紅旗征戎

政治、経済、社会、文化、教育について思うこと、考えたこと

あしたのために

2007-07-21 19:17:55 | マンガ
放置しっぱなしだったブログもいったん復活しようと思い、つなぎで詩を載せたりしたのだが、そのまま書けないまま一月があっという間に過ぎてしまった。今学期は忙しすぎた。ようやく授業が終わり、講義の準備からひとまず解放されたので、時々また文章を書いてゆきたいと思う。

以前からブログで書いてみたいと思っていた話題の一つに、往年の名作漫画『あしたのジョー』がある。しかし、『ジョー』論は巷に溢れているし、自分で上手く書けそうもないので、そのままになっていた。先日、研究室を訪ねてきたゼミのK君と談笑して、たまたま『あしたのジョー』の話題で盛り上がった。

『あしたのジョー』は少年時代に主にTVアニメで夢中になった漫画で、ジョーがきっかけでボクシングに興味をもち、その延長線上で、『ロッキー』シリーズも全て見た。原作漫画が『少年マガジン』に連載されていたのは私が生まれる前で、その頃、青春時代だった人はもう還暦を迎える位の古い漫画である。私がTVアニメで見ていたのは、続編的な『あしたのジョー2』で、主人公の矢吹丈が最大のライバルである力石をリングの上で死なせてしまったショックから低迷していたのから精神的に立ち直り、世界チャンピオンを目指して、過酷な減量を経ながら、戦い続けていくストーリーだった。一般的には、少年院の問題児であったジョーが力石と戦うまでを描いた『あしたのジョー1』 の方が評価が高いのだろう。

K君も『あしたのジョー1』の方を評価しているようで、「『2』はいらなかったのでは?力石が死んだ時点で終わらせたほうがよかった」と言っていた。『2』は結局、ジョーを死なせるために付け足された話のような気がして嫌なのだという。次から次へとライバルが登場する『2』の展開が、漫画的だという。私自身は、チャンピオンを目指して、上り詰めていく『2』に凝縮された、栄光と破滅のストーリーに魅せられていたので、K君の言葉は軽くショックだったが、その方が「大人の見方」だなあと感心すると同時に、小説にしても漫画にしても共通の読書体験があるのは話していて面白いなと改めて感じさせられた。

アメリカ愛国主義丸出しのマッチョな映画として批判されがちな『ロッキー』シリーズも私は大好きで、留学時代に落ち込んでいる時は、特に『ロッキー4』のヴィデオを見て、何度も励まされた。しかし同じボクシングでも『ロッキー』と『あしたのジョー』とで決定的に違うのは、後者が過酷な減量など、極度にストイックな青春を描いている点である。ロッキーは生涯の伴侶となるエイドリアンを得て、二人三脚、いや、エイドリアンの兄も含めて、三人で戦い続けるが、ジョーは、ジョーに好意を寄せる紀子にも、また屈折した形だがジョーを愛した白木葉子の気持ちにも応えることなく、ただボクシングに邁進する。

ジョーはバンタム級のボクサーだが、成長期であるために身長も伸び、体重も増えている。バンタム級の東洋チャンピオンである金竜飛戦を控え、計量をパスするため、ジョーは無理な減量を重ねることになる。水も飲めない減量を続けていたある日、ランニングを終えたジョーが、公園の砂場に落ちていたみかんを思わず夢中で拾う場面がある。そのみかんは皮だけで、中身はない。それを見ていたトレーナーの丹下段平が、「ジョーよ、それは皮だけだよ、おまえはよくやったよ。皮だけのみかんにしゃぶりつくようじゃ、おしまいだ、実がたっぷり入ったのはこっちにあるよ。もういいからこれを食え」と慰めるのだが、みかんを受け取ったジョーはそれを地面に叩きつける。「ジョーのパンチ力があれば、無理にバンタムに拘らなくても、フェザー級でも十分、やれる」と段平は説得し続けるのだが、ジョーは「バンタムは、力石が命を懸けて降りてきた階級だから、自分もそこから逃げない」と言って、耳を貸さない。ひたすらボクシングで勝つことだけに専念して目標を下げず、文字通り身を削って、戦い続ける姿が美しく、苦しくても努力するのが青春だと憧れもした。

