くまえもんのネタ帳2

放置してたのをこちらに引っ越ししてみました。

いかがでしたか情人節?

2006-02-15 02:05:49 | ノンジャンル

チョコフォンデューぐらいならつきあってもいいかな。


中国ではバレンタインデーのことを情人節っていうんですねぇ。
日本で「情人」っていうと、なんだかやばい感じがするんですが。

試しに辞書なんか引いてみると、
情人】じょうにん、じょうじん
(1)情交関係にある人。愛人。いろ。
(2)情のある人

ってことで、情人節は「愛人の日」ってな感じになっちゃうんですよね。
お妾さんとか若い燕とかになにやらしてあげる日。
隠微なニュアンスになっちゃうのは避けられません。


それにしても、同じ漢字の文化圏で、結構ニュアンスというか意味合いが違っちゃうのってあるんですよねぇ。

バレンタインに中華飯店に招待なんてかっこつけたりなんかして、これが日本でなら問題ないけど、中国や台湾だったら「まぁヤラシイ!」とか何とか言われて、ほっぺたぶったたかれたりしてね。
あちらじゃ、飯店はホテルの意味なのよね。
お食事とかプレゼントとか、そう言う何となくムードを盛り上げてくれる手続きを全部省略して、いきなり「ホテルに行こう!」だなんて、あたしそんな安い女じゃないのよ!ってね。

もっとも、男同士だったら、そんなに俺とやりたいのかって、変に盛り上がっちゃうのかも知れないんだけどね。



「飯なんて後で良い、おまえを食わせろ!」って迫られたら、排卵しちゃうかも。
どう?


僕は山にチョコレートを持って行っても、食べずに持って帰って台無しにしてしまう口なんで、バレンタインなんか言われてもちっともありがたみがありません。
特に、義理チョコなんて言う馬鹿げた風習はやめて欲しいと、切に願っているくちです。
人にあげるときは、グラスとかちょっとした額縁とか、そう言う小物類にしています。

とはいうものの、ここ2~3日は部屋から出ていないので、あげたりもらったりという心配もありません。
気楽なもんです。


そうそう、台湾に行って街中を移動してるとね、「青年中心」とか「なんとか中心」って、そう言う看板が目に入るんだよね。
青年の中心?
なにやら良からぬ事を連想しちゃうよね。
これ、青年センターのことなんだよね。
センター=中心

まんまと言えばまんまなんですけどねぇ。
こういう風に、外来語の意味に基づいていちいち漢字に直してから使ってるんですよ。
その辺が、とりあえずカタカナ表記で済ませちゃう日本との違いですね。
そう言う点で、日本は柔軟というか、いい加減というか、何でもありというか。
とりあえず新しい概念が入ってくると、そのまんま取り入れちゃう。

違いを違いとして認めると言うのともちょっと違うのかも知れないんだけど、とにかく丸飲みにしてしまう。
懐が深いと言うよりは、判断停止の気配が濃厚だったりする。
だから、教義が互いに相容れないモノでもとりあえず平和共存と言うか併置させられてしまう。
だけど、時間が経つに連れて、本来のモノとは似てもにつかないモノに変質していって、いつの間にか本来の意味を失って日本独特のモノに作り替えてしまっている。
神も仏もキリストさんも生身の人間もごっちゃまぜなのだね。

変わり果てたと言えば、クリスマス。
これは、今では、恋人に贈り物をしてその見返りにHをする日ってな意味になっちゃってませんかねぇ?って、これはちと行き過ぎな例か。

本質的な問題というか食い違いというか相容れない部分を解決することなく、何となく丸め込んでしまうやり方というのは、ひょっとすると、縄文から弥生にかけて、アジアの様々な民族がものすごい勢いで日本に押し寄せ、それぞれの習俗やら文化やら風習やらと言った違いをきちんと一つ一つ摺り合わせたり整合性を持たせたりなんて言う余裕が無いままに、日本が成り立ってしまったからじゃないのかしらん?なんて思ったりするのだ。


