クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

広田直繁を賞賛する上杉謙信の手紙 ―羽生城コトノハ―

2017年11月22日 | 羽生城をめぐる戦乱の縮図
文書館収蔵文書展「関東管領上杉氏と埼玉の戦国武将」(平成29年12月10日まで)には、
永禄12年(1569)に比定される閏5月6日付の「上杉輝虎書状」が展示されている(複製、通期展示)。

上杉輝虎はのちの上杉謙信。
送り先は「広田式部太輔」。
この者は羽生城主“広田直繁”(ひろたなおしげ)だ。

文書の内容としては、越相同盟が成立したことを直繁に伝えたもの。
これまで、関東をめぐって上杉氏と後北条氏が争ってきたのだが、
武田信玄による動きによって両者は急遽手を結ぶことになった。
謙信は色々と思うことがあったのに違いない。

というのも、越相同盟が成立する前、
謙信はかなり劣勢に立たされていたからだ。
関東の国衆たちはこぞって謙信から離反。
後北条氏に属し、関東における上杉氏の勢力は後退せざるを得なかった。

そうした離反の嵐の中、
ひたすら謙信への忠節を守った者がいた。
それが広田直繁だった。

羽生城周辺の諸城がこぞって後北条氏になびいているのに、
直繁だけは裏切ろうとしなかった。
そこで謙信は言う。

 近年者味方中何も南江随遂之処、
 其方被抽忠信候事、無比類候

近年、味方だった者が後北条氏へなびいていた中、
そなたの忠信は抽んでていた。
その忠信はほかに比べるものがない。
そう直繁を激賞するのだった。

定型文かもしれない。
でも、義を重んじていたと言われる謙信にとって、
直繁は義将に見えたのだろう。
この文書以外にも、直繁の忠節を賞賛したことがある(「歴代古案」)。

羽生城は決して難攻不落の城だったわけではない。
強大な軍事力を誇っていたわけでもない。
隣接するのは忍城主成田氏であり、
劣勢は火を見るより明らかだった。
それなのに、なぜか謙信から離反しようとしない……。

北武蔵の一城にすぎない羽生城。
無名に等しい広田直繁。
その直繁に書き送った謙信の書状。
謙信が直繁を激賞するコトノハは、
羽生城の魅力を伝える一方で、
なぜ上杉氏に属し続けたのかという謎も含んでいる。

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