こう書いてくると、『あしたのジョー』を読んだり、見たりしたことのない人は、同じ梶原一騎原作の『巨人の星』と同様のスポ根モノなんだなと思われるかもしれないが、『巨人の星』は「球界の盟主」巨人軍のエースという強烈な組織イデオロギーを体現しているので、段平と二人っきりで、「泪橋を逆さに渡」ろうとしたジョーの孤独な戦いとは相当、違った世界になっている。再放送で何度か見た『巨人の星』もそれなりに面白かったが、家父長制的な旧弊なドラマに見える面も多々あって、ジョーほど魅かれなかった。

ジョーはトレーナー・段平の操り人形ではなく、段平に夢を見させる自立した存在である。『あしたのジョー2』ではなく、1で出てくるエピソードだが、古いタイプの「拳闘屋」である段平は、「近代ビジネス」としてのボクシングを目指す日本ボクシング協会から締め出されており、丹下ジムはライセンスをもてない立場だったが、ジョーは協会が売り出し中の新人王ウルフ金串に殴り込みをかけ、クロスカウンターを決める。協会としても新人王と互角の力をもつボクサーがいるジムにライセンスを交付しないわけにもいかず、見事、ジョーはプロへの挑戦権を獲得する。「権威」と素手で戦い、実力で認めさせる。自分の所属しているジムが弱小であることを言い訳にせず、黙ってライセンスを勝ち取り、段平にプレゼントするジョーの姿はひたすら格好がよかった。

ストーリー後半は葉子とジョーのドラマでもある。ジョーを愛し始めたことに気付いた白木葉子は、ジョーにパンチドランカーの兆候があることを感じて、世界チャンピオン・ホセ・メンドーサとのタイトル戦をやめさせようと奔走するが、ジョーは一切、取り合おうとしない。ジョーに会うことも、電話することもできない葉子が最後にやっとジョーをつかまえるのは、チャンピオン戦開始直前の控え室である。葉子は、ジョーがパンチドランカーであることを告げると同時に、たまらずに愛を告白するが、ジョーは取り合わず、「世界一の男が俺を待っているから」といなして、リングに上がる。試合を見ていられず、いったんは会場を車で後にする葉子だが、再び戻り、リングサイドで応援する。ジョーが逃げないなら、自分も逃げないということなのだろう。12ラウンドの死闘の後、ジョーは「葉子、いるか?もらってくれ」と言って、血だらけのボクシング・グローブを渡す。ジョーが葉子のことを愛していたのかどうかは不明だが、命の代わりのグローブを最後に葉子に託す。古典的なドラマとしての美しさがここにある。

実際のボクシング界は、昨年、話題になった亀田三兄弟にしても、元世界チャンピオンによる度重なる犯罪にしても、『あしたのジョー』で美化されているようなストイックな世界からは程遠い。また漫画で描かれているような派手なKO戦よりも、地味な判定勝負が多く、かつ判定は地元有利である。『あしたのジョー』は、ボクシングを題材としながら、ボクシング界をリアルに描いているから人気があるわけではないのだろう。世界や権威に対して、わき目も振らずに挑戦し続け、その努力は一切惜しまず、試合では凶暴でありながらも、周囲の人間に対しては-段平にも、近所の子供にも、ライバルだったカルロスにも、また紀子や葉子にも-彼なりの不器用なやさしさを示す、ジョーの純粋な生き方の魅力で多くの読者や視聴者を惹きつけてきたのに違いない。

ジョーの生き方に憧れて10代や20代を過ごして、いつの間にか齢を重ねてきたが、今では体重も増えて、組織にも権威にもむしろ守られて、クロスカウンターも決めれずに、毎日、過ごしている。30代になって働き始めて、地味な歯車として生きることの方が大人としてカッコいいことでもあり、難しくストイックでもあると、多少理解できるようになったが、流されず、計算せず、ただその瞬間だけを大切にひたむきに生きる美しさを思い出せてくれる、ジョーの世界をこれからも心の中では大事にしていきたいと改めて思った。