ところで、中国や台湾が、外来語をいちいち漢字に直して使うというので、ずいぶん昔に驚いたことがありますの。
それはね、「美的名字」という歌をTVで聴いたときのこと。
なんだかわかります?
「美的名字」



1979(S.54)年、国際児童年のテーマソングとして作られたヒット曲。
そう、ゴダイゴビューティフル・ネームなんです。

ちなみに、ゴダイゴって名前の由来は、後醍醐天皇に掛けてるんだと信じて疑わなかったんですが、英語で書くと“GODIEGO”となり、「行って、死んで、行く」つまり七転び八起きあるいは輪廻転生を思わせることから来ているとか、「GOD」「I」「EGO」と分けて「神と自分のエゴイズム」という意味もあるなんてのも紹介されてて、いまさらながらにビックリ。
ホントかよ?

話しを戻すとね、TVから中国の子供たちと一緒に歌うゴダイゴの映像が流されて、
Every child has a beautiful name
  A beautiful name, a beautiful name
のところが、聞き慣れない中国語で歌われてたのだ。
で、その字幕が「美的名字、美的名字!」

ぶったまげるやら感心するやら。

この辺の話題、映画のタイトルとかも面白いので、また今度紹介しようかななんて思ってますのよ。

エロサイト?エコサイト?

2006-02-13 20:50:38 | ノンジャンル
と、書いてみて、ん?それってうちのblogのことか?、なんて一瞬思ってしまったのだった。
あはは。
まぁ、僕のブログは、エロはあんまりないわなぁ。あほネタサイトなんだから。
まぁ、笑いをとろうかと思って体を張ることは、確かにあるけどね。
おいら、失笑をかうのは好きよ。
イタイの大好き。



ところで、ノルウェーと言うと、すぐ連想するのが森。そしてフィヨルド。
ノルウエーの森」っていうビートルズの曲も有名なんだそうだけど、なんかうろ覚え。
調べてみると、
[音楽的には、シタールの使用や、メインメロディー部分のEミクソリディアンモード(移動ドで、ドレミファソラ♭シの旋法)と、ポールのバッキングヴォーカルが重なってくる部分のEドリアンモード(移動ラで、ラシドレミ#ファソの旋法)のモードチェンジが特徴である。]
あぁ、あれね。
一説にはその邦題は誤訳で「ノルウエーの木材」というのが正しいとか。
ふむ、ノルウエーと言えば、確かに木材の国でしょう。

そう言えば、同じタイトルの小説があったよねぇ。

ノルウェイの森なのね、春樹のは。
これも読んでないのよねぇ。
森の話しだったら、きっと読んだんだろうけど。
でもね、今ちょっと調べてみたら、緑に助けられる話しみたいなのね。
最後の方にこんな台詞があるんだってさぁ。

「どこでもない場所の真ん中から緑を呼び続けていた」

......ふ~ん、自然回帰のお話しなのかぁ~、だったら読んでみようかなぁ。>チッガ~ウカラッ!
結構露骨な性描写も人気の一因だったんだとか?

さてと、まえおきが長くなりましたね。
その、森の国ノルウェーで、こんなサイトが立ち上げられたんだそうです。
その名もfuckforforest.com
なんでも、環境保護のために立ち上げられたエロサイトなんだというのだけれどね。


まぁ、ちょっと抜粋してみましょ。
~~~~~~~~~~~~
環境保護の為にポルノサイトを立ち上げる

「環境保護が必要な今日のような世界にあって、こうした方法で環境の為にお金を集めることは非常に誇らしいことだと思っています。」トミー・ホル・エリンセン(27・Fuckforforest.com主催者)は語った。サイトの訪問者は一定の額を支払うことで、エリンセン氏とその彼女リオーナ・ヨハンセンさんの間で交わされる性交などのビデオを見る事が出来る仕組みになっている。また二人は今後サイトからの収益の多くを様々な環境保護団体に寄付するつもりであるとしているが、環境保護団体がこのプロジェクトに中々同意してくれないことが悩みである、と話している。
~~~~~~~~~~~~

