「採り物舞」。採り物舞とは、榊、鈴、御幣、扇、劔などを手に採り、振りかざしながら舞う素面(直面=ひためん)の舞。「挟舞」「天任」「地割」は、御神屋を清め、地霊を鎮め、結界を画定して神々を迎える舞。「幣差」「住吉」などは仮面神降臨の地舞となっている。



「八幡様」が降臨した。この八幡神は、本社である村所八幡神社の「お代理様」である。村所八幡は、もともとは南朝の皇子・懐良親王を祭る「大王宮御川神社」だったが、後に宇佐八幡を勧請して村所八幡神社となったものである。西米良村内に分布する矢村・元山神社、竹原神社、横野神社とこの狭上稲荷神社が末社として分布し、それぞれに神楽を伝える。神楽を務めるのは村所八幡の社人で、神面は各神社に伝わる仮面が使用される。村所八幡の神面は出御せず、お代理様が出る。



主祭神「狭上稲荷大明神」の降臨。これが稲荷神の本体である。大山祇命すなわち山の神となっている。米良山系の神楽には銀鏡神楽の七社稲荷(赤い鬼神面)と六社稲荷(白い鬼神面)、越野尾神楽の赤稲荷(赤い鬼神面)と白稲荷(白い鬼神面)が分布し、赤白一対の稲荷面として降臨する。銀鏡の七社稲荷は山の神の伝承が付随する。



「奥方様」。米良山系の神楽の奥方様は磐長媛信仰、山姥=山の神信仰、産土神信仰、女神信仰などが混交しながら伝えられている。村所神楽の奥方様は当時の領主米良氏の奥方で、戦に破れて逃走中に夫を追って自刃するのだが、妊娠中であった。村人がそのことを哀れみ手あつく祀ると、村の女性の安産を約束する守護神となったのである。横野神楽の「産土様(さんどさま)」は山の神の化身である鹿を射た領主の一族に不幸が相次いだため、産土様として祀ると、村の守護神となった。小川神楽の主祭神として降臨する「磐長媛命」は悲運の生涯を小川川の辺で閉じるが、山の神として祀られ、山系一帯に分布した。狭上神楽の奥方様はこの系譜に連なっている。




「眷族様」の降臨。人頭大より一回り大きな狐面である。眷族様とは眷属神であり、山の神・稲荷神のお使い様である。一般的に、「狐」といえばお稲荷様と認識されているがそれは正しくない。稲荷の本体は前述の稲荷神であり、狐はあくまで眷属神なのである。眷属神には山の神の使い=猿、水神の使い龍・河童・蛙などがある。狐もその分類に入る。
狭上稲荷神社の社伝・口伝を要約すると、
『29代欽明天皇のとき、疫病が流行、五穀も実らず、多くの死者を出した。そこで、倉稲魂(うかのみたま)の夢の中に稲荷神が現れ、困り果てた群衆を救ったという稲荷縁起譚がある。
さらに時代を経て、4人の山岳修行者(山伏)が米良山に入り、狭上の東西南北に柴のいおりを結び、カズネ(葛根)、ヤマイモ(自然薯)、草木の実を食べ、木食の行を修めていた。4人の名は中山堂栄、煮田之尾勝法、山之左礼左近、西世法師と伝えられる。ある夜、西世法師の夢まくらに白髪の翁(おきな)が現れ、「われこそはオオヤマツミノミコトなるぞ。ここには自分の墓があるが、合わせて稲荷を祭れ。そうすれば、お前たちの子孫は末ながく栄えるであろう」と告げた。お告げに従って、4人は陵の隣に稲荷社を建立した。すると数日後、稲荷神の使いである白キツネが現れ、ヒエ、クリ、大豆、小豆を夜ごと運び、4人の行を助けた。この伝承を裏付けるように、東面する鎮座地には、オオヤマツミの陵と言われる塚を中心に、従臣の塚が囲んでいる。
その後、南北朝期に菊池の姓を隠し、米良と改めた米良佐太夫が入山、狭上の深山に隠れ住んだ。先祖の霊を同社に合祀(ごうし)、新たに社殿を造営、別当寺も置いた。社蔵の三鉾(みつぼこ)は佐太夫の名を刻み、菊池ゆかりの人々の参拝でにぎわった。』
となる。今もなお、米良山系や球磨郡一帯から参詣者がある。前述したように、米良山・椎葉一帯の山脈に狭上の修験・山伏が狩りの文書を配布したという根拠もここにある。


