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クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

東京の智恵子が想う“安達太良山”の空は? ―高村光太郎と智恵子―

2010年07月30日 | ブンガク部屋
「あどけない話」高村光太郎

智恵子は東京に空が無いといふ、
ほんとの空が見たいといふ。
私は驚いて空を見る。
桜若葉の間に在るのは、
切っても切れない
むかしなじみのきれいな空だ。
どんよりけむる地平のぼかしは
うすもも色のしめりだ。
智恵子は遠くを見ながら言ふ。
阿多多羅山(あだたらやま)の山の上に
毎日出ている青い空が
智恵子のほんとの空だといふ。
あどけない空の話である。
(『智恵子抄』より)

この詩は昭和3年5月に綴られた。
周知のように、『智恵子抄』は夫高村光太郎が、
“長沼智恵子”を四十年にわたって詠んだ詩集である。

光太郎が智恵子と同棲生活を始めたのは大正3年。
智恵子は、日本女子大学校を卒業したあと、
女流油絵画家の道を歩むという自我を持つ女性だった。
「良妻賢母」を一般的な女性像としていたこの時代では、
前衛的な感覚を持った女性と言えよう。

彼女は津田青楓にこう言ったという。
「世の中の習慣なんて、どうせ人間のこさへたものでせう。それにしばられて一生涯自分の心を偽って暮らすのはつまらないことですわ。わたしの一生はわたしがきめればいいんですもの、たった一度きりしかない生涯ですもの」
(『新潮日本文学アルバム 高村光太郎』新潮社)

しかし、智恵子は心を壊してしまう。
その要因は、酒造業を営んでいた実家の破綻が大きく影響していると言われる。

精神が段々分裂をきたす中、光太郎は智恵子を決して見放さない。
献身的に彼女を支えた。
それは彼自身が、「良妻賢母」としてではなく、
智恵子を一人の女性として見続けていたからであろう。

実は、先に見た「あどけない話」は、
智恵子の実家が破綻する前の年に綴られたものだ。

彼女は、明治19年に福島県二本松町に生まれた。
商売は繁盛し、育った環境はかなり裕福なものだった。
智恵子の言う「ほんとの空」とは、
“安達太良山”の山の上の青空ということになる。
彼女はどんな想いで、東京の空から郷里を思い浮かべていたのだろう。

東京での生活は、智恵子には合わなかったらしい。
のちに光太郎は『智恵子の半生』の中で、
「彼女にとって肉体的に既に東京が不適当の地であった」と、述懐している。
智恵子の目に映る東京の空は、
いつも曇っていたのかもしれない。

壊れた心は元には戻らなかった。
昭和13年10月5日に、智恵子は息を引き取る。
光太郎と医師、
看護士である姪の3人に見守られながらの死だったという(草野心平『わが光太郎』)
52年の生涯だった。

『智恵子抄』が刊行されたのは、
それから3年後の昭和16年のことだった。
智恵子亡きあとの光太郎の心は、喪失と内省だっただろうか。

彼は北へ向かう詩人だ。
山奥に移り住み、独居生活を始める。
光太郎はその生活で、何を見つめ直していたのだろう。

昭和31年4月2日、高村光太郎没。
亡くなる3年前に戻った東京で、
73年の生涯を閉じた。

いま、安達太良山には夏が来て、深緑に覆われている。
その上には、たなびく白い雲。
風が流れる。
光太郎と智恵子は、その青い空で、
「あどけない話」をしているだろうか。
かつてない安らぎに包まれながら……



東京
最初の画像は安達太良山(福島県)


参考文献
正津勉著『人はなぜ山を詠うのか』アーツアンドクラフツ

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2 コメント

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はじめまして (和泉)
2010-07-30 22:32:32
前々からブログのほう、拝見させていただいていたのですが、福島出身のため気を引かれて投稿させていただきました。
智恵子はセザンヌに憧れていて油絵を描いていたようですが、残念ながら画家として大成することはできませんでしたが、闘病中に彼女が作った紙絵は素晴らしいものでした。
無垢な子供のような愛を感じ、思わず涙ぐんでしまいました。
光太郎の詩は人間愛に包まれていてとてもいいですね。戦時中は特に若い恋人同士の間で智恵子抄は読まれていたそうですよ。
ちなみに雑誌『青鞜』の表紙絵は智恵子が描いたものだとか。
愛情深い夫婦だったのでしょうね。
返信する
和泉さんへ (クニ)
2010-07-31 07:27:38
はじめまして。
コメントありがとうございます。
高村光太郎の『智恵子抄』は、文学的に云々などと言いたくはない作品ですよね。
光太郎の智恵子に対する深い想いに、素直に耳を傾けていたい。
共に芸術の世界に身を置いていた二人は、
お互いが自分の体の一部のような存在になっていたのだと思います。
光太郎は彫刻の作品を創作するとき、常に智恵子に見てもらいたいとの一心だったそうです。
紙絵を作る智恵子もまた、作品の向こうに光太郎がいるのかもしれませんね。
二人の深い想いが、いまなお人々の心を打つのだと思います。
先日行った安達太良山の上の空は、とても美しく見えました。
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