2月17日、「埼玉史談」を発行する埼玉県郷土文化会から依頼を受け、講師を務めた。
タイトルは「戦国期の羽生城をめぐる攻防」。
テーマを羽生城に絞って話をするのはいつぶりだろう。
会場は羽生市立図書館2階の視聴覚室だった。
埼玉県郷土文化会の内野会長から挨拶をいただき、
村田副会長が司会を務めて下さった。
会場が羽生の図書館だったせいか、20代の記憶が走馬灯のように流れた。
自分が28歳だった平成19年だったか、この会場で羽生城をテーマに4回講座の講師を務めたことがある。
まだ冨田勝治先生は存命で、自分のような浅学者が人前に立つのはおこがましい限りだったが、
あたたかく迎え入れて下さったのを覚えている。
冨田先生が逝去したのはその翌年だった。
平成20年4月17日に亡くなり、同年夏に先生をモデルに書いた小説が「放課後の羽生城」だった。
たまたま同作が埼玉文学賞の評価を受け、その流れで埼玉新聞に冨田先生の功績が大きく取り上げられた。
内野会長の口からその話題がのぼり、妙に懐かしさを覚えた。
自分にとって当時はちょうど端境期で、何かが大きく変わろうとしていた。
縁あって、埼玉新聞のタウン記者に携わったのもその頃だった。
同紙の吉田さんや橋本さんの指導のもと、休日に取材先を駆けまわり記事を書いた。
たまたま、講演前に同会の原口さんから埼玉新聞の吉田さんの言葉を聞いた。
気持ちが一瞬あの頃に戻った気がした。
講演に来て下さった方の中には、知っているお顔が何人かいた。
その方たちの前では逆に教えていただく立場なのに、自分のような者が前に出てしまって恐縮する。
平成19年から振り返れば、色々なご縁の上に今があることをしみじみと感じる。
ご縁というのは不思議なもので、人生のそのタイミングでなければ生まれないものばかりではないだろうか。
何か見えない筋書があって、人生のそのタイミングでそこに立っている人がいる。
あるいは、出会うものがある。
それは、自分が抱く想いが強いほど比例しているかもしれない。
役目を終えるように離れていく人もいれば、長年続く縁もある。
その一つ一つが合わさって、人生という川になっている。
そして、それぞれの人生が交錯し、折り重なって現代という「時代」を紡ぎ出している。
そんな気がしてならない。
信心深い性質ではないが、結びつき、影響し合う縁の力は信じている。
講演が終わったあと、羽生市須影の「松月庵」で埼玉県郷土文化会の皆さんとお昼を食べた。
事務局を務めたまつやま書房さんから、『今につながる妻沼の歴史』(埼北文化研究会著)をいただいた。
誰がいま何々を書いている。
誰さんがいまこんな研究をしている。
今後こんな企画を考えている。
同会の中でそんな話題が飛び交い、アウトプットが通常化しているのが心地よい。
「人間、気力が大事」
山本正史氏がそう述べた。
気力のある人は、いくつになっても輝いている、と。
あるいは、気力を取り戻した人は元気になったと。
その話を聞いて、思い出したのはやはり冨田勝治先生のことだった。
病弱で20歳まで生きられないと言われていた先生が、99歳まで矍鑠とされていたのは、歴史研究というライフワークに命を燃やし続けていたからかもしれない。
気力に満ち溢れた人だった。
奥さんが亡くなり、気力を失っていたときもあったが、それでも最後まで羽生城主系図の作成や史料の読解、新しい論文の準備をされていた。
自分個人としては、「気力」の言葉にはやや耳が痛い。
28歳のときの猪突猛進のような勢いはない。
かき分けて前に出ていく性分でもない。
気力に溢れている埼玉県郷土文化会の皆さんと別れたとき、午後1時を少し回っていた。
講演後、図書館へ行くことを想定して史料を何冊か車に積んでいた。
が、机に向かう気力はなく、職場を経由して帰路に就いた。
外は風もなく穏やかに晴れていた。
途中立ち寄った廃寺跡で大きなくしゃみをした。
※最初の画像は、羽生城の「天神曲輪」に比定される古城天満宮(埼玉県羽生市東5丁目)
