クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

羽生の歴史でこんな変貌はあったか? ―下岩瀬にて―

2024年04月25日 | 歴史さんぽ部屋
迷った末、栗原眼科病院(羽生市下岩瀬)へ足を運んだ。
眼圧を下げる目薬が残りわずかになったからで、数か月後に1度の割合で足を運ぶのがルーティンになっている。

診療時間開始前に行ったにも関わらず、病院はひどく混んでいた。
待合室は広いのに、ベンチに座れない。
混雑は覚悟の上だったから、持参した数冊の本を併読しながら、名前が呼ばれるのを待っていた。

目薬を貰うだけのつもりだった。
が、なぜか定期検査となる。
何枚か写真を撮られるだけだったのに、気が付けばひどく肩がこっていた。

医師の診察を受け、病院を出るときにはぐったりしていた。
激しい運動を強制されたわけではない。
それなのに、疲労感を覚えるのは精神から来るものなのだろうか。
気が付けば、立ったまま順番を待っている来院者はさらに増えていた。
病院内の独特な空気に慣れるには、数日か数週間を要するに違いない。

外に出ると、移転した羽生病院の大きな建物が目に飛び込んできた。
南を向けば、住宅街とカインズホームをはじめとする各店舗が林立している。
隔世の感を覚えずにはいられない。
羽生第一高校の校舎が、新しい時代のうねりに飲み込まれるように見えた。

約30年前、校舎は周囲の田園を見下ろすようにそびえたっていた。
わきの道は車1台がやっと通れるほどの幅しかなく、しかもガタガタ道だった。
夏になればカエルの鳴き声が響き、護岸されていない水路には、ザリガニやドジョウの姿がたくさん見えた。

それなのに、いまや新しい住宅が軒を連ね、スタバはあるしニトリもある。
栗原眼科の前にも、西松屋やセカンドストリートなどの店舗が建ち並び、
国道122号を渡る十字路には、幸楽苑やかつや、ケバブを売る店があるのだから、変われば変わるものである。

令和6年は羽生市制施行70周年にあたる。
羽生の歴史を振り返っても、これほど短期間で急激に町が変化したことはなかったのではないか。
戦後の変貌を上回る勢いで、町は変化している気がしてならない。
時代の流れであるにせよ、その波に乗るだけの行政トップと執行部、その他関係者の決断力と行動力がなければ、栗原眼科の周囲にはまだ多くの田んぼが残っていたかもしれない。

いま、自分が目にしているこの時代は、のちに何と呼ばれるのだろう。
いま、我々はどんな歴史の転換期を目撃しているのか。
栗原眼科から処方された目薬を携えながら、ゆっくり周囲を眺めた。
この時代の流れを叙述するならば、何が書かれるだろう。
眼圧の安定した目で、しっかり見定めたいものである。

※最初の画像は、開発前の羽生第一高校周辺
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