森の空想ブログ

「縄文人とサンカの人々」まとめ



先日、日向市のギャラリーカフェ「cafeさんく」で「縄文人とサンカの人々」というテーマでお話をさせていただきました。学術的ではないが、これまでの「学問」が見落としていた視点、新たなデータ、地方の伝承との関連など、このテーマには一夜では語り尽くせない多くの内容がありますが、「縄文」と「サンカ」を深く知ることは、自然と共生して生きる先住の神の知恵―山と森の精霊の声―を聴きとり、学ぶことという解釈にもとづき、お話しさせていただきました。当日は30名を越える方々が集まり、にぎやかな会となりました。学術的でもなく、神がかりにも情緒的にもならず、21世紀を照らす視点が得られるようにと心がけて話した内容のまとめです。話し足りなかったことの追記、話題が行きつ戻りつしたことなどの反省もこめての再録です。



【「縄文」を世に出した人々】「縄文文化」の存在を世に知らしめる役割を果たした人たちがいます。およそ半世紀前がその方々の主たる活動期です。この人たちによって、縄文時代という列島基層の文化が見直され、その価値が論じられるようになりました。そして最近、また縄文文化に対する興味を示す人が増えてきています。東日本大震災と原発事故という想像を絶する災害・人災を受けて「我々はこの地球という環境の上でどう生きるか」というテーマを掘り下げ始めたのです。まずはその先駆者たちの活動を確認しておきましょう。
①八ヶ岳山麓の縄文文化を発掘した在野の考古学者・藤森栄一。故郷諏訪地方と八ヶ岳山麓の発掘と調査、出版事業や旅館業など多彩な活動を続けた。考古学随筆集「かもしかみち」は、在野の考古学者として考古学をやさしく解説した書物。調査を基本に推理と想像を働かせた多くの読み物を出版し、若い考古学者から一般愛好家まで考古学の興味を起こさせる役割を果たした。これらの活動によって戸沢充則、松沢亜生、桐原健、宮坂光昭、武藤雄六(井戸尻考古館初代館長)ら数多い弟子が育った。
②民俗学と造形学の視点から縄文文化を論じた美術家・岡本太郎。派手なパフォーマンスで知られるが、沖縄論や日本美術論等の著作を読むと、彼が真摯な美術家であったことがわかる。代表作「太陽の塔」は縄文土器のデザインを美術の領域に取り込んだ先駆的仕事。
③縄文土器の美に魅入られ収集し「縄文芸術館」を設立した詩人・宗左近。詩人はその鑑識眼とインスピレーションにもとづき、日本列島各地の縄文土器を収集。200点を越える土器を一堂に集めた「縄文芸術館」の展示では、「縄文人の祈りの舟」などという詩人らしいキャプションが付けられ、好評を博したが、現在、施設老朽化により閉館中という惜しまれる状況らしい。
④明石原人を発見した考古学者・直良信夫。遺跡から出土する骨や種子といった、動物・植物の様々な遺骸を考古学的に研究し、過去の食物や環境復元を進めた。特に貝塚研究では先駆的業績をあげ、今日の動物考古学や環境考古学の礎(いしずえ)を築いたが、明石原人の発見時からおよそ40年間は学会から無視された状態であった。

これらの人々の先駆的活動によって、縄文文化に光が当たったわけです。縄文時代とは 石器時代には大陸と地続きであった日本列島が、温暖化によって大陸と離れた後、列島に住んだ縄文人の15000年にわたる活動とその文化の系譜と把握します。

