クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

“羽生城”へ行きませんか?(62)―大久保忠隣と彦左衛門―

2008年10月10日 | 羽生城をめぐる戦乱の縮図
天正18年(1590)、豊臣秀吉が天下統一を果たし、
徳川家康が関東に入府すると、
羽生領は徳川の重臣“大久保忠隣”に与えられた。
つまり、羽生城主大久保忠隣の誕生である。

忠隣というと、小田原城主のイメージが強いが、
それは父忠世が没した文禄3年(1594)以降だ。
江戸幕府が編纂した『寛政重修諸家譜』に、
「十八年関東御入国のとき、武蔵国羽生城をたまひ二万石を領す」とある。
最初、忠隣は羽生城主であり、
文禄3年に父の遺領を継ぐと、羽生兼小田原城主となったのだ。

ただし、忠隣が羽生に赴くことは1度もなかった。
領土の支配は、羽生城代“不得道可”(鷺坂軍蔵)に専ら任せ、
自身は江戸に詰めていたという(『石川正西聞見集』)。
隣の忍城には、「廿九日戊戌 雨降、をし(忍)へ越し候、松平周防より城うけ取候」と、
“松平家忠”が入城する記録が残っているが(『家忠日記』)、
城主の不在の羽生城にはもちろんそんなものはない。

ただ、奇妙な人物が羽生に足を運んでいる。
それは“大久保彦左衛門忠教”である。
彦左衛門と言うと、『三河物語』を著し、
天下のご意見番としてのイメージが強い。
しかし、それは後年になってからのことだ。

甥の忠隣が羽生城主に就くと、
彦左衛門は羽生領の内2千石を給した(『寛政重修諸家譜』)。
それは城代としてではない。
忠隣の親族として重きは置かれていただろうが、
城主に代わって領土を支配するほどの権限はなかったようだ。
いわば宙ぶらりん武士である。
まだ旗本ではなく、甥の領国の一部を支配する族臣でしかなかった。

ときに彦左衛門31歳。
雄大な利根川の流れる北武蔵の地で、
彦左衛門は何を思っただろう。
大久保忠一の8男として生まれた彦左衛門は、
もとより大きな野望や希望は抱いていなかったのかもしれない。
自分の運命を受け入れ、羽生で月日を過ごす……

ここでふと思い浮かぶものがある。
それは『田舎教師』だ。
『田舎教師』は明治42年(1909)に刊行され、
羽生を舞台にした田山花袋の小説である。
不遇のまま若くして没していく青年を描き、
花袋の代表作のひとつに数えられている。

小説の主人公“林清三”は、自分の運命を嘆きながらもそれを受け入れ、
いち教師として生きていく覚悟を決めた直後に病に倒れてしまう。
大久保彦左衛門はのちに家康の直臣となり、
天下のご意見としてその名を輝かしく歴史に留めている。
しかし、羽生時代はどことなく『田舎教師』の主人公と似ている。
(続く)


大久保彦左衛門屋敷跡(東京都千代田区神田駿河台)


彦左衛門の屋敷跡には現在杏雲堂病院が建っている。


御茶ノ水駅前から聖橋を望む。


田舎教師のブロンズ像(埼玉県羽生市弥勒)

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