![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0f/e9/1cf369794b60bf111417444050181095.jpg)
羽生の“避来矢神社”はいつも心をくすぐる。
ここには“甲石”と言われる石が祀られているのだが、
これは栃木から飛んできたという伝説がある。
栃木というところから、
“藤原秀郷”に深く関係していることは容易に想像できる。
実際に当社は秀郷を祀る神社と言われる(『新編武蔵風土記稿』)。
伝説好きには心の琴線にビンビンくるし、
市外からやってきた人を歴史案内するときは、
コースについ入れてしまう。
なお、毎年避来矢神社では“獅子舞”が奉納されている。
この獅子舞の由来も心をくすぐってくる。
なぜなら、“上杉謙信”が関係しているからだ。
『埼玉の獅子舞』によると、
元亀・天正の頃、羽生城救援に出陣した上杉謙信が、
将兵の士気を鼓舞するために、上野国よりささら舞師を招して奉納し、
武運長久を祈願したという。
これを証明する史料はないが、村ではそう伝えられてきた。
冨田勝治氏の研究によると、
村には“風張城”という羽生城を支える城があったという。
おそらく、自衛のための村の城だろう。
上杉謙信と風張城の接点は見当たらないが、
秀郷を祀る神社とあって“武”の気配が漂う。
ところで、上村君(かみむらきみ)のある若者が、
“説経祭文”を催したところ、
役人からお咎めを受けたという事件が、
嘉永元年(1848)に起こっている(「上村君御用留」)。
説経祭文とは、説経節と祭文が組み合わさったもののことをいう。
世俗の出来事を面白おかしく語る者がいて、
「でろれんでろれん」と合の手を入れる。
いわば村の芸能で、祭文を語る遊行人が上村君にいたという。
そこで注目されるのは、渡船場である。
村には、「千津井下の渡し」と呼ばれる“上村河岸”があった。
往古は、現在とは異なり舟運が盛んだった。
川は、いまでいうハイウェイみたいなものだ。
利根川沿いに位置する上村君村には、
物や人の多くの出入りがあったのだろう。
遊行人が上村君村にいたのも、おそらくその交通と無関係ではない。
物や人の出入りが多いと、同時に文化が盛んになる。
村の若者が説経祭文を催したのは、
そのことを端的に示している。
ある人はそれを「風儀が乱れる」と言う。
千津井上の渡しである“発戸河岸”のあった発戸村など、
田山花袋の小説『田舎教師』に、「発戸は風儀の悪い村と近所から言われている」などと、
書かれてしまう。
それは風儀が悪いのではなく、
ほかの村より文化や価値観が進んでいたことを表している。
利根川沿いの村々は賑やかだったに違いない。
しかし、舟運が廃れたいまとなっては、
当時を想像するのも難しい程の秩序ぶりだ。
「風儀が悪い村」など、おそらく誰も思っていない。
穏やかな田園風景が広がっている。
しかし、先進的な文化を採り入れ、
明るく賑やかに過ごした時代の遺伝子は、
いまも受け継がれているはずである。
獅子舞は悪魔払いや厄除けを目的に行われる行事だが、
威勢のいい獅子のごとく、
いつまでも活気づく村であってほしい。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/07/dd/f896654e41f2764a7553af44e03e968f.jpg)
上村君の獅子舞(埼玉県羽生市上村君)
羽生市指定の文化財である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/41/c6/9ddc26258259d28efa0f71566bb73255.jpg)
ここには“甲石”と言われる石が祀られているのだが、
これは栃木から飛んできたという伝説がある。
栃木というところから、
“藤原秀郷”に深く関係していることは容易に想像できる。
実際に当社は秀郷を祀る神社と言われる(『新編武蔵風土記稿』)。
伝説好きには心の琴線にビンビンくるし、
市外からやってきた人を歴史案内するときは、
コースについ入れてしまう。
なお、毎年避来矢神社では“獅子舞”が奉納されている。
この獅子舞の由来も心をくすぐってくる。
なぜなら、“上杉謙信”が関係しているからだ。
『埼玉の獅子舞』によると、
元亀・天正の頃、羽生城救援に出陣した上杉謙信が、
将兵の士気を鼓舞するために、上野国よりささら舞師を招して奉納し、
武運長久を祈願したという。
これを証明する史料はないが、村ではそう伝えられてきた。
冨田勝治氏の研究によると、
村には“風張城”という羽生城を支える城があったという。
おそらく、自衛のための村の城だろう。
上杉謙信と風張城の接点は見当たらないが、
秀郷を祀る神社とあって“武”の気配が漂う。
ところで、上村君(かみむらきみ)のある若者が、
“説経祭文”を催したところ、
役人からお咎めを受けたという事件が、
嘉永元年(1848)に起こっている(「上村君御用留」)。
説経祭文とは、説経節と祭文が組み合わさったもののことをいう。
世俗の出来事を面白おかしく語る者がいて、
「でろれんでろれん」と合の手を入れる。
いわば村の芸能で、祭文を語る遊行人が上村君にいたという。
そこで注目されるのは、渡船場である。
村には、「千津井下の渡し」と呼ばれる“上村河岸”があった。
往古は、現在とは異なり舟運が盛んだった。
川は、いまでいうハイウェイみたいなものだ。
利根川沿いに位置する上村君村には、
物や人の多くの出入りがあったのだろう。
遊行人が上村君村にいたのも、おそらくその交通と無関係ではない。
物や人の出入りが多いと、同時に文化が盛んになる。
村の若者が説経祭文を催したのは、
そのことを端的に示している。
ある人はそれを「風儀が乱れる」と言う。
千津井上の渡しである“発戸河岸”のあった発戸村など、
田山花袋の小説『田舎教師』に、「発戸は風儀の悪い村と近所から言われている」などと、
書かれてしまう。
それは風儀が悪いのではなく、
ほかの村より文化や価値観が進んでいたことを表している。
利根川沿いの村々は賑やかだったに違いない。
しかし、舟運が廃れたいまとなっては、
当時を想像するのも難しい程の秩序ぶりだ。
「風儀が悪い村」など、おそらく誰も思っていない。
穏やかな田園風景が広がっている。
しかし、先進的な文化を採り入れ、
明るく賑やかに過ごした時代の遺伝子は、
いまも受け継がれているはずである。
獅子舞は悪魔払いや厄除けを目的に行われる行事だが、
威勢のいい獅子のごとく、
いつまでも活気づく村であってほしい。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/07/dd/f896654e41f2764a7553af44e03e968f.jpg)
上村君の獅子舞(埼玉県羽生市上村君)
羽生市指定の文化財である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/41/c6/9ddc26258259d28efa0f71566bb73255.jpg)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます