tさんに連れられて、船から釣り糸を垂らした。
教わるままに小エビを針に刺し、西伊豆の海の数メートルの深さまで落とす。
釣り糸の動きから魚が食いついたかどうかがわかるという。
なるほど、怪しい動きに気付いて糸を上げてみるとアジがかかっていた。
ヘラ釣りの感触とは違う。
その気になれば船上でアジを捌き、食べることもできただろう。
異なるのは棹の感触のみならず、自分の体が揺れていること。
酔い止めのクスリをもらったのに、見事なまでに船酔いに襲われる。
下を向くと一気に酔いが来る。
気持ち悪くて仕方がない。
なるべく顔を下に向けないようにしても、
エサの仕掛けでどうしても船酔いコースを辿ってしまう。
結局、アジ2匹とコサジ1匹を釣り上げ、陸に戻ることにした。
tさんも僕と同じ釣果に加え、サバを釣り上げていた。
僕の船酔いのためtさんの釣果を邪魔してしまい、申し訳ないことをした。
tさんは気が向くと西伊豆へ出掛けるという。
映画「世界の中心で愛を叫ぶ」が好きで、以来松崎町を訪れるようになったらしい。
子どもはすでに大きくなったから、一人出掛けて気ままに釣り糸を垂らすのだとか……。
大人の休日である。
贅沢な過ごし方かもしれない。
休むにも技術がいる。
心身に支障をきたして以来、そう考えるようになった。
休み方にも「静」と「動」がある。
何もせずのんびり過ごすのが前者ならば、
tさんの西伊豆での過ごし方は後者だろう。
「静」と「動」をバランスよく組み合わせるのが、大人の上手な過ごし方という(西多昌規著『休む技術』だいわ文庫)。
ただ、心を壊した場合は「静」が重視されるから、
その組み合わせのバランスはその時々によって異なるかもしれない。
実は、少し前から休日の過ごし方に悩んでいた。
これまでの過ごし方がしっくりこない。
脳内からドーパミンが出ない。
なんか不安。
心配事が頭から離れない。
心が倦んでいく。
休んだ気になれず、実際に勤務をされている方には申し訳ないが、何十連勤もしているような感覚に見舞われる。
版元から次の一手がなく、辛抱強く待つことにいささか疲れてしまったせいもあるかもしれない。
そんなとき、海釣りに誘ってくれたのがtさんだった。
渡りに船で、これまで自分にはなかった世界の風に吹かれたかった。
何かきっかけが欲しかった。
tさんも、僕と息子が釣りへ出掛けるきっかけになってくれればと言ってくれた。
確かに、一度経験してしまえば選択肢に組み込まれる。
tさんの世界にお邪魔する形でその船に乗ったようなものだった。
確かに、そこは普段自分が目にすることのない世界が広がっていた。
休み方も迎える転機があるらしい。
いや、物理的ではなく感覚的な節目が存在するのかもしれない。
コロナウイルスによる自粛ムードも影響しているように思う。
一度トンネルに入った心身は、そこから抜け出たときに相応のエネルギーを要する。
つまり、負担が大きい。
「別に変わらないよ」と言う人も多いが、僕はまだ軌道に乗れずにいる。
会心の一撃を求めず、徐々に自分のペースを掴んでいくしかない。
書を捨て町へ出ようと言ったのは寺山修司だった。
書を捨てることはできそうもないが、
これまでの凝り固まった世界から距離を置くことは可能だろう。
異なる世界を前にしても、「たたくより、たたえ合」いたい(ACジャパン)
ところで、船酔いの克服の仕方はあるのだろうか。
いつか船釣りをリベンジしたいものだ。
海なし県に住んでいるから、船に乗る機会はそうはない。
インターネットで検索したら、ブランコやシーソーなどで訓練する方法もあるらしい。
息子も乗り物酔いしやすい体質だから、
船の前に、とりあえず近所の遊具から乗るところからかな……。
