紅旗征戎

政治、経済、社会、文化、教育について思うこと、考えたこと

2008年に聴いたコンサート(1)

2009-03-09 00:18:41 | 音楽・コンサート評

年内にとりあえず昨年聴いたコンサート評をまとめようと思っていたが結局できず、1月に書こうと思っているうちに3月になってしまった。コンサートの感想は印象が新鮮なうちに書かないと意味がない気がするが、「結晶作用」(スタンダール)もあるかもしれないので、とりあえずざっとまとめてみたい。

2008年2月には、ドイツの名門オーケストラ・ライプチヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の公演に行く予定だったのだが、首席指揮者のリッカルド・シャイーの急病で来日中止になってしまった。その結果、昨年、最初に行ったコンサートは、3月のBBCフィルハーモニックの大阪公演(3/15 フェスティバル・ホール)となった。曲目は、ストラヴィンスキー「妖精の口づけ」よりディベルティメント、シベリウス「ヴァイオリン協奏曲」(ヴァイオリン ヒラリー・ハーン)、そしてベートーヴェン「交響曲第7番」だった。指揮は、まだ33歳のイタリア出身の首席指揮者ジャナンドレア・ノセダだった。

何故だが説明することはできないのだが、私にとってイギリスのオーケストラはどれもピンと来るものがなくて、ロンドン交響楽団とか、フィルハーモニア管弦楽団とか、世間で名盤と呼ばれるものはいくつも出ているのだが、個人的に心を惹かれるものがほとんどない(あえて言えば故クラウス・テンシュテット指揮のロンドン・フィルによるベートーヴェンやブラームスくらいだろうか)。それでも今回、イギリスの公共放送のBBCがもつ三つのオーケストラの一つで、マンチェスターをベースとするBBCフィルの演奏を初めて聞いて、十分堪能できた。

ストラヴィンスキーのこの曲は初めてで、チャイコフスキー風の曲だなと思ったが、講演プログラムを見てみると「チャイコフスキーの書法を真似て・・・」と解説してあり、印象通りであった。シベリウスの独奏は女性の若手ヴァイオリニストとしては実力ナンバー1といってもいいかもしれない、ヒラリー・ハーンだったが、彼女の特徴であるのだが、技巧は完ぺきだが、情緒的な表現を避けた、ドライでハイスピードなヴァイオリンで、シベリウスとしては少し物足りなく感じた。あまり演歌調の情緒過剰もよくないかもしれないが、この曲はもっとロマン主義的に演奏した方が私の好みには合うと思った。その点は、昨年12月に来日したフィルハーモニア管弦楽団と共演した諏訪内晶子の演奏の方が(FMで聴いただけだが)、ハーンより情熱的で魅力があるように聞こえた。ノセダの伴奏もやや暴走気味で独奏にうまく合わせているとは言い難かった。ただハーンがアンコールで演奏したバッハの無伴奏のシャコンヌは凛とした響きで、次回は独奏で聞いてみたいと思った。

後半はベートーヴェンの交響曲第7番で、この曲もTVドラマ「のだめカンタービレ」の主題歌になったせいか、来日オケはこればかりやるので困りものだ。しかしノセダの若々しく力強いタクトの下で、疾走感のあるベートーヴェンを聞かせてもらって、普段は自分で進んではあまり聞かない7番を楽しめた。

5月には小澤征爾指揮の新日本フィルの演奏会に行く予定だったが、こちらも小澤の急病で大阪公演は中止となった。25日は、名実ともに世界一の弦楽四重奏団といってもいい、ウィーンのアルバン・ベルク弦楽四重奏団の解散ツアーの大阪公演(於 シンフォニー・ホール)に行った。私にとっては生で聴く最初のアルバン・ベルク四重奏団のコンサートが解散公演となってしまったのは残念だが、解散する前に聞けたことはとてもよかった。曲目は、ハイドンの弦楽四重奏曲第81番、ベルクの弦楽四重奏曲、そしてベートーヴェンの弦楽四重奏曲第15番という渋いプログラムで、ベートーヴェンのラズモフスキー第3番とか、ハイドンの「皇帝」(77番)とか、入門的な曲ではなくて、直球勝負の演奏会だった。古典派と近代の新ウィーン楽派、そして王道のベートーヴェンを組み合わせることによって、弦楽四重奏というジャンルの歴史も概観できるし、この四重奏団の歩みや実力も示せるプログラムだったと思う。

プロの四重奏団の演奏会を聴くのは実はこれが初めてだったのだが、ハイドンを聞いて、なるほど四重奏というのは、第1バイオリンとその他の3人が、ちょうどヴァイオリン協奏曲における、ソリストとオーケストラの掛け合いのように競合しながら演奏していくのかとか、いまさらながらに気づかされた。ベルクの曲も決してとっつきやすいものとは言えないが、弦を積み重ねていく手法で現代人の不安をうまく表現しているように感じられた。ベートーヴェンもこの後期の作品は晦渋な印象を受けるが、オーケストラと違って、4人だけで深遠な思想空間をよくこれだけ表現できるものだと感心させられた。ただ室内楽を大ホールで聴くだけに聴衆のノイズが気になった。オーケストラの入門的な曲をやるコンサートとは違い、こういう渋いプログラムの時は、コンサート初心者は来ないはずなのだが、無神経な咳払いで演奏の音が消される場面も何度かあり、解散コンサートにふさわしくない聴衆のマナーが気になったのが残念だった。

5月30日にはフェスティバル・ホールで、フランクフルト放送交響楽団の公演を聴いた。2007年に聞いた北ドイツ放送交響楽団やバイエルン放送交響楽団など、ドイツの放送オーケストラは実力派ぞろいだが、このフランクフルト放送交響楽団もエストニア出身の若手実力派パーヴォ・ヤルヴィの下で注目を集めている。今回の曲目は、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」(ピアノ エレーヌ・グリモー)、ブラームス「交響曲第2番」だった。

グリモーは、俗な言い方をすれば才色兼備のフランス人で、野生のオオカミの保護活動をしているという個性派でもある。フランス人だが、ラヴェルとドビュッシーといった曲目は見向きもせず、バッハ、ベートーヴェン、ブラームス、シューマンといったドイツ音楽をレパートリーにしていて、新鮮な演奏を聞かせてくれる。 今回の皇帝もドイツ・グラモフォンから新譜をリリースしての披露ツアーだったが、まず印象に残ったのは、演奏前にとても緊張している様子だったことだ。ロシアのプーチン首相に似ている指揮者のヤルヴィは、プーチンさながらにオーケストラを完全に掌握して、一糸乱れぬバックを務めていたが、グリモーは必死にベートーヴェンに取り組んでいるといった印象だった。CDで聴いているとグリモーの演奏は、躍動感があって、軽やかなのだが、実演で見ていると(当たり前だが)ミスタッチもあって、余裕があまり感じられなかった。見ている方がハラハラさせられた。「皇帝」という曲の難しさも理解できた。

後半は、ブラームスの2番だったが、この曲はブラームスの「田園」交響曲などと評されるように、どちらかというとノンビリ、ゆったりと演奏される傾向があり、4曲あるブラームスの交響曲の中では一番、素朴で地味な曲でもある(もちろん異論はあるだろうが)。中学時代にブラームスにはまった私の場合も、当時はこの曲は苦手だった。 フランクフルト放送交響楽団の演奏で、印象的だったのは、弦セクションが、往年のソ連のムラヴィンスキー指揮のレニングラード・フィルのように一糸乱れず、正確で分厚い演奏を展開していることだった。ブラームスの2番がこれほど男性的で力強い曲だとは思っていなかった。アンコールのシベリウスの「悲しいワルツ」も絶品で、思い入れたっぷりの哀愁を帯びた演奏だが、上品さを失わず素晴らしいものだった。ぜひもう一度聴いてみたいと思う指揮者だった。

6月は、まず8日にベルギーのロイヤル・フランダース・フィルハーモニー管弦楽団のオール・モーツァルト・プログラムを聞いた(於 シンフォニー・ホール)。曲目は、いずれもモーツァルト作曲で、歌劇「イドメネオ」序曲、ピアノ協奏曲第20番(ピアノ リーズ・ドゥ・ラ・サール)、交響曲第40番、第41番「ジュピター」と、モーツァルト好きにはたまらない充実したプログラムだった。指揮者のフィリップ・ヘレヴェッヘは、バッハやバロック音楽の研究者としても知られていて、風貌も学者のようで、指揮姿もおよそスター性やはったりはない、地味でそっけないものだが、NHKでも放送されたベートーヴェンの交響曲全集のように、飾らないが説得力のある演奏で定評があるようである。今回の演奏会を聴いてもその印象は変わらなかった。

序曲は今となってはどういう演奏だったか、あまり思い出せないくらいの印象だったが、ピアノ協奏曲20番はとてもいい演奏だった。この曲はモーツァルトでは数少ない短調の曲で、しかもカデンツァはベートーヴェンが作ったものが一般演奏される、モーツァルトのピアノ協奏曲の中では最も「ベートーヴェン」的なもので、人気曲の一つである。 今回のソリストのリーズ・ドゥ・ラ・サールは、初めて聞く演奏家だったが、まだ20歳のフランス人ピアニストで、いかにも「美少女ピアニスト」として売り出しそうな風貌だったが、演奏が始まると、力強く前進し続けるような迫力に圧倒された。5月にみたグリモーが、キャリアでは彼女よりずっと先行していても、ステージ上ではとても神経質で危うかったのとは対照的に、ドゥ・ラ・サールは堂々たるもので、モーツァルトの世界に集中して聴くことができた。

