くまえもんのネタ帳2

放置してたのをこちらに引っ越ししてみました。

時代の終わり

2006-02-12 15:54:08 | ノンジャンル

昨年だったかのお誕生会での一風景です。
ちょっと気に入ってるショットなのだ。
91歳だったのね、亡くなったのは。
日本では、怪獣映画の作曲家ぐらいにしか思われてないかも知れないけど、ラヴェルに作品を見てもらいたいばっかりにコンテストに出品して1位をとってしまうなんて人。
しかしそう言う才能をつぶすことに掛けては日本は労力を惜しまない国。
そのコンテストへの作品の出品さえも、彼がアマチュアだからと言うことで、日本の事務局が外そうとしたエピソードもあるくらい。

誕生会の時に記事をアップしようかと思ったんだけどね、この辺のことを調べてて心底いやになってしまったのだよ。
人の足を引っ張る暇があったら、少しはまともな作品を書け!と、そう言いたいです。

先日のコンサートは、弟子やら孫弟子のコンサートでもあった訳で、何というか、感無量です。


去年見つけた素敵なサイトが、さっき見たらキャッシュしか残ってませんでした。
ちょっと抜粋。

「芸術を志す者は、たとえ田んぼの中の地蔵の頭の上に、カラスが糞をたれた情景を見ても美を感じるだけの感性がなければならない」
後にアカデミズムの総本山の東京芸術大学の教壇に立った時の彼の言葉だそうですよ。

で、この記事もリンク切れで、去年保存した分しか手元にありません。
全部保存しとくんだったなぁ。
もう読めるところもないようなので、全文引用しておこうと思います。
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伊福部 昭の肖像
福岡雅巳


「厚岸{あつけし}」

景運山国泰寺は文化元年(1804)、徳川幕府直轄の寺として、アッケシ場所に設置された歴史的な寺院である。
5月になると、敷地いっぱいにアツケシザクラが咲いて、道東有数の観光の名所として知られている。
アツケシザクラは学名を「Prunus Sergenti Reld form Ifkubei Tatewaki form nuv」という。これは、植物学に詳しい伊福部が、国泰寺付近で発見し、北大の館脇操博士が新種と認めたところから、二人の名がついたものである。
わずか21歳で、世界的に注目を受けた伊福部昭は、厚岸の林務官として、林業労働者たちとともに、雪深い山の中に働いていた。
当時のグローヴ世界音楽事典には、世界最年少の作曲家として、伊福部昭の名が記されている。
AKIRA Ifukube、Japan Birth.1914.3.7 ────。
誕生日が、実際と異なっているのはわけがある。
伊福部の父が、早く学校にあがらすために、戸籍上で3月5日を誕生日にして届け出てしまったというイキサツがあった(当時は道東ではよく行われていた)。

『日本狂詩曲』のボストンでの初演の時、「どうせ作った誕生日なら、モーリス・ラベルと同じ3月7日にしたらカッコいいじゃん」と、三浦淳史が勝手に生まれた日を変えて出してしまい、それが世界に知られてしまったからである───。
 これほどの、目のくらむほどの栄光を手にしながら、伊福部には、作曲家になろうという意志は無かった。
 東京の楽壇では、伊福部昭の音楽に対して「土俗的で野鄙なもの」「外国人のフジヤマ・ゲイシャ趣味におもねるもの」と厳しい批判が与えられ、無理解な状態が続いていた。

当時のアカデミズムから見れば、規範となるべき西洋の音楽から大きく離れた伊福部のスタイルは、とうてい容認できるものではなかった。そして、それが当時の芸術愛好家たちの一般的な態度でもあった。
のちに書いた本の中で、伊福部は、その芸術に対する欺瞞性を厳しく指摘している。
「たとえ自分がある作品から直接に強烈な印象なり感動を受けたとしましても、これを決して最終的な価値判断の尺度とすることはなく、より権威があると考えられる他人の意見、いわば定評に頼ろうとする態度からは、自主性のない審美感しか学び得ないでしょう」「この審美感は、あるいは立派な教養として通用するかも知れませんが、もはや、本当の意味では審美感と呼びえないことは明らかであります」(『音楽入門』1951)

このころ、来日したチェレプニンに横浜で会い、一ケ月ほど和声の手ほどきを受けた。
下宿にしていた五味旅館の一室で、ランプの灯の下、作曲法を教えてくれたチェレプニンに献呈する室内楽曲『土俗的三連画』を書いている。
アカデミズムの批判を逆手にとったタイトルの作品であった。
伊福部はこの中で、厚岸に生きる人々の姿を音楽で写し取った。
第1章「同郷の女たち」では漁港で忙しく働くたくましい女たちを────、
第2章「ティンベ」では、アヤメがいっぱいに咲く原野の果てにある、アイヌが和人に追われて崖から落ちて死んだという悲しい伝説の残る岬の印象的な情景を────、
第3章「パッカイ」では、アイヌの古老が酒に酔って歌い踊るユーモラスな情景を─────。
辺境の地から送られた鮮烈な音響世界は、中央の楽壇を驚かせ、作曲を志す若者たちの心をひきつけた。
「芸術を志す者は、たとえ田んぼの中の地蔵の頭の上に、カラスが糞をたれた情景を見ても美を感じるだけの感性がなければならない」
後にアカデミズムの総本山の東京芸術大学の教壇に立った時の彼の言葉である。
伊福部にとっては、厚岸に生きる人間たちの生活が、彼が求める『芸術』と表裏一体のものなのであった。