兜松とありますが、名前が彫られている木が、‘兜松’ みたいです 1548(天文17)年 上田原合戦の時に、武田信玄公と、真田幸隆[幸村の祖父]が、この松の木に兜をかけたそうで、枯れた松に名前を彫って飾ってあるみたいです
真田神社の拝殿の横 写真の左の絵馬は、2021年 2月28日。 上田西高校の美術部制作した絵馬が奉納されました 高校創立60周年 と 選抜高校野球大会に出場する野球部の必勝を祈願 されています 悪疫退散のご利益があるとされるアマビエが描かれた、縦120センチメートル・横240センチメートルの大きな絵馬です 写真右の絵馬は、2019年12月25日に美術部が制作して、奉納された絵馬 2020年の3月に全国選抜レスリング大会に出場する、レスリングを祈り、レスリング部を象徴する虎と不死鳥が躍動的に描かれています
真田神社がある上田城跡公園内にあった、上田城は、第一次と第二次上田合戦で、“落ちなかった城” “落ちなかった城” にあやかって、合格祈願にとお守りを買う人で、人気の神社だそうです 拝殿の神社幕には、真田氏の六文銭は、写真が写っていますが、他の方のブログによると、六文銭の左には、松平氏の五三の桐 右には、仙石氏の永楽通宝が染め抜かれているそうです
真田神社の鳥居が見えてきました 起源は、1669(寛文9)年の江戸時代中期 上田城主 1583年に築城し、1622年まで城主だった真田氏 1622年~1706年の間、現在の長野県の小諸藩から移封された仙石氏 1706年~廃藩置県の1869(明治2)年の間。 現在の兵庫県豊岡市の出石藩から移封された、徳川一族の藤井松平氏 その藤井松平氏の初代 忠晴公[忠山公]は、1669年に亡くなり、墓所は、京都の金戒光明寺。 御霊を祀る忠山社が、光明寺の中に設けられ、その御社が、真田神社の起源となります 1953(昭和28)年 真田氏と仙石氏と松平氏の歴代の全城主を合祀して、松平神社から上田神社に改称し、1963(昭和38)年に、真田神社に再度、改称されたそうです
真田石 真田信繁(幸村)の兄、真田信之が、松代移封の際に、父の真田昌幸の形見として持ち運ぼうとしたら、不動であったという伝説を持つ、高さ2.5メートル・幅3メートルの大石 大きい石は、力と権力の象徴だったのではないかとも云われているそうです この真田石の他、場内の石垣位に使われた石材の大部分は、市街地の北方にそびえる太郎山産の緑色凝灰岩を使用しています 真田石の上部には、北櫓があります
顔ハメパネルの奥には、東虎口櫓[ひがしこぐちやぐら]門と左側には南櫓 虎口とは 城の出入り口の事 明治時代には、民間に売却されていた南櫓と北櫓は、明治11年までに移築され、上田市の北方の太郎山麓に設置された上田遊郭として、‘金州楼’・‘万豊楼’ という遊女屋(貸座敷)と利用されていました 櫓は土蔵より使い道がなくて、土蔵は240円の払い下げ価格がつき、市内に、穀蔵一つとして移築された土蔵が残っているそうです 櫓は売れずに、1棟6円で分売されたそうです 1949(昭和24)年 南櫓と北櫓が。 1994(平成6)年 城門が復元され、かつての東虎口櫓門の姿がよみがえりました 1585年の第一次上田合戦では、徳川軍が、この門の前まで攻めてきたそうです 第一次上田合戦 真田軍2000に対して、徳川軍は7000でしたが、様々な罠で徳川軍を撤退させました 東虎口櫓門の前には、桜が植えてあり、上田城跡公園内の敷地には、約1000本の桜があり、4月上旬から中旬には、‘上田千本まつり’ が開催されるそうで、桜が綺麗だそうです