クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

羽生タイムスリップまち歩き、利根川を挟んで上杉謙信と北条氏政が火花を散らした?

2023年05月28日 | 歴史さんぽ部屋
令和5年5月28日に開催される「羽生タイムスリップまち歩き」に参加される皆様、
また残念ながら抽選から漏れてしまった皆様、
このたびはご応募ありがとうございました。
僭越ながら、当日は私髙鳥が講師を務めさせていただきます。

一昨年、昨年に引き続くもので、
羽生市観光協会による企画です。
定員を大きく超える応募があったと聞いています。
これも、羽生市観光協会の巧みな周知と、
羽生在住・在勤の方々の意識が高いからかと思います。

5月28日は、旧古利根川である会の川沿いに眠る歴史を探訪します。
会の川は往古の境界線であり、
戦国時代には羽生領と忍領を分ける境目でした。
そのため、川に関する歴史や史跡が多い傾向があります。

特に、上杉謙信が羽生城救援に駆け付けた逸話は、
関東戦国史の中では比較的よく知られています。
赤岩の渡しから武蔵国に入るはずだった謙信は、急遽川俣の渡しへ陣を進めました。
ここで利根川を渡り、武蔵国内で小田原の北条氏に属す城へ進攻するつもりでした。

ところが、雪解け水で増水した利根川に行く手を阻まれます。
毘沙門天の化身と言われた謙信でも、さすがに自然が相手ではなす術がなかったようです。
浅瀬を探しますが、融水が全て消し去っています。
大輪(群馬県明和町)の陣でしばらく様子を見、
せめて兵糧弾薬でも羽生城へ運び込もうとしたところ、
対岸で待ち構えていた北条勢によって強奪されてしまいます。

結局謙信は羽生城救援に向かうことができず、
北条勢が本田(埼玉県深谷市)へ移ったとの情報を聞き、大輪の陣を解くのです。
天正2年(1574)比定4月13日付で羽生城へ送った書状に、謙信は次のように記します。

 如啓先書、幾日大輪之陣ニ有之も、大河与云、水増与云、為如何も其地江助成之儀、
依不成之(後略)(「志賀槇太郎氏所蔵文書」)

数日大輪に布陣したものの、利根川は大河であり増水しているため、どうしても羽生城への救援が叶わずと伝え、やや己を正当化するように次のように続けます。

 既ニ前後左右及百里、味方之地一城も無之所江、不痛凶事打下候儀、忠信之不感歟(同)

上杉勢撤退の情報を受けた羽生城勢は落胆の色を隠せなかったでしょう。
周囲の城は北条氏に属しており、風前の灯火と言っても過言ではありませんでした。
一方、北条方は利根川の増水により上杉勢の進軍を食い止めることに成功したものの、
一戦を遂げられず残念であると述べています。

 (前略)指向所雪水満水人馬之渡依無之、川上へ押廻、無二可遂一戦由被存候処、
 越国境号沼田地へ引籠候者、此度不被遂一戦儀、無念之由被存候(後略)(「並木淳氏所蔵文書」)

5月4日付で北条氏繁が小峰城主白川義親へ送った書状の一文です。
上杉勢と北条勢が直接干戈を交えることはありませんでしたが、
天正2年の春の羽生領において、一発触発の状況にあったことは間違いありません。

もし利根川が増水をしていなければ、利根川を舞台に激戦が繰り広げられたでしょうか。
あるいは、増水がなければ北条勢は対岸で対陣することはなかったかもしれず、
融水で膨れ上がった川がキーポイントとなっています。
ちなみに、この対陣で血が一滴も流れなかったわけではなく、
忍城主成田氏長が羽生における合戦で戦功を挙げたとして、
感状を発給している点は見逃せません(「知新帖」)。

5月28日当日は、以上のような上杉氏や北条氏に想いを馳せつつ、
近世に設けられた上新郷の本陣、会の川沿いに連なる内陸砂丘の河畔砂丘、
切り崩された古墳やデイダラボッチ伝説などを訪れ、
埋もれつつある地域の歴史に光を当てていきたいと思います。

令和5年度は、まち歩きツアーを2回予定しています。
秋口には羽生城下町を巡るコースを考案中です。
なので、今回抽選に漏れてしまった方は、
秋口のツアーへの応募をご検討いただければ幸いです。
それでは羽生でお会いしましょう。

羽生市観光協会内
https://hanyu-kanko.jp/info3.html
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