タイトルは「戦国期の羽生城をめぐる攻防」。
テーマを羽生城に絞って話をするのはいつぶりだろう。
会場は羽生市立図書館2階の視聴覚室だった。
埼玉県郷土文化会の内野会長から挨拶をいただき、
村田副会長が司会を務めて下さった。
会場が羽生の図書館だったせいか、20代の記憶が走馬灯のように流れた。
自分が28歳だった平成19年だったか、この会場で羽生城をテーマに4回講座の講師を務めたことがある。
まだ冨田勝治先生は存命で、自分のような浅学者が人前に立つのはおこがましい限りだったが、
あたたかく迎え入れて下さったのを覚えている。
冨田先生が逝去したのはその翌年だった。
平成20年4月17日に亡くなり、同年夏に先生をモデルに書いた小説が「放課後の羽生城」だった。
たまたま同作が埼玉文学賞の評価を受け、その流れで埼玉新聞に冨田先生の功績が大きく取り上げられた。
内野会長の口からその話題がのぼり、妙に懐かしさを覚えた。
自分にとって当時はちょうど端境期で、何かが大きく変わろうとしていた。
縁あって、埼玉新聞のタウン記者に携わったのもその頃だった。
同紙の吉田さんや橋本さんの指導のもと、休日に取材先を駆けまわり記事を書いた。
たまたま、講演前に同会の原口さんから埼玉新聞の吉田さんの言葉を聞いた。
気持ちが一瞬あの頃に戻った気がした。
講演に来て下さった方の中には、知っているお顔が何人かいた。
その方たちの前では逆に教えていただく立場なのに、自分のような者が前に出てしまって恐縮する。
平成19年から振り返れば、色々なご縁の上に今があることをしみじみと感じる。
ご縁というのは不思議なもので、人生のそのタイミングでなければ生まれないものばかりではないだろうか。
何か見えない筋書があって、人生のそのタイミングでそこに立っている人がいる。
あるいは、出会うものがある。
それは、自分が抱く想いが強いほど比例しているかもしれない。
役目を終えるように離れていく人もいれば、長年続く縁もある。
その一つ一つが合わさって、人生という川になっている。
そして、それぞれの人生が交錯し、折り重なって現代という「時代」を紡ぎ出している。
そんな気がしてならない。
信心深い性質ではないが、結びつき、影響し合う縁の力は信じている。
講演が終わったあと、羽生市須影の「松月庵」で埼玉県郷土文化会の皆さんとお昼を食べた。
事務局を務めたまつやま書房さんから、『今につながる妻沼の歴史』(埼北文化研究会著)をいただいた。
誰がいま何々を書いている。
誰さんがいまこんな研究をしている。
今後こんな企画を考えている。
同会の中でそんな話題が飛び交い、アウトプットが通常化しているのが心地よい。
「人間、気力が大事」
山本正史氏がそう述べた。
気力のある人は、いくつになっても輝いている、と。
あるいは、気力を取り戻した人は元気になったと。
その話を聞いて、思い出したのはやはり冨田勝治先生のことだった。
病弱で20歳まで生きられないと言われていた先生が、99歳まで矍鑠とされていたのは、歴史研究というライフワークに命を燃やし続けていたからかもしれない。
気力に満ち溢れた人だった。
奥さんが亡くなり、気力を失っていたときもあったが、それでも最後まで羽生城主系図の作成や史料の読解、新しい論文の準備をされていた。
自分個人としては、「気力」の言葉にはやや耳が痛い。
28歳のときの猪突猛進のような勢いはない。
かき分けて前に出ていく性分でもない。
気力に溢れている埼玉県郷土文化会の皆さんと別れたとき、午後1時を少し回っていた。
講演後、図書館へ行くことを想定して史料を何冊か車に積んでいた。
が、机に向かう気力はなく、職場を経由して帰路に就いた。
外は風もなく穏やかに晴れていた。
途中立ち寄った廃寺跡で大きなくしゃみをした。
※最初の画像は、羽生城の「天神曲輪」に比定される古城天満宮(埼玉県羽生市東5丁目)
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