まぁ、朗報なんですかねぇ?
これで、後ろめたさをみじんも感じることなく、エロサイトを見ることができるってなもんでしょう?
何せ、僕たちのエロパワーが、すべて地球の環境やら自然を守るために使われるとしたなら、夜ごとの自家発電もことさらに有意義な行為になると言うものでしょう。

このようなムーブメントは、日本でもすでにエロハスとして認知されているようデス。
それにしても、このFuckforforestをおかずにしてこいている最中は現在進行形になる訳ですからFuckingforforest ! ってなことになるんですよねぇ?
訳せば、「森林のためだなんてクソ食らえだっっ!」

あぁ、なんと言うことでしょう。>ビフォーアフター風に叫んでね

ついでながら、どーでも良い事ながらロハスも紹介しておこう。
[LOHAS(Lifestyles Of Health And Sustainability)とは、地球環境保護と健康な生活を最優先し、人類と地球が共存共栄できる持続可能なライフスタイルと、それを望む人たちの総称です。]とまぁ、地球に優しい、地球のためなら金を惜しまないぞ、みたいなアレです。エコライフとかスローライフとか、手を変え品を変え環境破壊を考えくい止めるみたいなゼスチャーを繰り返す、あの怪しげな宗教のようなものの一環ですね。
もう、誰も本気で考えてないよね。
子供のいない僕が、こんなこと言ってもしょせん関係ないような話しではあるんですけどね、ノンケ諸君もこんなんで良いのか?とちょっと聞きたくなったりするんですよ。


まぁねぇ、こんな風に、自分の首を絞めるような行為やらなんやら、何でも金になっちゃう世の中ですから、こんな事でいちいち驚きあきれていてはいけないんでしょうね。
だってね、ロンドンのオークションサイトには、アメリカ人が鯨の魂を出品してるくらいなんですから。

なんでも、オークションサイト「eBay」に出品されれた品は、テムズ川に迷いこんで死んでしまったクジラ「100%の魂」だと米ミネアポリス在住と思われる出品者が断言しており、世界中どこへでも送ることができるとしているんだそうですよ。
~~~~~~~~~~~~~
「私はかわいそうなクジラの最期の旅に同行した者です。彼は私に魂を手渡し、他のクジラを救う資金を得るために自分の魂を売って欲しい、と訴えたのです」と商品紹介に書いている。しかし、出品者はクジラの性別を間違えて「彼」としている。迷い込んだのはメスのキタトックリクジラだ。

~~~~~~~~~~~~~

さすが、環境保護に熱心な国だけのことはありますね。
あ~っ、なぜだかものすごくイライラするぅ~っっ!!


あくまでもネタですから.....

2006-02-13 15:23:18 | ノンジャンル

あぁん、可愛い顔して腹黒い!


直立するレッサーパンダの起源は韓国にある」というお話し。
ちょっとだけ抜粋してみよう。
~~~~~~~~~~~~~~
韓国に初めてレッサーパンダが入ってきたのは、330年頃の高句麗、百済、新羅の三国志時代。当時の中国から仏教などの文化とともに伝えられたレッサーパンダは、三国を統一した新羅のもとで仏教の影響を強く受けた文化が発達する中、主に高級官僚などの間で重宝されていたという。そして、この当時の文化を伝える文献『新羅仏文伝』には、宮殿内で直立する芸を披露するレッサーパンダが挿絵つきで紹介されているとのこと。
 
 韓国レッサーパンダ研究の第一人者である朴鄭邦さんは、「歴史的文献にも残っているように、韓国ではかつてから直立するレッサーパンダが朝鮮民族の希望と勇気の象徴として愛されてきた。今、日本で話題になっているレッサーパンダも、韓国レッサーパンダの文化と伝統の血を受け継ぐものでしょう。」と断定する。
~~~~~~~~~~~~~~

