story・・小さな物語              那覇新一

小説・散文・詩などです。
那覇新一として故東淵修師主宰、近藤摩耶氏発行の「銀河詩手帖」に投稿することもあります。

おかんが逝った

2018年02月25日 08時29分49秒 | 日記

平成三十年一月二十三日、午前六時二十八分、医師が母の死亡を確認した

おかん、もしかして死んでもたんか、死んどるんか
なんや、気持ちよさそうに寝とるやんか
息してるで、ほら、少し動いとうやん、動いとおよう見えるやん

「これは心肺停止っちゅうことですか」
分かり切ったことを、必死に感情を殺しながら仕事をするナースに問う
いつもはニコニコして感じの良い美人ナースだが
この時ばかりは悲しさと真剣さの厳しい顔だ

「そうです、先生が確認次第、死亡ということになります」
ちゃうわいな、寝とるんやで・・ぜったいそうや・・
そやけど、さっきから心電図モニターから、ピー!って煩いんや

そこへ息を切らせて走ってきた若い医師
聴診器を当て、瞳孔を見て、母の額に手を当てて
「六時二十八分、ご臨終です」と言って頭を下げはった

おかん、ゆうべ、ワシがここで晩飯食わせたやんか
おかん、そのとき、なんでか起きとるのに鼾掻きながら
息をするのが少しえらそうやったけど、ペースト状の晩飯全部食ったやんか
おかん、脚が痛いゆうさかい、ワシが脚を揉んだやろ
気持ちええって、ほとんど出えへん声でゆうたやないか
んで、めっちゃ眠そうやったさかい、美空ひばりのCDセットして
おかんの耳にイヤフォン差し込んで「東京ブギウギ」が流れたの確認して
「これでええか」ゆうて訊いたら満足そうに頷いたやんか
おかん、おでこの熱が下がっていくんや、おでこが冷えていくんや
おかん、ちょっと急やろが、もうちょい待たんかいな

昭和十二年五月十二日、満州国奉天で国際航路の上級船員の娘として生まれ
戦争のきな臭さを感じた両親によって神戸に連れてこられ
それでもまだ裕福な家の一人娘だった母

神戸の空襲で親族のあらかたが死に絶え
唯一残った実母と貧乏のどん底を味わうようになり
そして散髪屋の住み込みをしているときに
大阪から修行に来ていた父と出会い同棲を始めたという
そこからは驚くほどに多産で、十人の子を身ごもり八人を生み
六人が生き残り、それが我らが兄弟姉妹だ
父は酒がもとで母と六人の子を残して早世し
以後はほとんど苦しみの連続だったかもしれない母の
それでも、生来の良家の子らしく、物事に動じず
淡々として受け止めていくその強さとある意味の剽軽さが
母を助けたのかもしれない

おかん、二十八年前、脳内出血で死んだかと思ったのに
お医者もびっくりする回復で、見事に蘇ったよな
おかん、十年前、腎臓がもうだめで、いくらも生きられないといわれたときも
透析を受けることでワシらの前に居ってくれたな
おかん、三年前、もうホンマにアカン・・そない思わせといてまた蘇ったな
おかん、今度はなんで蘇らへんのや
また二三ケ月したら、ベッドの上から立ち上がるんちゃうんか
・・・おかん

額はますます冷たく、母は帰らぬ人となった
実父の面影を大きな客船に見ていた母にとって
明石海峡がよく見える病院が最後の住まいとなったのは
これは偶然ではないのだろう


(銀河詩手帖287号掲載作品)

コメント (4)
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