・この画像はHiroshi Kanemaru氏のFBから転載。

稲荷信仰の古形。古いといえば、ちっとやそっとの古さではない。口伝・伝承を辿るだけでも南北朝から飛鳥時代を飛び越えて、大和王権樹立前夜の天孫降臨の時代すなわち1800年前の日向神話の時代まで、その起源は遡るのである。いつの日か、大山祇命の陵墓と伝えられる古墳の調査が実施されれば、科学の光が当てられることもあろう。それまでは、想像力を駆使し、伝承を語り継ぎ、山中深く舞い継がれた神楽を継承してゆくことこそ現代に生きる者たちの大切な役割であろう。




夜が明けた。
米良山系の雲海を見ながら峠を越える。
上り10分、下りが10分の急な山道。それから谷沿いの道を10分で村所着。行きも怖いが帰りも怖い。
まだ身体の奥に神楽の音楽が響き続けている。



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狭上稲荷と大山祇命伝承:米良山中に秘められた究極の神楽/西米良村・狭上神楽②[宮崎神楽紀行19-20<16>]

2019年12月11日 | Weblog


神社境内(社務所前)での注連柱建ての神事が終わると、神職一同、狭上稲荷神社本殿へと向かう。神迎えの「祭典式」を行うためである。古びた赤い鳥居が、神職と参拝者の一行を森の奥へといざなう。




苔に覆われた参道の脇に「狭上古墳」の標識が立っている。調査は昭和初年のものだが、森に囲まれた丘状の小山が、大山祇命(オオヤマヅミノミコト)伝承を秘めた史跡であることがわかる。
伝承によれば、この塚(古墳)は、大山祇命の陵墓であるといい、遥か下流の西都原古墳群から米良山系へかけて伝わる磐長媛伝承と連関している。
西都原の伝承では、天孫ニニギノミコトがこの地に至り、美人の木花咲邪媛を見初め、求婚した。姫は、父君であるオオヤマヅミの許しを請うと、オオヤマヅミは喜び、姉の磐長媛とともに奉った。ところが、イワナガヒメは醜女だったので、ニニギは恐れて返上した。イワナガヒメはそれを悲しみ、鏡に自分の顔を映してみたところ、なるほど、自分の顔は醜かったので、悲しみはなお深く、その鏡を投げ捨てた。その鏡がはるかに飛んで米良山中の龍房山の山頂近くで日夜輝いた。その地を銀鏡(しろみ)という。今も伝わる銀鏡神楽にはこの伝承が反映されている。銀鏡神社の御神体は後漢鏡であり、銀鏡両神として尊崇される「宿神三宝荒神」は龍房山の地主神でありイワナガヒメでもあるという。イワナガヒメ伝承はさらに一ツ瀬川を遡り、一ツ瀬川の支流、小川川の流域に飛ぶ。嘆きを深くしたイワナガヒメが、川を遡り、一時は小川川の辺に住んだが、ついに入水し、その悲運の人生を閉じるのである。米良・小川の人々はそれを哀れみ、小川神社に祀った。以後、イワナガヒメ信仰は、米良山の山の神信仰・産土神信仰・女神信仰などと習合しながら伝承された。小川神楽には、主祭神として磐長媛命が降臨する。

さて、オオヤマヅミは、イワナガヒメを訪ねて米良山中に分け入ったが、ここ狭上の地で亡くなった。それを祀ったのが、この陵墓である。以後、山の神信仰、稲荷信仰、山岳修験などが混交し、伝えられたのである。この山上に塚(古墳)があり、その山麓に稲荷神社が鎮座するという構図は、稲荷信仰の総本山というべき伏見稲荷大社の様式と構図を同じくする。さらにいえば、米良山中に分布する狩りの古文書「西山小猟師文書」は狭上稲荷神社を拠点とした修験・山伏が米良から椎葉の山脈へかけて流布させたものという。椎葉に伝わっていた文書をもとに、柳田國男が「後狩詞記」を表し、それが日本民俗学発祥の序章となったことも特記すべき事例であろう。





狭上稲荷神社本殿。屋根を狐が守護しており、本殿の両脇を狼のような相貌の狐(狛犬)が守る。





本殿で神事の後、「宮神楽」が舞われる。
その後面様の入った「面箱」を捧持して神職の一行が神楽宿へと向かう。

*続きは次回。
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山の道を行く:米良山中に秘められた究極の神楽/西米良村・狭上神楽①[宮崎神楽紀行19-20<15>]