無害なお話しで、ほのぼのしますねぇ。
この記事を紹介してるサイトは、なんでも「【社会】信憑性の無い新聞ランキング、当紙が1位(7/9)」だそうですが、この話題さえもネタなのかも知れません。
ご自分の目と脳味噌で判断してみてくださいね。

一方、こちらはネタではありません。
......ゲームでリセットできるから(約7・2%).....
長崎県教委:「人、生き返る」15% 小中学生、死の現実感希薄--3600人調査.
以下抜粋

~~~~~~~~~~~~~~
ついで「死んだ人が生き返ると思うか」の設問では、全体では「生き返る」と答えた子どもが、約15%だった。小学では「そう思う」ものが約13%であるに対し、中学では約18・5%が「生き返る」と返答している。その理由を聞き取りしたところ、
1) テレビや映画等で、生き返るところを見たことがある、
2)生き返る話を聞いたことがある、
3)ゲームでリセット(約7・2%)できるから、となっている。

さらに、中学の場合、
「医学が発展すれば死んでも生き返ることができると思う」
「幽霊が生き返ると思うから」
「愛があれば死んだ人が生き返ると思うから」
「人は生まれ変わることがことができると思うから」
といった周囲からの影響を答える者が多かった。

小学生では、
「奇跡が起こるかもしれないと思うから」
「祈れば人は生き返ると思うから」
「信じたいから」
「動物の命を人に移したらできるかも知れないから」
といったものが見られた。
~~~~~~~~~~~~~~

子供の時にインプットされた話しは、なかなか抜けないものだ。
大人になって、表面的には否定するようになっても、心の底にある感覚はなかなか変わらない。
僕も、大学を卒業するまで、心の底に鉄腕アトムが棲んでいた。
もちろんこれは、シャーマニスティックなというかアニミズムの変形なのだが。
つまり、主人公は絶対に死なないってやつ。
それは人類に普遍的に分布する神話の根幹をなしている。
もっとも、このイディオムが深層心理に焼き付いているからこそ、人は何度でも戦争に出掛けることが出来るのだね。
どんな戦火の中をかいくぐっても自分だけは生きて帰れると、そう言う感覚は理屈ではなく、心の底に巣くっているものなのだ。
で、僕は、その感覚を徹底的に抹殺せざるを得ない状況に置かれ続けたために、ついに自分だけが生き残るなどと言うことは幻想に過ぎないのだと、心底思うようになったのだった。
それには、たっぷり3年かかったね。


そして、これはもはやネタなどと笑っていられない話し。
~~~~~~~~~~~~~~
進化論には科学的根拠がある」と理解するアメリカ人は僅か35%
ギャラップ社の最新米国世論調査によると、進化論に関するアメリカ国民の意識は以下のとおり:

*「ダーウィン進化論には科学的根拠がある」---35%
*「ダーウィン進化論はひとつの理論に過ぎず、科学的根拠に欠ける」---35%
*「進化論についてよく知らないので質問に回答できない」---29%
*「人類はおよそ1万年前に神によって創造された」---45%

また、同調査によると、「聖書に書かれた言葉は神が実際に言われたことで、一言一句そのまま解釈すべき」と回答するアメリカ人はアメリカ全体の1/3を占めるという。


神が地球を創造されてから6日間のうちに恐竜も創られた」ジョージア州で教育機関を中心に大量配布されているステッカー
~~~~~~~~~~~~~~
だそうですよ。
州によっては、進化論を教えることが違法行為だったりするってな話しを、かれこれ30年も前に読んでぶっ飛んだことがあったけど、状況は変わってないみたいね。

