クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

羽生のセンセイの蔵書 ―上杉謙信の盃―

2020年03月10日 | ふるさと人物部屋
80年近く羽生城を研究していた冨田勝治氏に出会ったのは早春で、
別れたのも春でした。
2004年、先生は95歳で僕は25歳の春だったのをよく覚えています。

と言っても、いつも思い出すわけではなく、
『越佐史料』を手に取ったときや、春の季節を迎える頃になると、
亡き師の顔がふと脳裡によぎるのです。

『越佐史料』は、まだ自治体史の刊行が充実していなかった頃、
先生の研究を支えた文献です。
研究初期において、諸説錯綜した羽生城史を明らかにするには資料が不十分でした。

ところが、越後上杉氏の事績を一次資料で追う内容の『越佐史料』を手に入れると、
研究は一気に進展。
地元で伝えられているような忍城主成田氏の攻撃による落城ではなく、
天正2年閏11月に自落したという全容が見えてきたのです。

しかも、羽生城が属していたのは武田信玄ではなく上杉謙信。
孤立無援になっても謙信から離反しなかった城だったことが判明しました。

そのせいもあったでしょうか。
冨田先生が最も心を寄せた武将は上杉謙信でした。
義に厚く、謙信の生一本な性格が好きだと話していたのを覚えています。

20代の頃、そんな冨田先生の近くで多くの時間を過ごした僕は、
気が付けば羽生城の奥へと足を踏み入れていました。
当時、不動岡図書館(加須市)の郷土資料室にあった『越佐史料』を手に取ります。
ページをめぐりながら、
先生は若い頃どんな表情でこれを読んでいたのだろうと想いを馳せます。
僕が羽生城の奥へ歩を進めたのは、先生に対する関心の方が強かったかもしれません。

20代前半のときに好きだった織田信長は、
先生と出会った20代半ばから上杉謙信に変更
上杉謙信に関連する本を、予算の範囲内で買い集めました。
神田古本街や早稲田古本街を何軒もハシゴし、
「研究資料」という視点で書棚を眺めます。

しかし、当時はお金がなく、欲しくても買えない本がたくさんありました。
『越佐史料』もその一つです。
僕は蔵書派で、本に線やマーカーを引き、書きこまないと気が済みません。
図書館の本では「見る」ことはできても「解読」ができないので物足りず、
消化不良になってしまいます。

だからと言って、買うことのできない金欠状態。
必要な箇所をコピーするしかありません。
コピーではある程度まかなえるものの全体を見通せず、
「仕方ない」と自分に言い聞かせても、
図書館や冨田先生の書斎で目にする『越佐史料』は強い存在感を放ち、胸に迫ってくるのでした。

そんな歯がゆさと悔しさ、喉から手が出るほど欲しい情熱。
一方で、こんなことに夢中になっていていいのだろうかと、
醒めた気持ちもよぎります。
そんな狭間の中にあって開いた『越佐史料』は、
僕にとって葛藤ばかりだった20代の青春の一冊になっているように感じます。

いまは新たな資料の発見や収集・研究が進み、
上杉家文書を多く収録する自治体史がいくつも刊行されています。
冨田先生自身、後年は『鷲宮町史』や『川里村史』などの自治体編纂に携わり、
『越佐史料』には見られない文書を多く収録しました。
鑑賞的表現で言えば、『越佐史料』は「古典」であり「名作」なのでしょう。
資料集の類ですが、文学作品のように面白く読む人は少なくないかもしれません。

ところで、冨田先生が心を寄せた上杉謙信が亡くなったのは春でした。
3月9日に春日山城内にて倒れ、同月13日に死去(旧暦)しています。
戦国乱世を生きた49年の生涯でした。

謙信は亡くなる1ヵ月前に肖像画を描かせたと言われています。
その一つに、雲に乗った独鈷の下に“朱の盃”を描かせたものがあったそうです。

そこには謙信の人物像は書かれていません。
雲と独鈷と朱の盃のみ。
このことについて、木戸監物という人物は、
謙信が日頃より酒を好んで嗜んでいたため、
朱の盃を自分の御影として描かせたのだろうと、語ったとされています(『古老物語』/『越佐史料』抄録)

この木戸監物は、羽生城主木戸忠朝の二男元斎に比定されます。
元斎は天正2年の羽生自落後、上野国でしばらく過ごし、
越後へ移って客将として迎えられるからです。

『古老物語』では、監物の先祖「木戸玄斎」は「大剛ノ人也」と評価されていますが
この人物こそ忠朝でしょう。
『古老物語』が記すエピソードの是非は定かではありません。
しかし、かつて父が忠節を尽くした謙信について元斎が語っていることに、
歴史の面白さを感じます。

自身を物語るものとして、「朱の盃」を描かせたという上杉謙信。
当時、上杉家に仕える者は、朱の盃を目にしただけで謙信を連想したのかもしれません。
亡くなる1ヵ月前に詠んだ句は、
「四十九年一睡夢 一期栄華一杯酒」というものでした。

僕は冨田先生を思うと、部屋を埋め尽くすようにあった「蔵書」を連想します。
先生の書斎はとても居心地がよく、まぎれもなく研究室でした。
そして、もう一つの羽生城だったと思います。
そこに着想を得て書いた小説が「放課後の羽生城」でした。

もしも上杉謙信のように“モノ”で冨田先生を表わすとするならば、
僕は「蔵書」を選ぶかもしれません。
その一冊にあるのは『越佐史料』。
それらの蔵書は春の柔らかい光りに包まれている。
まるで、日だまりのような温かくて優しかった先生の人柄のように。

先生が亡くなってすでに10年以上が経っていますが、
20代のときに目にした印象と変わらないまま、
そんなイメージが脳裡に浮かぶのです。
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