2019年12月10日 | Weblog


山道の途中で、大きな柿の木に出会う。鈴なりに稔った実の向こうに米良の山嶽が見える。






山の神を祀る社があり、山中へと上る小道がある。小径の脇に沢があり、ワサビが自生している。




標高およそ1000メートルの峠道である。
米良の山塊の向こうに、椎葉の山脈が霞む。



この峠道は、古くは肥後(熊本)・球磨郡から米良山中へと続く道筋であった。九州脊梁山地の尾根伝いに狭上峠を通り、横野から越野尾へ通じる道、縄瀬へと下って村所に至り、さらに椎葉へと続く道などの主要道を結ぶ道でもある。狭上はまさしく要衝の地であった。

狭上(さえ)稲荷神社の鎮座地は標高約700メートル。社と中武社司の屋敷があるだけの、文字通りの山中の一軒家である。現在は、村所から縄瀬を経て山道を30分ほど辿るが、曲がりくねった道は、崖下を走り、谷底を望む難所続きである。山中走破を得意とする私が、四輪駆動車を手放し、大型のワゴン車、ライトバンと乗り継いだここ10年間は訪れることをためらったほどの悪路。だが、その道の途中には「大王権現社」があり、大王出(だいおうずる)という地名も残る。すなわち、南朝の皇子・懐良親王(かねながしんのう)に関する伝承を残す道でもあった。南北朝末期、北朝・足利幕府との決戦に敗れた南朝の落人一行は、菊池氏の一族に守られてこの山を越え、米良山中に隠れたのである。



狭上稲荷神社の入り口に到着。そこでは、仕留められたばかりの鹿が、軽トラックの荷台から吊り下げられ、「血抜き」の作業中であった。途中ですれ違った猟師の今日の獲物であろう。まずは遠来の訪問者の度肝を抜く山神の挨拶。





神社の境内(神社拝殿の前庭)で、午後3時から「注連柱(しめはしら)建て」の神事。ここが、この日の神楽宿となる。この後、神社本殿へ向かい、神迎えの神事があり、面様を捧持した行列がこの神楽宿へと到着して夜神楽か゜奉納されるのである。



神楽宿の庭では、焚き火が焚かれ、猪の肉が焼かれている。
歓迎の一献と猪肉を一切れ、二切れいただいて、山中の一夜が始まる。

*続きは次回。

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詩人の国で/中村哲医師の訃報が届く

2019年12月05日 | Weblog
哀悼。
時代を照らす希望の星が一つ墜ちたという衝撃。この事実を表現する言葉が、まだ、見つからない。
以上は昨日の記事。以下に今日の記事を追加。画像はインターネットから転載。



[詩人の国で]
中村哲医師の訃報から一日が経過した。せめて三日間ほどは言葉をつつしみ、喪に服すつもりでいよう、と思ったけれど、中村医師は、事業の継続を望んでいたという。できれば、現場に駆けつけたいところだが、それは現時点では不可能だし、私などが行ったとしても何の役にも立たず現地の人が迷惑するだけだろう。それゆえ、一人の偉人のことを「語り継ぐ」ことも役割の一つだと認識し、いま、心に浮かんでくる「ことば」を書き付けておこうと思う。
       ☆
アフガンとは、詩人の国である。
中村医師は、
「花を愛し、詩を吟ずるアフガニスタンでは伝統的な詩会が健在で、季節の花をテーマに詩人たちが集い、即興詩を吟ずる。南部ではカンダハルのザクロ、東部ではジャララバードのオレンジが有名だ。詩人は昔からどこにでも居て、身分、国籍を問わず集まってくる」
と言った。
この国の人々は、かつてソビエト連邦のアフガン侵攻と戦った。その戦争を率いたのは、マスード将軍だった。マスードは、学校を作り、病院を開き、わずかな休息時間には本を読みながら戦争をしたのだ。私は、その姿を長倉洋海という写真家の写真で知ったのだが、その時「正しい戦争というものが唯一あるのだとしたら、マスードの戦争である」と思ったものだ。彼の戦争とは祖国と彼の村を守る戦いであった。が、ソビエト撤退後、マスードはタリバンによって暗殺された。取材を装ったテロリストの自爆によって爆殺されたのである。
       ☆
話は古代中国に飛ぶが、伝説の王朝「夏王朝」の「禹王」は、黄河の治水工事を行い、王朝の基礎を築いた。 禹王は、半身不随になるほど黄河流域を歩き回った。その足の踏み方は、治水の呪法「禹法」となり、地霊を鎮める鎮魂の法ともなった。日本の神楽のステップにそれが残る。
       ☆
時代が下って、春秋時代の周の国の人「白圭」は、もと侠客であったが、決意して商業の道へ進み大富をなして、その財で魏の国の大梁を流れる川の治水を行った。白圭の商法の極意とは「義を買い、仁を売る。利は人に与えるもの」であった。中村医師の行動に通じるものがある。
       ☆
さらに時代が下がって戦国末期頃、蜀の国(現在の四川省)では李冰(りひょう)が大規模な治水工事を行った。長江(揚子江)の上流岷江(みんこう)の水を、川の中に堤防を作り一部を本流から分け、その水を運河を通して、岷江左岸の成都盆地へと流したのである。これにより、雪解け時の洪水は治まり、成都盆地は「天府の国」と呼ばれる肥沃な土地になったのである。都江堰(とこうえん)と呼ばれるこの灌漑施設は現存する。私も現地で見たことがある。
       ☆
中村哲医師は、当初、医者としてアフガンに入ったのだが、病気や旱魃の惨状をみて、
「100の診療所よりも1本の用水路」
と言い、井戸を掘り、用水路を開く事業を開始したのである。30年にわたるその偉大な活動は、凶弾によって中断された。が、詩人の国の人々は、詩を詠むように中村さんのことを語り継ぎ、やがて世界のどこからか、遺志を継ぐ人々が現れるだろう。それにより、中村哲という一人の日本人医者は、古代の英雄と同系列で論じられ、評価される日がかならずやくることになるであろう。そのことを願ってやまない。