盆と正月とクリスマスとバレンタインと、何でもありの日本では、こういう排他性というか一義性の徹底ぶりは理解しにくい感覚だと思うんですが、いかがなものでしょうか?
こういう感覚の違いを理解した上で、色々話しをしなければいけない局面に追い込まれたことは、幸いなことにこれまでないんですけど。
大抵は、相手が表面的に取り繕おうと、大人な対応をしてくれますからね。

でも、心の底では「こんな極東の黄色いサルに、神の深淵なんぞ理解できるはずもない」なんて、手加減されてるんですから、なんだか居心地悪いです。



時代の終わり

2006-02-12 15:54:08 | ノンジャンル

昨年だったかのお誕生会での一風景です。
ちょっと気に入ってるショットなのだ。
91歳だったのね、亡くなったのは。
日本では、怪獣映画の作曲家ぐらいにしか思われてないかも知れないけど、ラヴェルに作品を見てもらいたいばっかりにコンテストに出品して1位をとってしまうなんて人。
しかしそう言う才能をつぶすことに掛けては日本は労力を惜しまない国。
そのコンテストへの作品の出品さえも、彼がアマチュアだからと言うことで、日本の事務局が外そうとしたエピソードもあるくらい。

誕生会の時に記事をアップしようかと思ったんだけどね、この辺のことを調べてて心底いやになってしまったのだよ。
人の足を引っ張る暇があったら、少しはまともな作品を書け!と、そう言いたいです。

先日のコンサートは、弟子やら孫弟子のコンサートでもあった訳で、何というか、感無量です。


去年見つけた素敵なサイトが、さっき見たらキャッシュしか残ってませんでした。
ちょっと抜粋。

「芸術を志す者は、たとえ田んぼの中の地蔵の頭の上に、カラスが糞をたれた情景を見ても美を感じるだけの感性がなければならない」
後にアカデミズムの総本山の東京芸術大学の教壇に立った時の彼の言葉だそうですよ。

で、この記事もリンク切れで、去年保存した分しか手元にありません。
全部保存しとくんだったなぁ。
もう読めるところもないようなので、全文引用しておこうと思います。
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伊福部 昭の肖像
福岡雅巳


「厚岸{あつけし}」

景運山国泰寺は文化元年(1804)、徳川幕府直轄の寺として、アッケシ場所に設置された歴史的な寺院である。
5月になると、敷地いっぱいにアツケシザクラが咲いて、道東有数の観光の名所として知られている。
アツケシザクラは学名を「Prunus Sergenti Reld form Ifkubei Tatewaki form nuv」という。これは、植物学に詳しい伊福部が、国泰寺付近で発見し、北大の館脇操博士が新種と認めたところから、二人の名がついたものである。
わずか21歳で、世界的に注目を受けた伊福部昭は、厚岸の林務官として、林業労働者たちとともに、雪深い山の中に働いていた。
当時のグローヴ世界音楽事典には、世界最年少の作曲家として、伊福部昭の名が記されている。
AKIRA Ifukube、Japan Birth.1914.3.7 ────。
誕生日が、実際と異なっているのはわけがある。
伊福部の父が、早く学校にあがらすために、戸籍上で3月5日を誕生日にして届け出てしまったというイキサツがあった(当時は道東ではよく行われていた)。

『日本狂詩曲』のボストンでの初演の時、「どうせ作った誕生日なら、モーリス・ラベルと同じ3月7日にしたらカッコいいじゃん」と、三浦淳史が勝手に生まれた日を変えて出してしまい、それが世界に知られてしまったからである───。
 これほどの、目のくらむほどの栄光を手にしながら、伊福部には、作曲家になろうという意志は無かった。
 東京の楽壇では、伊福部昭の音楽に対して「土俗的で野鄙なもの」「外国人のフジヤマ・ゲイシャ趣味におもねるもの」と厳しい批判が与えられ、無理解な状態が続いていた。