【縄文人のルーツ】アイヌ説、琉球人説などがありますが、アイヌの熊祭りや白木を削ったケズリカケを用いる祭祀などはシベリアやアラスカなど北方系の民族に共通項を持つ祭祀形態。琉球列島の祭祀は共通項も多いが、列島全域に分布するとはいえない。「縄文人」を理解するにはこれらとは違った見方を加えるべきでしょう。移動と採集生活を基本とする「サンカ」の人々こそ、縄文的生活形態を持つ民族。石槍を担ぎ、ナウマン象を追って大陸から渡って来た石器時代の人々を連想させる「サンカ」を掘り下げる面白さがそこにあります。
【土器と土面の文化】縄文土器は今から16000年前にはすでに使われ始めたという発掘データが出ています。そしてその使われた期間は弥生時代の始まりである2300年前頃まで1万年以上続く。その造形はきわめて個性的で芸術性も高く、列島全域に共通項をもちながら分布するという世界史に類例のないすぐれた文化です。発掘事例からは、女性シャーマンを頂点とする祭祀を持ち、女性の首長が国を治める平和国家がイメージされます。縄文の遺跡からは犬を抱いた状態で埋葬された人骨が出るのです。縄文のクニは自然と共生する平和な国であったといえるでしょう。
【神楽と仮面にみる縄文の神】ここで現代に通じるテーマが浮上します。たとえば、宮崎の神楽の「荒神」は荒ぶる神であり、森の神・精霊神ですが、荒神が説くのは、宇宙星宿・天地自然と一体となる村の暮らしのあり方です。ここに縄文的な自然観・宇宙観が秘められており、現代に通じる理念が語り継がれているといえます。
【「サンカ」とは】「幻の漂泊民」「縄文人の末裔」などといわれるますが、その実態は謎の部分が多い。彼らは定住せず、狩りや川漁をしながら漂泊し、竹製品を作って里の人々と交易した。厳しい掟(ハタムラ)を持ち、外部との接触を嫌った。戦前から戦後へかけて三角寛という人が接触し、その実態を調査したが、三角寛はサンカ小説といわれる奇談ものを多く書き、人気作家ともなったので当時の学者からは信用されなかった。しかしながら「サンカ社会の研究」は真摯な調査研究資料である。そこから得られるデータは貴重である。そこに記録され写真にも写っている人々が現存し、その人たちに会って取材を重ねている研究者もいるのです。
【サンカの起源】サンカの源流は、どこまでさかのぼれるのか。文字記録としては江戸後期の文書に出ています。サンカの伝承では、スサノオノミコトの出雲国建設に従ったといい、穴居生活者の痕跡などもあるが、不明な点が多すぎて性急な結論は出さないほうが無難でしょう。
【「箕」の歴史性】サンカの主たる職業「箕作り」は、たとえば天孫降臨伝承のシオツチノオジの段では、薩摩半島笠沙の岬に漂着したニニギノミコトを土地神であるシオツチノオジが塩俵の上に山海の珍味を載せた箕を飾り、迎えたという伝承がある。山幸・海幸の段では釣針をなくした山幸彦が鉄を叩いて千本の釣針を作り、箕に載せて兄神に奉げて許しを乞う場面がある。農具として欠かせない「箕」は呪力を持つ神具でもあった。箕作りを専業とするサンカは先住民族「隼人族」の民族と一致する部分が多い。起源と分布を知る手かがリがここにあります。