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ねむっているあいだ/呪力を秘めた「劔」の舞[宮崎神楽紀行19-20<14>]

2019年12月04日 | Weblog
神楽からの帰りに、交差点の真ん中で眼が覚めた。
時刻は白昼、午後2時頃。
すなわち居眠り運転である。
信号は青で、前後にも左右にも進入車が一台もいなかったから事なきを得たが、大失態であることは間違いない。交差点直前のそのわずかな瞬間、私は神楽の音楽を聴いていた。舞台では劔の舞が舞われていたようだ。そして、突然、眼前に大きな神様の面が現れたので、はっ、と目覚めたのである。それが、眠っている間のことだ。
あれは、神楽の神様からの警告だったのだ。
厳重注意。
以後、少しでも眠気を感じたら、ただちに停車し、仮眠をとること。




・高千穂秋元神楽「岩潜」:撮影林田浩之

神楽明けの数日間は、ある種の幻想世界の中にいることがある。
この日は、夕刻、缶ビールを一杯飲んで、そのまま床に入り、眠った。
途中、小用に起きる。
そして読みかけの中国古代史の本を少し読み、また眠る。
目覚めたら、枕元に本が落ちていた。読みながら、また眠ったのだ。
指を折り、通算すると、15時間眠り続けていたことがわかった。
眠っている間に、私の夢は中国古代の物語世界を逍遥していた。それは、春秋・戦国時代の武将の一代記で、主人公は、存亡の危機に立たされた小国を支え続ける賢将だが、君主は愚物で、提言は採用されずついに国は滅びる。が、その戦いの潔さと大国の横暴を許さぬ健闘は世の人々の賞賛するものとなり、諸国を放浪した後、隣国の客将として迎えられ、兵法・軍略を駆使して一時は中国に覇をとなえる偉業をなすのである。
古代中国の物語は、王家の伝承記録や武将の活躍、兵学者・哲学者の論理などを基にした著作が多いが、その多くは「事実」が基本となっている。事実を後世の人が語り継ぎ、まとめ、記録し、史書として活用するのである。その間に、語り部や王侯・貴族などが故事来歴を披露し、天文を参照しながら、国事を決定したり、時には戦争を止めたりする。「ことば」の美しさや力が、国を動かした。そして、その美しい言葉を発する将のもとへは、賢人が集まった。「ことば」は、それが発せられた時点で呪力を持つと信じられたが、その呪力とは、高潔な主の人格から発せられるのである。今から二千年以上も前に、このようなことばを持ち、行動していた人々がいたことを思うと、人類の21世紀に起きていることの「貧しさ」を思う。ヨーロッパの衰退をみなさい。アメリカisファーストという自己中心主義を見なさい、現代中国の成金覇権主義もしかり。日本の政治の貧困も例外ではない。あきらかに、人類は進化せず退化している。地球上の「ヒト」という種が滅亡への道を辿っていることは間違いない。

