クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

“広田直繁”と“木戸忠朝”の初出資料 ―羽生城コトノハ―

2017年12月16日 | 羽生城をめぐる戦乱の縮図
羽生城主の名前が歴史に初めて姿を現わすのは天文5年(1536)のこと。
新資料の発見によってさらに遡る可能性はあるが、
現時点では天文5年が最古となっている。

戦国時代末期における羽生城主の名は“広田直繁”と“木戸忠朝”だ。
名字は異なるものの二人は兄弟。
上杉謙信、後北条氏、武田信玄が関東を舞台に火花を散らしていた中、
羽生城を守っていた国衆だ。

では、二人の名はどんな資料に現れるのだろう?
古文書ではない。
実は金工にその名が刻されている。

天文5年、両者は羽生領の小松神社(熊野白山神社)の末社に、
三宝荒神御正体を寄進する。
そこに次の銘が施されている。

 武州大田之庄小松之末社 三宝荒神
             忠朝
             直繁
 天文五年丙申五月吉日 願主両人

径22cmの大きさで、中央に三宝荒神が施されている。
直繁と忠朝の生年月日は定かではない。
直繁は元亀元年(1570)、忠朝は天正2年(1574)まで名前が見られることから、
天文5年当時はおそらく青年だった頃だろう。

この御正体を奉納したのを元服期と仮定したい。
三宝荒神は火伏せの神さまとして知られる。
元服し、これから羽生領を背負っていく二人にとって、
領地が戦火に見舞われることのないよう三宝荒神を奉納したのかもしれない。
それは祈りであるとともに、
羽生領主としての覚悟と決意を感じ取ることもできる。

三宝荒神はその力を存分に発揮したらしい。
文書資料では、羽生領が戦火に見舞われたという記述は見当たらない。
少なくとも、羽生城が灰燼に帰したことはなかった。

とはいえ、敵の進攻を受けている。
文書に書き記されなかっただけで、実際に戦火に見舞われた可能性はある。
それに、直繁と忠朝は上杉謙信に属す姿勢を崩さなかったため、
苦しい戦いを強いられることとなった。

天文5年に奉納された三宝荒神御正体。
直繁・忠朝の運命もさることながら、
これから羽生城が辿っていく道のりについて、
果たして三宝荒神は見抜いていたのだろうか。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 幼子を宮代町郷土資料館に連... | トップ | 駿河城址に香る今川氏の分国法 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

羽生城をめぐる戦乱の縮図」カテゴリの最新記事