クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

作詞家への“決断”のときは? ―羽生の人 関口義明(2)―

2007年03月06日 | ふるさと人物部屋
作詞家“関口義明”氏の決断のとき。
それは26歳のときに訪れました。
氏は高校を卒業後に銀行へ勤め、
なかなか本腰を入れて作詞の世界に入れなかったそうです。
銀行に入ったのも、確固とした理由があったからではありません。
「銀行は3時で終わると思っていたからなんです」
と、関口氏は話します。
つまり、3時にシャッターが下りるのと同時に、
仕事も終わるものと思っていたそうです。
ならば、3時以降は詞の勉強ができると……。

そもそも関口氏が作詞と出会ったのは高校2年生のとき。
それまで新聞に川柳を投稿しては頻繁に取り上げられていた氏は、
文章を書くことを得意としていました。
ただ、当時は「作詞」という考えはなく、
川柳を投稿し続ける日々だったといいます。
しかし、新聞社主催「読者の集い」へ足を運んだとき、
出会ったのが“作詞家”。
人の“縁”とはどこでどう繋がるのかわからないものです。
たまたま隣に座った「作詞家」に、関口氏は目覚めるのでした。

23歳で投稿した「あゝ上野駅」が公募で当選したことは、前回触れました。
(2007年3月5日の記事「作詞家 関口義明(1)」参照)
当時の氏はまだバリバリの銀行マン。
3時で仕事が終わるはずもなく、毎晩遅くまで働いていたそうです。
こんな生活では作詞の勉強はできないと、関口氏は思います。
しかし、銀行を辞める決断には至りません。
そのままズルズルと銀行勤めをしていました。

転機が訪れたのは26歳のとき。
ある日、関口氏は上司に呼ばれます。
「なんだろう」と思いながら上司のもとへ行きました。
そこで告げられた言葉。
それこそが、氏が作詞家の道へ歩ませるきっかけとなったのです。
「役に就かないか?」
昇進の話でした。
真面目さと実直さが認められて、新しく役につく話が出たのです。
――これはまいった。
氏はそのときそう思ったそうです。
そして、ついこんな言葉を口にしてしまいました。
「作詞の勉強がしたいので銀行を辞めます」
おそらく、その数分前まではそんな言葉を言うなどとは思っていなかったでしょう。
昇進の話をきっかけに、銀行を辞める決断をしたのです。
周囲からしてみれば妙な話に聞こえますが、
作詞家の道をずっと考えていた関口氏にとって、責任のある役に就き、
そのまま銀行マンの道を進むことはできなかったのです。

こうして関口氏は銀行を辞め、作詞家の世界に入ります。
もし、役に就く話が出なかったならば、
氏はそのまま銀行勤めをしていたかもしれません。
何が決断の引き金になるものかわからないものです。
関口氏は晴れて東京に進出。
そこで、アルバイトをしながら本格的に作詞の勉強を開始……
となるはずでした。
「だけど、自由時間が増えると逆にやらないものです。これは私の性格によるものでしょうね」
と、関口氏は話します。
38歳の「ほたる川」で独立するまで、
色々な仕事を経験したそうです。
営業や、銀行勤めを活かして会社の帳簿作りなど、
アルバイトと作詞の日々を送ります。
「あゝ上野駅」でヒットしたとはいえ、
そう簡単にうまくいく世界ではないのでしょう。
関口氏は諦めることなく、ペンを執り続けたのです。
(「羽生の人関口義明(3)」に続く)

※この記事は3月3日の講演会を基にしています。

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