神楽には、古代中国の儀礼や事跡が反映されていることは明らかである。
「鬼谷子」に
『劔(つるぎ)とは、聖なる武器ではなく、本来の所有者を守るべき霊力とは異なる邪悪な霊を封じる武器である。その劔が、威力を増せば、劔の中の霊も力を得て、邪悪な霊を呼び覚ます』
とある。鬼谷子(きこくし)とは、中国、戦国時代の思想家・兵法家の一人。当時の小国が縦に連合(合従)することで西方の大国・秦、東方の大国・斉を結ぶ横の連合(連衡)に対抗するとした壮大な戦略を説いた。鬼谷(現在の山西省)に住んだのでこの名がある。剣聖とも伝えられる。孫子の兵法の創始者「孫武」の師であるという説もある。劔(太刀・剣)を単なる殺人の道具としてではなく、呪力を持つ神聖な武器としてとらえたところに、この兵法家の極意がある。

高千穂・椎葉・米良の神楽には前半に「地割」「地固」という演目があり、中盤に「神師・神垂・神水」「岩潜」が配置されている。
いずれも勇壮な劔の舞である。地割・地固は、劔の霊力によって土地の霊を鎮め、神楽の場を画定する儀礼である。大分県庄内神楽では「平国」という。太刀によって国土を平定したという国事が下敷きにあるとみることができる。米良山系の「神垂」は「綱荒神」の地舞として舞われるが、陣中における戦勝祈願の舞という伝承もある。高千穂の「岩潜」は、解説書にはスサノオノミコトが高千穂渓谷の激流を潜り抜けて高天原へ向かう舞となっているが、これは後世の付与であろう。芸態がほぼ同じであることから、「軍事」に関連する儀礼と見たほうが古例に近い。




・米良尾八重神楽「綱神楽」

春秋・戦国時代の中国では「王の会盟」がしばしば行われた。その時代の覇権を得た「王」が諸侯を招集し、同盟の誓いをする場である。当時の国際会議といってもいい。会を主宰する王が牛の耳を取って会盟の場へ引き出し、生贄として捧げる。「牛耳を取る」の語源はこれに因む。その血を杯を回して啜ることが「血盟」である。この会盟の場が、しばしば政変の場ともなった。すなわち王自身または王に代わる怜人が劔を採り、誓いの舞を舞うのであるが、突如、劔を取る手が対立する王・貴族などに向かい、殺戮の現場と化すのである。劔が聖なる武器であり、邪悪な武器にもなりうる神器・呪具であったことを示す場面である。神楽「劔舞」の原風景をここに見ることができる。



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金ぴかの絵を二枚/高千穂・秋元神楽にて①[宮崎神楽紀行19-20<13>]

2019年12月02日 | Weblog


高千穂・秋元神社に着いた時には、すでに神社での「神迎え」の神事と「宮神楽」を終えた一行が、神社の境内から石段へと降りて来るところだった。ぎりぎりのタイミングで神々の降臨の場面に間に合った我々は、次には全速力で走って車に飛び乗り、神楽宿へと先行した。今回は、「林田浩之君の虐待地獄からの脱出と〝友愛の森/里山再生プロジェクト〟との出会い、そのつなぎ目に埋まっていた〝豚のぬいぐるみをめぐるエピソード〟」の取材で訪れた朝日新聞・東京本社の東田真和記者も同行してくれることになったのだが、午前中の取材が長引き、出発が少し遅れたのだった。夜神楽取材では、神楽宿周辺の駐車スペースが狭いため、良い位置を確保することも、大事な戦略のひとつとなる。宿から遠い場所に停めると、画材の搬入・搬出や寒さ対策のため一晩に何度も往復するため、それだけで疲れることになるわけだ。私は、秋元神社から下る山道を神様たちの一行に先駆けて走った。出かける前は左ひざと右の坐骨辺りに神経痛の
症状が出ていたが、なんと、十分に走れるではないか。これも神楽の力というべきか。

神楽が始まる。
ここは、30年来通い続けている神楽だから、知人も多く村人とは親身の間柄だ。
――高見さんの顔がみえると祭りが始まったという気になるね。
と声を掛けてくれる奉仕者どん(神楽の舞人)もいる。
私も、遠い昔に離れた故郷の村に帰ってきたような気分になる。18年前、由布院の美術館運営に失敗して宮崎へと移り住むこととなった私を、あたかも中世-戦国期の落ち武者を迎えるようなまなざしで受け入れてくれたこの村の人々の温かさ、懐の深さを私は忘れることはない。