教わるままに小エビを針に刺し、西伊豆の海の数メートルの深さまで落とす。
釣り糸の動きから魚が食いついたかどうかがわかるという。
なるほど、怪しい動きに気付いて糸を上げてみるとアジがかかっていた。
ヘラ釣りの感触とは違う。
その気になれば船上でアジを捌き、食べることもできただろう。
異なるのは棹の感触のみならず、自分の体が揺れていること。
酔い止めのクスリをもらったのに、見事なまでに船酔いに襲われる。
下を向くと一気に酔いが来る。
気持ち悪くて仕方がない。
なるべく顔を下に向けないようにしても、
エサの仕掛けでどうしても船酔いコースを辿ってしまう。
結局、アジ2匹とコサジ1匹を釣り上げ、陸に戻ることにした。
tさんも僕と同じ釣果に加え、サバを釣り上げていた。
僕の船酔いのためtさんの釣果を邪魔してしまい、申し訳ないことをした。
tさんは気が向くと西伊豆へ出掛けるという。
映画「世界の中心で愛を叫ぶ」が好きで、以来松崎町を訪れるようになったらしい。
子どもはすでに大きくなったから、一人出掛けて気ままに釣り糸を垂らすのだとか……。
大人の休日である。
贅沢な過ごし方かもしれない。
休むにも技術がいる。
心身に支障をきたして以来、そう考えるようになった。
休み方にも「静」と「動」がある。
何もせずのんびり過ごすのが前者ならば、
tさんの西伊豆での過ごし方は後者だろう。
「静」と「動」をバランスよく組み合わせるのが、大人の上手な過ごし方という(西多昌規著『休む技術』だいわ文庫)。
ただ、心を壊した場合は「静」が重視されるから、
その組み合わせのバランスはその時々によって異なるかもしれない。
実は、少し前から休日の過ごし方に悩んでいた。
これまでの過ごし方がしっくりこない。
脳内からドーパミンが出ない。
なんか不安。
心配事が頭から離れない。
心が倦んでいく。
休んだ気になれず、実際に勤務をされている方には申し訳ないが、何十連勤もしているような感覚に見舞われる。
版元から次の一手がなく、辛抱強く待つことにいささか疲れてしまったせいもあるかもしれない。
そんなとき、海釣りに誘ってくれたのがtさんだった。
渡りに船で、これまで自分にはなかった世界の風に吹かれたかった。
何かきっかけが欲しかった。
tさんも、僕と息子が釣りへ出掛けるきっかけになってくれればと言ってくれた。
確かに、一度経験してしまえば選択肢に組み込まれる。
tさんの世界にお邪魔する形でその船に乗ったようなものだった。
確かに、そこは普段自分が目にすることのない世界が広がっていた。
休み方も迎える転機があるらしい。
いや、物理的ではなく感覚的な節目が存在するのかもしれない。
コロナウイルスによる自粛ムードも影響しているように思う。
一度トンネルに入った心身は、そこから抜け出たときに相応のエネルギーを要する。
つまり、負担が大きい。
「別に変わらないよ」と言う人も多いが、僕はまだ軌道に乗れずにいる。
会心の一撃を求めず、徐々に自分のペースを掴んでいくしかない。
書を捨て町へ出ようと言ったのは寺山修司だった。
書を捨てることはできそうもないが、
これまでの凝り固まった世界から距離を置くことは可能だろう。
異なる世界を前にしても、「たたくより、たたえ合」いたい(ACジャパン)
ところで、船酔いの克服の仕方はあるのだろうか。
いつか船釣りをリベンジしたいものだ。
海なし県に住んでいるから、船に乗る機会はそうはない。
インターネットで検索したら、ブランコやシーソーなどで訓練する方法もあるらしい。
息子も乗り物酔いしやすい体質だから、
船の前に、とりあえず近所の遊具から乗るところからかな……。
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