反体制アニメと家族像

2005-02-12 16:03:04 | マンガ
子供は大人が「やるな」ということをやるのが好きである。いや実は大人もやっちゃいけないことをやりたいのかもしれないが、仕事や家族、様々な制約でやりたいようにできないだけなのかもしれない。

子供向けのアニメを作るのは容易ではないだろう。あまり反社会的なことを描いたら、「子供が真似をしかねないから教育的に良くない」、「やめてほしい」といったクレームがPTAなどから寄せられるだろう。かといって品行方正な子供や家族を描いて、文部科学省推薦のアニメを作っても当の子供たちは喜ばないだろう。その意味で日曜日の夜放送されている『サザエさん』や『ちびまる子ちゃん』といった番組は、基本的に品行方正な家族を描きながら、しかも高視聴率をとっているのはすごいことなのかもしれない。一方で、『クレヨンしんちゃん』のように本来、大人向けの漫画が子供向けのTVアニメになったものが今日的で子供の人気を得ているのも当然だろう。

1年生向けの基礎演習の時間に、アメリカの人気アニメ『ザ・シンプソンズ』と『キング・オブ・ザ・ヒル』の1エピソードを見せて、そこに描かれている家族像と社会像を日本の場合と比較してもらった。学生から、「日本と違って、大人が子供のような悪いことをしている」「家族団らんでなければならないという規範意識が乏しい」「社会風刺が多い」「描かれている世界が反社会的だ」といった感想が多く寄せられた。この『シンプソンズ』は日本のケーブルテレビでもWOWOWやフォックス・ジャパンなどで放映され、よく知られるようになった。最近出版された橋本二郎『固有名詞を通じて見たアメリカン・イメージ連想事典』(研究社)でも、「90年代反体制文化の象徴としての家族像を、ブラックユーモアをまじえ、社会風刺的に描いたアニメーション」と紹介している。実際、見ていると原子力発電所に勤める、子供顔負けのいたずら好きの父親ホーマー、いたずら好きの息子バート、家族思いの母親マージ、天才児で常識的な妹のリサ、とキャラクターを並べているとどっかで聞いた話だと思い出す。そう、日本の70年代のギャグ漫画『天才バカボン』である。

学生たちはアメリカ・アニメの子供のような父親と反体制的な風刺ストーリーに驚いたようだが、『バカボン』はまさにその世界である。『バカボン』は、レレレのおじさんやうなぎイヌ、といったシュールなキャラクターが出てくるナンセンス・ギャグと思われがちだが、学生運動や当時のウーマン・リブ運動、連合赤軍浅間山荘事件、最後の日本兵・横井庄一さん帰還といったその時代背景を明らかにパロディ化したエピソードが多く、ピストルを不必要に連射する「めんたまつながりのお巡りさん」が「暴力は国の宝です」と言うのに対して、バカボン・パパが「警察は国民がお金を出し合って飼っているのだから、国民にピストルをむけてはいけないのだ」というようなドキリとするような権力批判の台詞吐いたりする、社会風刺色が強い漫画である。4回テレビアニメ化されたが、原作のコミック版と違って、しかも時代が下るごとに風刺色は薄れて、ただバカボン・パパのナンセンスな行動を笑う、比較的無害な子供向けのアニメになってきた。

子供たちもニュースを見るし、世相の影響を受けている。社会派ギャグが子供にとってつまらないものとは限らないし、成長してからそのギャグの意味に気づくこともあるだろう。波平が愛する盆栽のような『サザエさん』の世界を保護していくのもいいが、批判精神を刺激する『ザ・シンプソンズ』、『天才バカボン』的な子供アニメがもっとあってもいいような気がする。ただハチャメチャで、外の世界とは摩擦を起こしているように見えても、いずれの家庭も家族同士はとても暖かいのが救いで印象的だ。(イメージの左はバカボン、右はシンプソンの家族)