神楽前半は、焚き火を囲み、旧知の人々と会話しながらゆったりと過ごす。
中盤から、中学三年の美少女が隣にきて、一緒に絵を描きはじめる。
昨年、
――高見さんと一緒に絵を描きたい。
と親にことわり、私の横に来た。「秋元エコミュージアムプロジェクト」の仕事で村に通い続けた時期があり、小さい頃からこの娘のことをよく知っている私は歓迎し、自分の画材を提供して、地面に和紙や画材を広げ散らして描いたのだ。この村の将来や家族のこと、交友関係など思春期の惑いの中にあった彼女は、その機会が、自分の将来を決めるきっかけになったと言う。来春は、芸術系の高校を受験し、村に帰れるようになれば、秋元神社のお守りのデザインを手がけたりして、村の役に立ちたいという。「絵を描く」という行為そのものに「神が降りてくる」という瞬間があるのだとすれば、昨年の彼女の体験がそれだったのだろう。じっさい、彼女の筆から(天与の才がある)と思わせるような作品が次々に生まれた。私も、70㌢×13㍍の大作を得た。この作品は、今年5月の由布院駅アートホールでの個展の正面を飾る会心作となったのである。
今年もいろいろなことを話しながら絵を描いた。が、二人とも、快作は生まれなかった。彼女は、途中で筆を置き、「神づかわれ」と呼ばれる村の女衆のところへ走って行ったりした。神づかわれとは神楽の裏方を務める村の女性たちのことで、一晩中、来客や奉仕者たちに提供する食事の準備をする。神楽は、男性の奉仕者(祝子・怜人などとも呼ばれる)が務め、それを支える女性たちも「神」に奉仕する人たちなのだ。神楽とは、村の総意によって運営される。彼女はそのことをよく理解する健気な少女に成長している。

私は、神楽中盤から筆が進み、壊れた金屏風を分解した60㌢×180㌢の金ぴかの画面に一気に描いた作品2点を得た。
これから文字入れをして仕上げにかかる。上出来か不出来か、それはまだわからない。



・文字入れ終了。




・修正に失敗。御幣を散らしてコラージュ。御幣は万物のものだね(種子)を表す。

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インフォメーション/2019:冬の森アートウィーク[友愛の森/里山再生プロジェクト<85>]

2019年11月29日 | Weblog




とき:2019年12月23日-29日 開催時間10:00-17:00
ところ:宮崎県西都市穂北1358 [石井記念友愛社敷地の森]

西都市・木城町・高鍋町の三地域が近接する茶臼原の森で取り組まれてきた「友愛の森/里山再生プロジェクト」がこの春に続き、アートの企画として再起動します。「夏の森アートウィーク」は台風直撃の影響で実行を断念しましたが、冬の森にもたくさんの魅力と宝があります。昨年の台風24号、今年の台風19号等で被災した森を修復しながら、薬草・染料・食材などが得られる本来の「里山」の機能を回復させ、育てるプロジェクトとして活動しています。




<プログラム>
◇12月23日~25日 [森の整備と森の小道造り] ・森で焚き火をする&薪を採る・整備の過程で蔓草を採集しリースを作る・森に作品を展示する:アート・染織・クラフトなど。お気に入りの場所を見つけ、作品展示・食の企画・音楽・パフォーマンスなどをする方、歓迎(事前お申し込みと打ち合わせ必要)です。参加無料。各自弁当持参。
◇12月26日 [冬の森の草木染めワークショップ] 秋の森で採集し保存しておいたクロモジの葉・アカメガシワの葉・クルミの葉と小枝などで染めます。カゴノキ(赤が染まる)、タブノキ(渋いグレイが染まる)など森にある常緑樹でも染められます。
*参加費一人5000円 子供は無料。(シルクストール1枚+風の木料理店のおひるごはん付き)*自分の染めたい素材の持ち込みもOKです。
◇12月27日~28日 [竹のオブジェと森の散歩道造り] 春に作った竹のジャングルジム、ドーム、ツリーハウスなどの仕上げとその後の展開です。並行して竹を割り、竹垣を立てて森の散歩道を整備していきます。この小道は里山トレッキング&マウンテンバイクロードのコースになります。参加無料。各自弁当持参。
◇12月29日 [お正月用の竹のおはし・竹の花入れ・MY門松などを作るワークショップ&猪肉のボルシチでおひるごはん]
*参加費1500円。子供は無料。




共催
【友愛の森/里山再生プロジェクト】【アートプロジェクト九州】【森の空想ミュージアム】
☆アートプロジェクト九州・事務局/森の空想ミュージアム 西都市穂北5248-13
☆お問い合わせは 共同代表・高見乾司(090-5319-4167)・中村哲郎(090-9473-7974)へお願いします。
・事務局 右下友子(090-7921-0739)・友愛の森里山再生プロジェクト世話人・林田浩之(0983-41-1281)へ。
*画像は19春の森アートウィークから。
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神楽を荘厳する五色・五行の象形/東米良・尾八重神楽にて②[宮崎神楽紀行19-20<12>]