後半はモーツァルトの人気シンフォニーの40番41番だが、どちらも奇をてらわず、やや小編成のオケでオーソドックスな演奏を聞かせてくれた。41番の第4楽章は、「つらいことがあっても頑張ろう」という勇気をくれる、応援歌のような楽章だと勝手に解釈しているのだが、ヘレヴェッヘはアンコールではその楽章の一部を2回演奏した。別の曲をやらないところがヘレヴェッヘの朴訥とした雰囲気によくあっていたと思う。

6月29日には同じくシンフォニー・ホールで、ドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団によるブラームス・チクルス(全曲演奏会)の後半を聞いた。指揮者はスペイン出身の75歳の巨匠ラファエル・フリューベック・デ・ブルコスだった。ブラームスの交響曲第4番と第2番が曲目だったが、4番は以前、ボストン交響楽団で聴いた演奏がどちらかという不協和音と高音を強調する演奏だったのに対して、ドレスデン・フィルの演奏はごく伝統的なドイツ的なブラームスで安心して聴くことができた。新しい発見はないが、気持ちよくメロディを聴く感覚である。後半は、2番で、こちらは5月にフランクフルト放送響の熱演を聞いたばかりなので、率直に言って聞き劣りするのは否めなかった。また4番についても2番についても弦はいいのだが、ホルンやトランペットなどの金管楽器の演奏でやや不安定な部分があった。アンコールは予想通りの「ハンガリー舞曲第5番」で、確かにみんな知っていて喜ぶし、時間も短いので手ごろなのかもしれないが、たまには「悲劇的序曲」とか「大学祝典序曲」とか、同じブラームスでももっと聞きごたえのあるアンコールをして欲しいところだ。

夏休み前に行った最後のコンサートは7月13日のスイスのルツェルン交響楽団の演奏会(於 神戸文化ホール)で、率直に言って、あまり期待はしてなかったのだが、初来日の珍しいスイスのオーケストラであるし、近くのホールでチケットも安かったので行ってみた。曲目は、ウェーバーの歌劇「魔弾の射手」序曲、グリーク「ピアノ協奏曲」(ピアノ ニコライ・トカレフ)、ベートーヴェン「交響曲第7番」である。指揮は、フランクフルトのヤルヴィと同じくエストニアのタリン出身の37歳、オラリー・エルツで、眼鏡をかけた、憎めないオタク風の風貌で、一生懸命指揮するのが微笑ましかった。

スイスのルツェルンはワーグナーもお気に入りの音楽都市として有名で、ルツェルン音楽祭のためのルツェルン祝祭管弦楽団は戦前のフルトヴェングラーとか、戦後のカラヤン、最近ではアバドといった錚々たる指揮者が指揮しているのだが、今回聞いたルツェルン交響楽団は、歴史は長いがどちらかというと脇役的な存在だったようだ。しかし演奏は期待をはるかに上回る充実したものだった。

ウェーバーの序曲を危なげなく終えた後のグリークだが、ソリストは、25歳のロシア出身のイケメン・ピアニスト、ニコライ・トカレフで、明らかに彼目的で来ている聴衆も多かったようだ。ルックスだけでなく、演奏も完璧で、テクニックを誇示するところはこれ見よがしに誇示し、弱音部は弱音で美しく鳴らして、もともと芝居がかった通俗性のある、このグリークの曲をとても効果的に演奏していた。バックのオーケストラもそれをよく支えていた。後半のベートーヴェン交響曲第7番は、3月のBBCフィルで聴いたばかりで、こちらも別の曲を聞きたいところだったが、エルツの溌剌とした指揮のもと、明るいベートーヴェン像を提示して楽しく聞くことができた。ドレスデン・フィルで感じた管セクションの不安定さもなく、安心して音楽に浸ることができた。コスト・パフォーマンスが高い演奏会だった。

ヴァイオリン協奏曲は聞くことができなかったが、2008年の前半は、ベートーヴェン、モーツァルト、グリークの人気ピアノ協奏曲を、いずれも華のあるピアニストの演奏で聴くことができたし、イギリス、ドイツだけでなく、ベルギーやスイスといった、あまり普段は聞けない国のオーケストラの演奏を聴くことができて、充実していた。アルバン・ベルク四重奏団は解散する前にもっと聞いておくべきだったのだけが残念だが、お別れコンサートに参加できただけでもよかったと思う(写真は指揮者のパーヴォ・ヤルヴィ)。



最新の画像もっと見る