クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

行田の大地主にふりかかった災難 ―小埼沼伝説(4)―

2006年05月16日 | 奇談・昔語りの部屋
かつて小崎沼の近くに、
埼玉県行田市きっての大地主「湯本家」の屋敷がありました。
湯本家は木曽源氏の流れを汲む名門で、
歌人「浜梨花枝」の生家でもあります。
浜氏の祖父「湯本義憲」は、日本治水三大家のひとりで、
日本で最初に治水策を誕生させた人物です。
次の話は、そんな湯本家(義憲)と小埼沼にまつわる奇談です。

小埼沼は『万葉集』に詠まれた地として、古くから人々に知られていました。
宝暦3年(1753)9月には、忍藩主阿部正允が沼辺に石碑を建立し、
『新編武蔵風土記稿』や『忍名所図會』に所収された絵図にも、
その碑は沼と共に描かれています。
現在沼は枯れ、わずかな窪地を残すのみとなっていますが、
苔生した石碑は生い茂る樹木の中に静かにたたずんでいます。
ここにはいくつかの伝説が伝えられ、
小埼沼のものを取ると大罰が下るというタブーが
まことしやかに語り継がれています。

そのせいもあるのでしょうか。
湯本義憲の生きた時代(嘉永2年~大正7年)には、
いまよりも草木が生い茂り、石碑を覆い隠すほどでした。
その状況を見た義憲(よしのり)は、石碑が埋もれるのを惜しみ、
屋敷の庭に移します。
このとき彼は自分の身に災難がふりかかろうとは
思いもしませんでした。
石碑を移した途端、湯本家に災い事が続けて起きたのです。

最初の犠牲者は職人でした。
石碑を移す作業に携わった職人が、ある日突然亡くなってしまったのです。
原因はわかりませんが、
思いも寄らない死であったことは想像できます。
次に職人の死から間もなく、義憲の妻が急死してしまいました。

災難はこれだけでは終わりません。
今度は帝大卒業間近の義憲の子息が急病にかかってしまったのです。
必死の看病も甲斐なく、子息はやがて息をひきとりました。
相次ぐ不幸に、義憲は悲嘆にくれたことでしょう。

そんなある夜のことです。
ひとりの美しい娘が義憲の夢枕に立つとこう言いました。
「わたしを元の場所へ返さないと、この家の誰かをお連れします」
義憲は目を醒まします。
寝汗をぐっしょりかき、
娘の声がはっきり耳に残っていました。
義憲はこの短い間に起きた身内の不幸が、
小埼沼の碑を移したことに原因があると思い至ったのです。
そして後日、石碑を元の場所に戻すと、
その周りを綺麗に整えたということです。

このように小埼沼にはただの史跡スポットだけでなく、
暗い影のような伝説がいくつか伝わっています。
それはこの場所が往古から人々の信仰の対象だったからでしょう。
小埼沼の石碑だけでなく、窪地には水神や辨才天の石碑が
祀られていることからも窺えます。
つまりそこは、無闇に侵してはならない場所なのかもしれません。

※画像は小埼沼跡にたたずむ水神の石碑です。

参考文献
蘆田伊人編『新編武蔵風土記稿』雄山閣
大澤俊吉著『行田の伝説と史話』(国書刊行会)
忍名所図會編纂委員会編『忍名所図會』
行田市史編纂委員会編『行田史譚』
関田史郎著『さきたま双書 埼玉の文学碑』さきたま出版会

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1 コメント

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Unknown (はに丸)
2017-07-28 00:34:47
湯本家とはさきたま古墳群の近くの湯本天然温泉の湯本グループの湯本社長さんのことでしょうか?
ムー的な恐い話しですね。恐ろしいですね。
秩父のポックリ観音より効き目がありそうですね!あそこの銀杏拾って食べたらコロッといきますかね!良いこと先生が書いてくれました。身寄りもいないので、今年試してみます。長生きしても何にもいいことないですから。 死のう団というのが大昔ありました。自殺するよりよっぽどいいですよ!ピンコロ最高です。
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