紅旗征戎

政治、経済、社会、文化、教育について思うこと、考えたこと

自己評価と他者評価

2005-03-22 17:11:12 | 教育・学問論
大学教員は研究者であると同時に教育者である。英語ではstudentというと学生という意味と同時に「~について研究する人」の意味がある。私のアメリカ時代の先生も今は名誉教授になられた人だが、未だに"as a student of American government(アメリカ政治の一研究者として)"、"as a student of federalism(連邦制研究者として)"といったフレーズを多用している。その意味では小学校や中学校の先生と違い、教える内容についてもまだ学びつづけているstudentでもある(もちろん小中学校の先生も授業研究を日々なさっていると思うが)。従って学生に「こうしなさい」と教えていることはそのままま自分に跳ね返ってくることなので、よほど自信過剰な人はともかく、かなり割り切らないと自己嫌悪に陥ることもある。そこで自分を棚に上げて言わせてもらえば、正しく「自己評価」することほど難しいことはないと思う。

日頃、様々な学生に出会い、進路や研究テーマなどについて相談を受けることが多いが、私の周りの学生は自信過少で謙虚な学生は稀であり、どちらかというと自信過剰か、あるいは客観的評価よりも自己評価の方がかなり高い学生が多い。従って相談に来る場合も、悪い点を指摘してもらいたくて来る場合よりも、「自分はこう考えたけど、これでいいでしょう」と承認を求めに来るケースが多く、問題点を指摘するとあまり聞かないか不服そうにして帰っていく。その場合も二通りあって、その場では反論したが、一応こちらの指摘した点を直して、よい結果を得る学生もいれば、最後までそのままの学生もいる。

自分自身の大学院時代を振り返っても、当時の指導教授に言わせれば私も言うことを聞かない方の学生だったといわれるだろう。聞かないのか聞けないのか、これもいろいろなケースがあると思う。一つはいいアドバイスをもらっても能力的にも時間的にもそれに従えない場合である。これは私自身も学会報告でコメントされても十分生かせないこともあるのでよくわかる。もう一つは人の話を聞かない場合である。私は学生の話であれ、同僚の話であれ、なるべく聞くようにしているつもりだが、頑固に自分の殻を破らない若い学生も少なくない。

確かに厳しいコメントや指摘を受け止めるにはかなり自我がしっかりと確立してなければならないので、聞かないことで防御しているかもしれないが、本人が考えているのと違うことを指摘するととたんに欠席しだしたり、避ける学生もいる。「ほめて伸びる」学生と「叱って伸びる」学生を見抜くことが教育者にとって大切だというが、「叱って伸びる」学生の数はかなり少なくなってきているのではないだろうか?同時に「ほめても伸びない」学生も少なくないのかもしれない。就職活動や進路選びでも自分に見合った進路を選び、そのために着実な努力を行なうことを怠って、「自分はこんな仕事をやりたくない」「自分はそんなところに行く人間じゃない」という者も少なくないが、自己評価と他者評価のギャップがある場合は、そのギャップをまず把握して、溝を埋める努力をしないといけないだろう。自己評価と他者評価の問題は我々の日頃の研究にも密接に関わっているが、同時に教育の大きな課題でもある。


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