紅旗征戎

政治、経済、社会、文化、教育について思うこと、考えたこと

声高な黙殺

2006-10-16 23:50:17 | 政治・外交
小学生時代、国語の時間には毎週のように作文を書かされていた。上手な作文は印刷されて、生徒全員に配られたが、私の文章が載ることはなかった。毎回のように載っていた同級生の女の子の作文を読んでいると、与えられるのはいつも違ったテーマなのに、コンスタントに同じように感動して、しかもそれをうまく言葉に表現にできるものだと感心していた。

ただ一度だけ私の作文が載ったことがあった。それは沖縄戦を背景にした灰谷健次郎の『太陽の子』の芝居を見た後の感想文だった。以前、沖縄に旅行したこともあり、素直にその反戦小説に感動して、気持ちを綴ったのが評価されたようだった。小学校時代に載ったのは確かその一回きりだったと思う。心から怒ったり泣いたり、感動しないと真に迫った文章は書けなかった。作文書きとしては不器用だったのだ。その時だけまともな?作文になったのは、素朴ながらそれだけ反戦の気持ちや世の中から戦争をなくしたいという思いが強かったからなのだろう。

政治や国際関係に中学生の頃から関心をもっていたのも、やはり戦争のない世の中を願う気持ちが強かったからだと思う。しかし、いつの間にか時は流れて、2003年のイラク戦争の最中に、アメリカ外交について講義で、私が学生の質問に答えて、主に説明していたのは、「なぜアメリカはイラク戦争を強行したのか」、「その政治的な理由や意味はどこにあるのか」、そんなことばかりだった。

国際法的にも暴挙に見えるイラク戦争に対して、学生たちは「何故だ」という思いが強く、毎回熱心に質問してくれたし、私も自分で調べたり、考えられる範囲で努力して、アメリカの立場や国際政治的な背景を説明していた。その一方で、イラクの戦場で現に何人もの人々が死んでいるのに、教室でもっともらしくアメリカの政治的立場や国際情勢を冷静に解説しているのは不道徳ではないか、という思いに苛まれた。『太陽の子』に素直に感動して、戦争をなくしたいと思って、政治を勉強した自分が、政治学をアメリカで学んだ結果として、いつの間にかアメリカ政府の論理を代弁しているのに過ぎないのではないか、そうならないつもりでも結局、やっているのではないか。そう思って自己嫌悪に陥った。

その頃、もともとアメリカやブッシュ政権に批判的な論者たちは、勢いづいて、メディアや教室、学会などの場で、アメリカ帝国論やイラク戦争批判を展開していた。背景や事実関係を詳しく調べることもなく、堂々と語る、彼らの歯切れのよさに比べたら、自分はいかにも歯切れが悪かったような気がしていた。イラク戦争は正当化できない戦争であり、それを批判するのは当然である。しかし、ただ批判するだけでなく、背景を知りたがっている学生たちに説明をするのはアメリカ政治研究者のはしくれとしての責務だと思っていたが、人間としての責務を果たしていたのか、いまだに反省している面もなくはない。

10月9日、まさに日中、日韓首脳会談と韓国・潘基文外相の国連事務総長選出内定にぶつけるようなタイミングで、北朝鮮が核実験の実施を世界に発表した。北朝鮮のミサイル発射時にはごたついた国連安保理も、今回はすばやいタイミングで14日には、対北朝鮮制裁決議をまとめた。日頃は北朝鮮問題に発言が慎重なメディアやニュース・キャスターも今回の核実験に関してはおおむね厳しい論調であるようだ。

しかしそうでもないところもある。それが大学である。安倍首相が就任したとき、まだ何もやっていなかった段階で、就任反対のデモ行進が学内であった。英語の授業に向かう廊下の壁を埋め尽くした様々な団体のビラの数々は安倍首相やアメリカのイラク政策などを激しく批判したものばかりだが、北朝鮮の核実験やミサイル発射に抗議したものは一枚もない。署名活動や政治的なアピールが好きな組合も今回の核実験にはノー・リアクションである。いったい彼らにとっての「平和」とは、「軍縮」とは、「反戦」とは何なのであろうか?北朝鮮の核実験を批判することは、自分たちが日頃、主たる批判の対象としているアメリカを利する「利敵行為」になるから、沈黙するしかないのだろうか?これでは唯一の被爆国でありながら、「社会主義国の核は『きれいな』核」といって、1965年に原水爆禁止運動の分裂を招いた愚を相変わらず繰り返しているようなものではないか。平和・反戦運動も所詮、党派的な運動に過ぎないのだろうか。改めてそんなことを考えさせられた。

アメリカのイラク戦争に授業や組合活動で猛反対する人が北朝鮮の核実験には沈黙する。その程度の「反戦」だったらいっそ発言しない方がいいのではないだろうか?以前、定年退官した同僚の一人が学生運動さかんなりし時代を振り返って、「いやあ反戦、反安保の運動を支持していたけど、運動をやっている人たちの行動や考え方についていけなくて、なかなか入ってゆけず、でも黙認もできなくて、私は詩を書いているくらいしかできなかったんですよ。情けないです」と語っていたが、「アメリカ大使館に石を投げた」とか「大学解体と革命を夢見て戦った」と「武勇伝」を語りながら、なぜか解体したはずの大学に残っている人たちよりもよっぽど正直で誠実に見えた。

「イラク戦争もダメだが、北朝鮮の核実験もダメだ!」。おそらく一般の人たちの感覚はそうなのだろうが、中途半端に政治的な学者や教師はなぜそう言えないのだろうか?


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