2019年11月27日 | Weblog



中世の山城を中心に形成された尾八重の集落に隣接して、尾八重神社がある。その隣に、廃校になった尾八重小学校がある。尾八重神楽は、神社での神事の後、この小学校跡地の運動場に設えられた御神屋で、一晩中、舞い継がれる。
御神屋は五色・五行の象(かたち)で荘厳されている。五行思想とは、古代中国で生まれ、やがてアジア全域に広がり、東洋の根本思想
として普及した思想であり、哲学である。難解なその理論を
『五行思想(ごぎょうしそう)または五行説(ごぎょうせつ)とは、古代中国に端を発する自然哲学の思想であり、万物は木・火・土・金・水の5種類の元素からなるという説。その5種類の元素は互いに影響を与え合い、その生滅盛衰によって天地万物が変化し、循環するという考えが根底に存在する。さらに、陰陽説・星宿信仰などが混合し、兵法にも影響を与え、一大思想となった。春秋・戦国時代には幅広く応用され、記録にも残されているが、その起源を夏王朝にまで遡ることができる』
と、要約することができる。
記紀神話等の日本神話にも色濃く繁栄されており、王朝・貴族の儀礼や文化にも影響を与えた。神楽を荘厳する御神屋の飾りつけは、その残影である。中世の様式が当時の形態をとどめたまま伝えられたものと把握することができる。



御神屋の正面中央に建つ「注連柱(しめばしら)」。中央に建つ三本の幣が、「 天御中主神 (あめのみなかぬしのかみ) 」「 高御産巣日神 (たかみむすひのかみ) 」「 神産巣日神 (かみむすひのかみ) 」。天と地ができたその時に高天原に生まれた原初の神「造化三神」を表す。その下に八百万の神を現す幣が椎の束に突き立てられている。米良の神楽はこの「注連柱立ての神事」から始まるのである。






御神屋中央に提げられるのが「天蓋」。宇宙星宿を象ったものという。
その四方を五色・十二支・四季・神明等を表す切り紙(「えりもの、ザンゼツなどと呼ばれる)が飾る。





猪汁がふるまわれ、村人が集まり、遠方からの客が来る。






猪と遊び、猪を取り押さえて森へと連れ帰る「猪荒神」、万物の生成を語る山姥「ばんぜき」、呪力を持った弓の舞、森の神「荒神」などが次々に出て、夜が更けてゆく。








黎明の曙光が御神屋の飾りつけを照らした。



私は、このような神楽の設営を美しい東洋の神秘世界を象形するものとして見る客であり、同時に、一人の美術家として、現代の美術にも通じる究極のアートとして鑑賞する見方もあわせ持っている。さらに掘り下げれば、東洋の古代史までを俯瞰する造形芸術であることも理解できよう。神楽の「奥行き」をここにも見ることができる。

*この稿の写真はすべて石地まゆみ撮影による。





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深山に伝えられた神秘の舞/東米良・尾八重神楽にて①[宮崎神楽紀行19-20<11>]

2019年11月26日 | Weblog


米良の山脈を越えて行く。
前日は、一日中冷たい雨が降り続いていたが、この日は一変して暖かい一日となった。
米良山系は、九州脊梁山地の南部を横断する巨大な山塊である。かつて「米良の荘」と呼ばれた地域は、「椎葉」「五家荘」と並ぶ秘境であった。明治以降、合併や分断の歴史があり、現在は西米良村と旧東米良の銀鏡(しろみ)、尾八重(おはえ)、中之又の三地域に分割されているが、神楽は同一の起源と様式をもち、それぞれの地域性を有しながら伝えられてきている。
米良山系の神楽を特徴づけているものは、南朝の落人と菊池一族の物語である。南北朝時代末期、長年月の闘争の末、一時は九州を征した南朝軍が、北朝・足利幕府の連合軍との決戦に敗れて、南朝の皇子・懐良(かねなが)親王が菊池一族とともに米良山に入山し、都ぶりの文化と神楽を伝えたことである。
菊池氏は米良氏と名を変え、懐良親王一族の遺徳を慕いながら山系一帯を領有し、善政を行い、先住民である山人(やまびと)たちに迎えられた。それゆえ、米良山系の神楽は、王朝に付随する神事としての要素と、山人の民俗や狩猟儀礼とを混交させ、さらに、修験道の要素が密接に関連しながら伝えられた。懐良親王の一行と菊池一族が捧持した三体の神面(宿神面)は米良山系の小川・銀鏡・内越の三地区に分かれて保持され、現在も神楽に使用され続けている。その様式は鎌倉~南北朝頃のものと確認されているから、仮面の存在とその背負った歴史がこの山系の神楽の伝承を裏付けている。優美な舞い振りと古俗とが綾なす糸のように絡まり合いながら織り上げられてゆく中世の絵巻。それが米良の神楽の特徴である。