【サンカの生業】芸能や文化に関連したサンカの生業を以下に列挙。
――その一つ。生産に関わる「トフタベ」(十二部)。箕作り、箕直し、笊作り、茶筅作り、茶杓作り、釜敷き作り、お櫃作り、矢こぎ、煙管(キセル)作り、簀の子編み、練子踏み(不明。ふいごやタタラのことか?あるいは壁土踏みとも)の十二職。
――二つ目は芸能にかかわる「トエラ」(十種の噱樂=エラギ=遊芸)。俵ころばし、、四つ竹、ウズメ(宇受女)、さかき(榊)、てれつく、獅子、田舞、猿舞、さるめ(猿女)の十職。
――三つ目は「守護職」“イツモリ”(五守)で、ヤモリ(山守)、イケス(池の番)、カモリ(川番人)、ノモリ(田畑番)、ウキス(舟の番)という五職。
これを細かくみていくと、笠屋、竿師、鋳掛屋、研ぎ師、目立て、蛇捕りなどがあり、さらにタタラ製鉄者、石工、弓削り、矢筈作りなどの専門職がある。
――サンカの山刀に両刃の「ウメガイ」がある。鋳掛師、鞴(フイゴ)吹き、研ぎ屋などが関連している。
――ヤモリ(山守)が神楽に関連する。椎葉神楽に「宿借」という演目があり、山人が一夜の宿を狩りに訪れる。諸塚神楽に「山守」という演目が残る。山人が山中から駆け下りてきて、宿主と問答をする。これは応神天皇の時代に設置された朝廷直轄の山を管理する「山守部」と関連する。山人が祭りの場に出てきて祝いを述べたり、火の管理をしたりするという儀礼とも関連している。椎葉や諸塚の神楽が直接サンカと関係しているとはいえないが、サンカの伝承の古形や山の文化が反映していることは間違いない。さらに「山守」「山森」を調べてゆくと、山の神祭りや縄文の遺跡から出る土偶の文化と関連していることが分かってくる。サンカが列島先住の民族であるということの事例のひとつである。
――イツモリ、ヤモリと関連して、モノミ(物見)、クニミ(国見)、コノカゲ(木の陰)、スッパ(吸破)、ラッパ(乱破)などがある。これが「忍者」と関連している。
――「蛇捕り」は「蝮捕り」ともいう。古代の蝮捕り専門職タジヒベ(蝮部)がこれである。
――サンカは「神楽」の分布と普及にも関連している。三角寛が撮影した昭和23年の写真に高千穂神楽の「穴居脱神<アナイヌケノカミ>」という演目と大野川流域の神楽「蛇斬<タジヒキリ>」がある。これは出雲神楽の「大蛇退治」である。呼称の古形と考えられる。サンカが関与した神楽に仮面が使われたことの実例である。サンカが関与する神楽ではサンカの始祖神を「穴居脱神<アナイヌケノカミ>」という。神楽の「荒神」に相当する神である。すなわち、出雲神話のスサノオノミコトをヤマトの祖神とし、アナイヌケノカミをサンカの祖神として祀る民俗が存在したのである。穴居脱神とは、穴居生活から抜け出したサンカを表すという。高千穂地方の近隣には近年まで穴居生活をしていたサンカがいたことが分かっている。その分布域は祖母山を挟んで大野川流域に広がりをみせ、豊後から豊前、出雲へと連なる「出雲神楽」の分布域と重なっている。神楽をサンカが考案し、広げたという解釈はできないが、大変興味深い事例である。




私は、サンカの資料を集めたのはおよそ40年前ですが、これまで意識的に避けて通ってきました。ところが今回、サンカが使用したと思われる仮面とサンカが神楽に関係していたという記述を三角寛の「サンカ社会の研究」で発見したのです。見落としというか、そのころは知識がなかったので、見落としていたのです。さらにサンカ文字と大分県に残されていた謎の古文書「ウエツフミ=上記」との関連でみえてくるものもあります。このあたりを調べ始めている若い研究者も出てきています。サンカ研究は新展開の時期に入ったといえるかもしれません。


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コメント一覧

匿名
サンカを3人知っています。縄文人の特徴の低身長、ほりの深い顔で足は早いです。髭は濃いほうです。弥生人がもたらした稲作を憎んでいます。それから、2人は埼玉県奥武蔵の武州サンカです。1人は沖縄の離島出身です。正月飾りをいっさいしません。出雲系神社へ参詣します。ウメガイのような刀を持っています。郷土資料館でサンカのことを調べていたら、小刀で車のタイヤを切られました。資料は家宅侵入して盗んでいきました。サンカのことを書いた「風の王国」という本も盗んでいきました.
現代では公安警察ゼロが彼らの組織を使っているのがわかりました。戸籍がなかったので使いやすかったようです。サンカの秘密性は、公安にとって都合のよい存在です。教育をして懐柔したようです。縄文人は抜歯の文化がありましたが、現在の溶け込みサンカは歯医者と関係があります。それからロマ民族みたいに窃盗癖があります。自分の仲間のためなら一般国民はどうなっていいようです。男性は凶暴です。女性はそうでもないです。
匿名
山窩は縄文人の流れを組む民族ではない
もし、そうなら刺青の文化が残っているはず。
家船も同じだ。
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