当時のアカデミズムから見れば、規範となるべき西洋の音楽から大きく離れた伊福部のスタイルは、とうてい容認できるものではなかった。そして、それが当時の芸術愛好家たちの一般的な態度でもあった。
のちに書いた本の中で、伊福部は、その芸術に対する欺瞞性を厳しく指摘している。
「たとえ自分がある作品から直接に強烈な印象なり感動を受けたとしましても、これを決して最終的な価値判断の尺度とすることはなく、より権威があると考えられる他人の意見、いわば定評に頼ろうとする態度からは、自主性のない審美感しか学び得ないでしょう」「この審美感は、あるいは立派な教養として通用するかも知れませんが、もはや、本当の意味では審美感と呼びえないことは明らかであります」(『音楽入門』1951)

このころ、来日したチェレプニンに横浜で会い、一ケ月ほど和声の手ほどきを受けた。
下宿にしていた五味旅館の一室で、ランプの灯の下、作曲法を教えてくれたチェレプニンに献呈する室内楽曲『土俗的三連画』を書いている。
アカデミズムの批判を逆手にとったタイトルの作品であった。
伊福部はこの中で、厚岸に生きる人々の姿を音楽で写し取った。
第1章「同郷の女たち」では漁港で忙しく働くたくましい女たちを────、
第2章「ティンベ」では、アヤメがいっぱいに咲く原野の果てにある、アイヌが和人に追われて崖から落ちて死んだという悲しい伝説の残る岬の印象的な情景を────、
第3章「パッカイ」では、アイヌの古老が酒に酔って歌い踊るユーモラスな情景を─────。
辺境の地から送られた鮮烈な音響世界は、中央の楽壇を驚かせ、作曲を志す若者たちの心をひきつけた。
「芸術を志す者は、たとえ田んぼの中の地蔵の頭の上に、カラスが糞をたれた情景を見ても美を感じるだけの感性がなければならない」
後にアカデミズムの総本山の東京芸術大学の教壇に立った時の彼の言葉である。
伊福部にとっては、厚岸に生きる人間たちの生活が、彼が求める『芸術』と表裏一体のものなのであった。



鳥三昧

2006-02-11 19:34:00 | ノンジャンル

サントリーホールで、都響のコンサートを聴いてきたです。
レスピーギの組曲「鳥」と、コダーイの「飛べよ孔雀による変奏曲」、ディーリアスの「春初めての郭公を聞いて」、そして、ストラビンスキーの「火の鳥」(1945年版)。アンコールはヨハンシュトラウスの「クラップフェンの森」。

ホントにもう、鳥づくしでした。

レスピーギは、雌鳥のテーマとか、かなりメリハリを強調した演奏。
颯爽とした感じで良かったね。

コダーイの、あの独特のメロディーの受け渡しは、ホントに素敵。
終曲のほとばしる歓喜には思わず涙が出そうになるくらい。

ディーリアスは、意外に早めの演奏で拍子感を強調してましたね。
まぁ、それもまた面白い。
それにしても、やっぱりあの出だしのCメジャーセブンスが協和音として現れるあたり、透き通った晩春の空気と森林の湿度を感じさせます。
天才だよねぇ。

ストラビンスキーの「火の鳥」は、このバージョンでは切れ目無しに演奏されるし、普段あんまり聞けないエピソードがいくつか入ってるんで、ちょいとお得気分を味わいました。
火の鳥の飛んでくるところのあの低音が好きでねぇ。

ヨハンシュトラウスは、郭公笛や鳥笛が可愛いほっとするポルカでした。
あぁ~ん、弾いてみたい曲です。
でもね、こういう曲ってさぁビオラパートって大抵あと打ちだけなんだよねぇ。
んっぱっ、んっぱっ、んっぱっぱっぱっ....以下えんえんとこんな感じの繰り返し。
悲しいわ。

そうそう、このアンコールの最後の土壇場でね、突然指揮者が曲を止めて捜し物を始め、靴下の中から鳥笛を取り出して演奏再開。
指揮棒を振りながら自らもピヨピヨピヨって始めるという、なかなかお茶目な演出でした。