困ったことに学者の場合は、自分がやっている分野が他の分野よりも優れているか、有意義だと思っていることが多い。一番優れていると自惚れている人もいるかもしれない。だからこそ、その分野を選択して長年、研究してきたのだろうが、学生や雑誌投稿論文を評価する際にもどうしても自分の学問分野の基準で判断しようとする傾向が強くなってしまう。
私が大学院時代に政治学の論文を書く時に注意されたのは、なるべく直接引用を避けることや、引用する場合も引用文をできる限り簡潔にすることだった。毒舌だった指導教授は、「長く引用するのは他人の原稿で原稿料を稼ぐ、詐欺みたいなものだ」と言っていた。
ところが日本の英文学の論文を見てみると、文学研究の性格上か、やたらに小説の直接引用があるばかりか、自分で日本語に訳した文章を載せるのではなく、英語の原文そのものを載せている。これだと書いている本人もその英文を正確に読めているのかどうかすら、判別できない。そうした英文学でトレーニングを受けた教授の指導の元で、例えば現代イギリスの社会問題について論文を書く学生が、同じように、イギリス社会についての社会科学的な研究書の文章をそのまま原文で引用してしまったりする。実証的な社会科学の場合は文章の美しさや押韻などはどうでもよく、データとその説明が正しいかどうかが重要なので、英文の原文を引用されても意味がないだけでなく、評価が下がってしまう。直接引用しないで、消化して(もちろん日本語で)要約せよ、ということになる。
このように文学と社会科学のように、全く違うディシプリンの間だとその壁が極めて厚いのは当然だが、「政治学」という一つの学問分野内部でも根深い対立がある。例えば征韓論をめぐる明治時代の政治家たちの対立を「ゲーム理論」で説明した論文があるとする。近年のアメリカ政治学のように、なるべく自然科学に近いように、同じデータさえ与えられれば、自然科学の実験のように再確認が可能であることが望ましいとされてくると、ゲーム理論を政治史に当てはめるような、一見、突飛な研究も出てくる。しかし伝統的な歴史学者からすれば、こうした数理モデルを使った研究は、「西郷隆盛の~年~月~日の発言を踏まえていない」とか、細かい史実から批判することはいとも容易いだろう。そうした実証的な歴史学者にすれば、一次史料を使わず、抽象モデルを使った説明など何の意味もないように思うに違いない。事実の発掘そのものに関心をもつ歴史学者と、法則性の発見をより重視する社会科学者の違いだともいえる。
統計データを使った計量分析は、経済学や社会学ではすっかり定着しているが、歴史や思想系研究者が依然として強い発言力をもっている日本の政治学界では選挙研究以外の分野ではまだまだ根強い抵抗があり、「計量分析を行なう人は数字ですべて説明できると思っている」、「計量分析による結果は、『保守的な有権者が自民党に投票している傾向が確認出来た』とか、調べなくても分かるような結論ばかりだ」といった発言がしばしば聞かれる。
しかし例えば後者について言えば、「保守的な有権者が自民党に投票する」という「仮説」が実際の選挙データで「どの程度」当てはまるかどうかを確認することに学問的な意義があるのであって、確認できれば、そうした「常識」が科学的にも実証された、ということになるし、もし確認できなかったり、部分的にしか当てはまらなければ、「なぜその選挙データに当てはまらないのか」についてさらなる研究や考察が深まる契機となって学問の発展につながるのである。「調べなくても分かる」というのは、非科学的かつ非学問的態度と言わざるを得ないだろう。
また「数字で全てを説明できると思っている」という非計量系研究者の批判も妥当ではない。なぜなら統計学や計量社会科学の場合は、まさに何をどの程度、説明できるか、できないかを数字で確認しているのであって、計量分析者ほど「数字で説明できない限界」に敏感な人たちはいないからだ。むしろ911以後のアメリカや世界を「帝国」という大雑把なキーワードで説明しようとしたり、「グローバリズム」、「支配」、「権力」、「システム」、「デモクラシー」といったビッグ・タームを多用する思想系の研究者の方が、「言葉(概念)が世界を変える」という思いに囚われすぎているせいか、一つのキーワードで複雑な社会現象を説明しきれるかの幻想に浸っているように見える。
社会調査や社会科学方法論で習う、おなじみの言葉に「説明変数(独立変数)」と「被説明変数(従属変数)」がある。数学の関数でいう、XとYに当たるのだが、例えば「親の所得水準」が「子供の最終学歴」に与える影響を調べるとすれば、「親の所得」がX(独立変数)で、「子供の最終学歴」がY(従属変数)ということになる。この独立変数と従属変数で考える習慣をつけると、社会科学的にモノを考えられるようになるだろう。
先ほどの学問分野の違いで議論がかみ合わない話に戻すと、例えば歴史学者は歴史が好きで、重要だと考えるから歴史を研究し、経済学者は経済が重要だと考えて研究している。例えばブッシュ大統領が2004年11月に再選されたという同じ現象(従属変数)を見る場合も、経済学者はアメリカの景気動向から選挙結果を説明しようとしたり、歴史学者がアメリカの草の根の保守主義の伝統から説明したりする。経済学者は「経済が分からなければ、政治はわからない」というし、歴史学者は「歴史が分からなければ、現代政治はわからない」と言うだろう。実際には、それぞれの学者が自分の分野での独立変数を使って説明しているに過ぎず、別の独立変数を使えば、全く違った説明ができるのである。その自覚が少ない学者が多い気がする。
現代アメリカ外交の事例を「孤立主義」の伝統との関連で説明する人もいるかもしれないが、それはあくまでもその人が「孤立主義」というレンズから眺めているから、そう見えるのであって、レンズをかけることでかえって見えなくなることも少なくないはずだ。安易な経済還元主義、歴史還元主義の危険性はここに潜んでいる。
違った分野や、違った方法論を使った人々同士で研究についての建設的な対話を行なうためには、まず、自分はある角度からの説明を試みているに過ぎないという「限界」の自覚が必要だろう。私が計量分析を学んで一番有用だったのは、「どの程度」説明できるかという「程度」の問題に敏感になったことである。「帝国」という言葉でアメリカ外交を説明している人たちは、「全て」を「帝国」という言葉で説明しようとしていて、どの「程度」説明できて、できないのかについて明らかにしていない。それでは「テロリストの側につくか、我々の側につくか」と世界を暴力的に二分化したブッシュ大統領のレトリックと同レベルの単純さだと言わざるを得ないだろう。
もちろん自分野の社会的有用性をアピールする必要もあるだろうから、分かっていてあえて議論を単純化して、自分が得意な「独立変数」で全て説明できるような顔をしている人もいるかもしれない。複雑な社会を単純化して説明するのも社会科学の役割の一つである。しかし相互に関連しあった社会現象をより正確に理解するためにはなるべく複数の独立変数を使って説明した方が結局は理解しやすいだろう。「何」を「何」によって、どの「程度」説明できているのかに注目することで、自分の専門外の研究書も批判的に、より科学的に読むことができるようになるだろう。