尾八重神楽は、米良山系のほぼ中央部に位置する尾八重地区の尾八重神社に伝えられている。かつて40戸以上あったという中世の様式を残す集落には現在10戸ほどしか住民が住む家はなく、神楽は里へ下った村人が、神社の大祭の折に奉納するというかたちで伝えられてきている。この神楽が消えたとき、村も消滅する。文字通り「限界集落」の神楽である。
神楽の主祭神は、「宿神」である。この宿神は、米良山系の他の地区の神楽とは違い、南朝物語に関連していない。地区の湯之片神社に岩清水八幡から神楽とともに将来されたという伝承がある。が、御神屋の設営、演目の構成、音楽、仮面神の降臨の仕方等の様式は、米良山系の神楽と同一である。広大な山系に伝承される神楽が各々の起源と伝承事例を持ちながら分布していることもまた神楽の奥行きを深くする。
さまざまな要素を秘めながら、尾八重神楽の「宿神」は、法螺貝の音とともに厳かに降臨する。



夜が更ける。焚き火が神楽の場を幽玄の炎で照らす。






神楽には種々の仮面神が降臨する。東西南北・中央を表す「四方鬼神」、この地の氏神である「八幡」、姥面の「ばんぜき」、「猪荒神」、「柴荒神」などが、米良山の物語を語り継ぐのである。
仮面神を迎える「地舞」は、「カラス飛び」と呼ばれるこの神楽独特の足運びで舞われる。弓の舞「弓将軍」や劔の舞「神師」などは高く跳躍しながら舞う。隣接する銀鏡神楽が低く腰を沈めて旋回しながら舞う舞い振りとは好対照をなす。銀鏡が優美・厳粛とすれば、尾八重は勇壮・活発な舞であるといえよう。
深山に伝えられた神秘の舞は、異なる起源や謂れを持ち、それぞれの美質を包含しながら、舞い継がれてゆく。
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大刀洗陸軍飛行場跡/白い花の咲く頃(51)[詩人・伊藤冬留のエッセイと画人・高見乾司の風景素描によるコラボ

2019年11月23日 | Weblog
大刀洗陸軍飛行場跡
伊藤冬留

長崎の小学校訪問から6日後(終戦日の前日)、今度は大刀洗平和記念館(福岡県筑前町)を訪ねた。曾ての大刀洗陸軍飛行場跡である。太平洋戦争末期、ここで特攻隊機の操縦法を教育、訓練された隊員は鹿児島県知覧から沖縄へ飛び立った。大刀洗は飛行場だけでなく航空機に付随する数多くの施設があった。いわば日本陸軍の有数の航空基地だった。その為に1945年3月、米軍の大空襲に遭い壊滅的な打撃を受けた。一説によると、同年4月の沖縄上陸作戦に備え、その障害となる大刀洗飛行場を事前に破壊したのだという。
大刀洗平和記念館は2009年10月、朝倉郡筑前町立として設立された。太平洋戦争中の資料約1.800点が展示されている。その中で特に注目を集めるのが零式艦上戦闘機(三二型)、通称《零戦》である。ホールのいちばん目立つ所に置かれていた。この零戦は、戦後南太平洋マーシャル群島のタロア島で発見されたもので、製造された同型全343機中唯一現存するものである。
特設階段を登ると操縦席を上から見ることが出来る。計器類はすっかり錆びて、操縦席は窮屈なほど狭い。特攻隊員は出撃する時、各々この操縦席に家族の写真や人形等を飾っていたという。
館内には鉄兜、戦闘帽等戦時中馴染みだった品物が陳列されていたが、その中で強烈な印象を与えたのは特攻隊員らの顔写真とその遺書である。二十歳前後の若者が雄渾な筆致で天皇や国家に忠誠を誓い、両親の恩に感謝しつつ自分の死を受け入れている言葉に心が痛んだ。
最後に記念館から少し離れた屯田(とんだ)の森を訪ねた。大刀洗大空襲の時避難した小学生たちが被弾して爆死した所。「空から鉛筆の芯のように降ってきた爆弾」の一つが外れ落ちた。そこはいま畑と住宅に囲まれ、僅かに残った木立の中に扉のない小さな堂が作られ、文字を記した鎮魂の扇と折り鶴が飾られている。

俳誌「杏長崎」2015年12月号掲載


「岡の上の時間」墨・インク・染料 18㌢×38㌢
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