クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

田舎教師の“教室”は弥勒高等小学校内のどこか? ―羽生文学散歩(16)―

2016年09月21日 | ブンガク部屋
弥勒高等小学校跡は羽生市弥勒にある。
現在は跡地に文学碑が建っているが、
学校の面影は見当たらない。

『田舎教師』の主人公“林清三”は、
はじめ行田からこの小学校まで通勤していた。
主人公のモデル“小林秀三”も実際にその距離を通勤していたらしい。
あまりにも遠いので羽生の建福寺に移るが、
それでもなかなかの距離だ。

秀三は明治34年から弥勒高等小学校の教壇に立ち、
生徒たちに勉強を教えていた。
女生徒の「田原ひで子」(大越もん)さんはここで秀三から教えを受け、
作文の添削指導を受けている。
作品には登場しないが、
のちに日本画家として活躍する“小林三季”も秀三の教え子として通っていた。

学校には「校長」(平井鷲蔵)をはじめ、
同僚の「関訓導」(速水義憲)もいた。
小川屋の娘の「お種」(小川ネン)は、
この学校まで弁当を届けていたというわけだ。

学校の校門は街道に向かって建っていた。
玄関は校舎の中央に位置していたという。
秀三が教えていた教室があったのは東の隅。
風水的視点で見ると、教室はいい位置にあったのかもしれない。

秀三はここで何を考え、どんなことを想いながら働いていたのだろう。
小説のように、最初は田舎に埋もれていく自分に悲観していただろうか。
ただ、秀三は生徒から慕われていたらしい。
本人がどう思うにせよ、教師の職は向いていたのではないか。

もし秀三が病を患わず長生きしていれば、
正教員となって長く教鞭を執っていただろうか。
そうなれば多くの教え子が巣立ち、故郷に錦を飾っていただろう。
そして花袋の創作意欲を刺激せず、
『田舎教師』は生まれなかったに違いない。

運命に従う者を勇者という。
花袋は作品の中で主人公にそう言わせている。
主人公はいち教師として生きていくことを決意し、病に倒れていった。
秀三の「運命」とは、
小説の中で「教師」と生きていくことだったのかもしれない。

※写真は旧文学碑(埼玉県羽生市弥)

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1 コメント

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グンマーのかかあ天下! (チョー坊)
2017-07-05 04:24:08
職員室に泊まっている林清三を近所の女性が覗きに来ましたよね。道で会っても、先生いい男と声をかけられますよね。利根川沿いは群馬に近いせいか女が強い。
羽生の方もそうなんですね。行田でも、「西条酒巻女の夜這い、男後生楽寝て待ちる」というのを聞いたことがあります。美人なら嬉しいけど、醜女に夜這いかけられたら、超恐いですね
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